第37話 伝えそびれた三文字
放課後。いつもなら二人で賑やかに買い物をして、キッチンで騒いでいた時間は、静かな「戦闘準備」の時間へと変わった。
俺は約束通り、栄養バランスと雫の好みを両立させた「試験対策メニュー」を手際よく作り、彼女に食べさせる。
雫は、食事が終わると「ごちそうさま。……一時間後に、お邪魔するわね」と言って、一度自分の部屋へ戻る。
俺たちの夜には、二つのパターンができた。
まず、合同勉強会がある日。
週に三回、雫が「今日は一緒勉強したい」と言ったり、俺が「ここがどうしても分からない」と泣きついたりする日に設定している。
午後八時。俺の部屋のドアが控えめにノックされる。
「……失礼するわ、悠真君」
参考書とノートを抱えた雫が、いつものでリラックスした部屋着姿で現れる。
俺たちはこたつに向かい合い、座る。そこにあるのは、甘い会話ではない。ただ、カツカツとシャーペンが紙を叩く音と、ページを捲る音だけ。
「……悠真君。そこの因数分解、展開の仕方が非効率だわ。もっとエレガントに解きなさい」
「……エレガントって。……雫、ここはこうでいいのか?」
「ええ。……そうよ。その調子で次の問題もやってみて」
雫に教えてもらいながら勉強するのは、正直、どんな塾に通うよりも分かりやすかった。
彼女は教えることで自分の知識を再確認し、俺は彼女の隣にいるために必死で食らいつく。時折、ふとした瞬間に目が合うと、彼女は照れくさそうに微笑み、またすぐにノートへと視線を落とす。
集中が途切れそうな時、隣に彼女の気配があるだけで、不思議と「もう一問だけ」とペンを握る力が湧いてきた。
そして、合同勉強会がない日。
それは、雫も俺も自分の弱点補強に集中するための、完全な「個の戦い」の時間だ。
午後八時を過ぎても、俺の部屋のチャイムは鳴らない。
隣の部屋からは、物音一つ聞こえてこない。壁一枚を隔てた向こう側に彼女がいると思うと、その静寂が妙に重く感じられる。
(……今頃、雫も必死に自分の課題と向き合ってるんだな)
俺も自分の机に向かい、ペンを走らせる。
一人の夜は、どうしても「雫は大丈夫だろうか」「無理をしていないだろうか」という不安が頭をよぎる。そんな時、時々俺はスマホを手に取り、短いメッセージを送る。
姿は見えなくても、その微かな振動が、俺たちの絆を確かめる儀式のようになっていた。一人の時間は寂しいが、その孤独さえも「一位を守るため」という共通の目的のための投資だと思えば、不思議と背筋が伸びた。
どちらの夜であっても、一日の終わり、約束の午後十一時になると、俺は厳しく「終了だ」と告げる。合同勉強会の日なら直接、そうでない日なら通話で。
「……もう少し。あと大問一つだけ……」
「ダメだ。睡眠時間を削るなと言っただろ。……ほら、今日はもう寝ろ」
「……ん。……わかったわ、悠真君」
雫は名残惜しそうに荷物をまとめ、ドアの前で立ち止まる。
「おやすみなさい、悠真君。……また明日」
「ああ、おやすみ。雫」
彼女が少し名残惜しそうに自室へ戻っていった後。
静まり返った部屋で、俺は一人、出しっぱなしにしていた参考書を閉じる。
こたつの中には、まだ彼女の体温が微かに残っていた。
ついさっきまで隣で彼女が放っていた、あの石鹸のような、どこか甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「……ふぅ」
大きく伸びをして、俺は自分の胸に手を当てた。
心臓が、少しだけうるさい。
最近の俺たちは、周りから見れば「新婚夫婦」のような空気感になっている。学校でも堂々と手を繋ぎ、家ではこうして将来のために机を並べている。
雫も、俺のことを「未来の旦那様」だと言い、将来は「お嫁さんになりたい」とまで口にしてくれている。
……けれど、ふと思った。
(俺……雫に、ちゃんと言ったっけ?)
頭の中に、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。
腹ペコだった彼女をチャーハンで餌付けしたあの日。
父親の支配から彼女を奪い去ったあの夜。
そして、学校での公開恋人宣言。
彼女の孤独を温かい料理で溶かし、その歩みを一番近くで支え、お嫁さんになろうと必死に包丁を握る彼女の隣を、俺はずっと独占してきた。
……でも、一番肝心な、男としての「言葉」を、まだ口にしていないんじゃないか。
「……待てよ。まさか、一回も言ってないのか……?」
背中に嫌な汗が流れた。
「大切だ」とか「ずっと隣にいたい」とか、そんなニュアンスのことは言った気がする。
けれど、直球ど真ん中の――『好きだ』という三文字を、俺は彼女に伝えた記憶が、どこを探しても見当たらないのだ。
「うわ……マジかよ。俺、最低じゃないか……?」
一度気づいてしまうと、もう居ても立ってもいられなくなった。
雫はあんなにストレートに好意をぶつけてくれているのに、俺は「お世話係」の延長線上の顔をして、彼女の想いに甘えていたんじゃないだろうか。
今すぐ隣の部屋に行って、ドアを叩きたい衝動に駆られる。
今ならまだ、彼女も起きているはずだ。
「雫、言い忘れてたけど、好きだ!」……いや、流石に夜中にそれは不審者すぎるか。
「……あー、ダメだ。今は集中しなきゃいけない時なのに」
俺は顔を両手で覆い、机に突っ伏した。
雫が人生を賭けて挑んでいるこの試験の真っ最中に、そんな色恋沙汰の爆弾を投げ込むわけにはいかない。
もし今伝えて、彼女が浮足立ってケアレスミスでもしたら、それこそ取り返しがつかないことになる。
「……我慢だ、佐藤悠真。……今は、彼女を支えることに徹しろ」
俺は自分に言い聞かせるように、強く拳を握りしめた。
でも、決めた。
この試験を乗り越えて。
雫が、自分の力で「一位」という居場所を守り抜いたその時に。
いや、試験が終わった後にしよう…
一人の男として、彼女にちゃんと伝えよう。
俺がどれだけ、彼女のことを愛おしく思っているか。
泣き虫で、甘えん坊で、一生懸命な『氷室雫』のことが、死ぬほど好きなんだということを。
「……よし。……やるぞ」
俺は再び、閉じたばかりの参考書を開いた。
試験が終わるまでは、この想いは胸の奥深くに閉まっておこう。
その分、今は彼女を支えるための知識を、一つでも多く頭に詰め込む。
隣の部屋。壁の向こうでもう寝ているはずであろう彼女に、心の中でエールを送る。
(待ってろよ、雫。……試験が終わったら、俺の気持ちをちゃんと言葉にして伝えるから)
冬の深夜。冷え込んだ部屋の中で、俺の心だけは、こたつよりも熱く燃え上がっていた。




