第38話 聖夜の休息
冬休みに入り、街は一気に華やいだ空気に包まれていた。
どこへ行ってもクリスマスソングが流れ、赤や緑の装飾が視界を彩る。だが、アパートの一角、俺たちの部屋だけは、そんな喧騒とは無縁の「戦場」と化していた。
雫は俺が提案した「ルール」に従い、規則正しい生活を送ってはいるものの、彼女の瞳からはかつての柔らかさが消え、代わりに鋭利な刃物のような光が宿っていた。
俺の部屋での合同勉強会でも、彼女は一切の無駄口を叩かず、ただ黙々とペンを走らせる。
「……雫。そこまでだ。一度、顔を上げろ」
十二月二十四日。世間がクリスマスイブに浮き足立つ日の、午後二時。
俺は、参考書を睨みつける雫の頭を、ポンと軽く叩いた。
「……何かしら、悠真君。今、物理の演習が佳境なのだけれど」
雫は視線すら上げずに答える。
「佳境なのはわかってる。でも、今日はもう勉強は終わりだ」
「……え?」
雫がようやく顔を上げた。その瞳には、深い困惑が浮かんでいる。
「何を言っているの? 冬休みのこの時間が勝負だって、悠真君も言ってたじゃない。……休んでいる暇なんて、一秒もないわ」
「効率が悪い。今の雫は、根詰めるあまり思考が硬直してる。……いいか、雫。今日はクリスマスイブだ。ルールには『休み』も必要だって書き足しておいたぞ」
俺は、壁に貼ってあった「決め事」の紙に、先ほどこっそり書き足した『十二月二十四日は、全力でクリスマスをすること』という項目を指差した。
「……全力で、クリスマス?」
「ああ。雫が頑張ってるのは、俺が一番よく知ってる。だからこそ、今日は一日だけ息抜きをしよう。二人でパーティーだ」
雫は呆然とした様子で俺を見つめていたが、やがて、凍りついていた顔がゆっくりと解け、ふわりと力なく笑った。
「……実を言うと、毎日勉強ばかりで限界だったの。悠真君とクリスマスパーティーができるなんて……私、すっごく嬉しい!」
雫はそう言うと、まるで魔法が解けたかのように、パッと表情を輝かせた。その子供のような素直な笑顔を見て、俺の心もふっと軽くなる。
というわけで、俺たちは暖かい服で完全防備し、いつもの激安スーパー『アキバ屋』へと向かった。
冬の空気が頬を刺すが、並んで歩く雫の足取りは、いつになく軽い。
「おっ! いらっしゃい、新婚さん! 今日は奮発するのかい?」
レジのおばちゃんが、サンタ帽を被りながら元気よく声をかけてきた。
「ええ、今日はクリスマスですから。……あの、タイムセールの鶏肉はまだありますか?」
「あるよ! 奥の方にまだ骨付きが残ってる! あんたたちには内緒でシャンメリーを一本サービスしちゃうよ!」
「ありがとうございます、おばちゃん!」
雫がおばちゃんと楽しそうにやり取りをしている。
彼女はもう、スーパーでの買い出しを「効率的な調達」ではなく、「悠真との楽しいイベント」として楽しんでいる。その変化が、俺には何よりも嬉しかった。
カゴに入れたのは、激安の国産骨付き鶏もも肉、生クリーム、イチゴ、そして出来合いのスポンジケーキの土台だ。
「ケーキはオーブンがないから作れないけど、デコレーションなら俺たちの部屋でもできるだろ?」という提案に、雫は「お嫁さん修行の腕の見せ所ね!」と目を輝かせていた。
帰宅後。俺たちの「戦場」だったキッチンは、瞬く間に「聖夜の準備室」へと変わった。
「よし。まずはチキンだ。雫、見てろよ。安い肉でも、下処理次第で絶品になるんだ」
俺は鶏肉の皮目をフォークで突いて味を染み込みやすくし、醤油、はちみつ、おろしにんにく、そして赤ワイン(料理用)を混ぜた特製のタレに漬け込む。
フライパンでじっくり、皮目から焼いていく。ジューッという小気味いい音と共に、甘辛い香りが部屋中に広がった。
「……いい香り。……これだけで、お腹が鳴ってしまいそうだわ」
「はは、まだ早いって。次は雫の番だぞ」
俺は焼き上がったローストチキンを皿に盛り、雫に生クリームとスポンジケーキを託した。
雫はエプロンをきゅっと締め直し、ボウルに向かう。
「任せて。……ホイップクリームね。……私の情熱を、この泡立て器に込めるわ!」
「……雫、泡立て器を全力で振り回すとクリームが飛び散るから。優しく、でも素早く、だぞ」
「……う、……意外と重いわね。……ああ、腕が……」
雫は案の定、五分も経たないうちに息を切らしていた。
だが、彼女は「代わろうか?」という俺の申し出を断り、必死に手を動かし続けた。
やがて、なんとか角が立つまで泡立ったクリームを、彼女は慎重にスポンジに塗り広げていく。
「……どうかしら。……少し、地滑りを起こしているような気がするけれど」
見れば、ケーキの上には、真っ白なクリームの断崖絶壁が築かれていた。
均一に塗るという技術は、彼女にはまだ早すぎたらしい。だが、その上に彼女が震える手で並べたイチゴたちは、どこか楽しげに躍動していた。
「うん。……雫らしい、独創的なケーキだ」
「……『独創的』。……それは、お料理においては褒め言葉かしら?」
「ああ。世界に一つだけの、最高のケーキだよ」
俺がそう言うと、雫は満足そうに微笑み、最後の一粒のイチゴを中央に添えた。
こたつの上に並べられた、黄金色のローストチキンと、少し歪な手作りケーキ。
そして、コップに注がれたシャンメリー。
「メリークリスマス。……乾杯」
「メリークリスマス、悠真君」
チキンを一口食べた雫が、目を丸くして感嘆の声を上げた。
「……美味しい! ……信じられない。あんなに安かったお肉が、どうしてこんなに柔らかくて、深い味がするの?」
「はちみつで肉を柔らかくして、じっくり弱火で火を通したからな。……雫が頑張って切った付け合わせの野菜も、いい味出してるぞ」
「……ええ。……私、お勉強をしている時より、今の方がずっと頭が冴えている気がするわ」
二人で笑い合いながら、食事を楽しむ。
学年一位という重圧も、今はどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
この温かな光景こそが、俺たちが守り抜かなければならない「本当の居場所」なのだと、改めて実感する。
食事が終わった後、俺は自分のクローゼットの奥から、こっそり隠しておいた袋を取り出した。
「……雫。これ、クリスマスプレゼント。……たいしたものじゃないけど」
「……えっ?」
雫が驚いたように瞳を揺らす。
受け取った包みを、彼女は壊れ物でも扱うような手つきで丁寧に開けた。
中から現れたのは、淡いブルーの、落ち着いたデザインの手袋だ。
裏地には柔らかなファーがあしらわれていて、見るからに温かそうだった。
「……雫と一緒に登校した時、お前の手がすごく冷たかったから。……これからもっと寒くなるし、指先が凍えてたらペンも握りづらいだろ?」
「悠真君……」
雫は手袋をそっと頬に当て、その感触を確かめるように目を閉じた。
そして。
彼女はハッと何かに気づいたように顔を上げると、みるみるうちに瞳に涙を溜め、肩を震わせ始めた。
「……ごめんなさい。……悠真君、私……最低だわ」
「え? どうしたんだよ急に」
「私……お勉強のことばかり頭にあって。……今日がクリスマスだってことすら、あなたが言ってくれるまで忘れていたの。……プレゼントも、何も……用意していなくて……。……せっかくの聖夜なのに、私、あなたに何も返せない……っ」
雫は、手袋を抱きしめたまま俯いた。
俺は、彼女の隣に座り直し、その細い肩をそっと抱き寄せた。
「……バカだな、雫。俺は、ただ頑張ってる雫に、何か贈り物をしたかっただけなんだ。プレゼントなんて気にしなくていい。雫の喜ぶ顔が見られれば、それが俺への一番のプレゼントだよ」
「……悠真君……」
雫は、俺から離れると、まだ少し震える手で、もらったばかりの手袋に手を通した。
「……温かいわ。……悠真君の手のひらみたい…。私、この手袋と一緒に、絶対に一位を守り抜いてみせる」
彼女は手袋越しに俺の手を握りしめ、幸せそうに微笑んだ。
「……ありがとう、悠真君。……」
そんな雫を見て、俺は喉元まで、「大好きだ」という言葉がせり上がってきた。
けれど、俺はそれをぐっと飲み込んだ。
「……ああ……、喜んでくれて良かった……。さあ、ケーキを食べよう。雫が頑張って作ってくれた、最高のケーキだろ?」
「ええ……! ふふ、地滑りしちゃう前に、二人で全部食べ尽くしましょう!」
俺たちは寄り添い合い、少し甘すぎるケーキを口にした。
ホワイトクリスマス。
窓の外では、静かに雪が降り始めていた。




