第36話 悠真の「決め事」
東郷瑛太の宣戦布告から数日。
俺たちの周囲の空気は、目に見えて変わってしまった。
学校での雫は、以前に戻ったような近寄りがたいオーラを放っていた。
休み時間、佐々木さんたちが「雫ちゃん、今度のアレなんだけど……」と楽しそうに話しかけても、彼女は教科書から目を離さず、「ごめんなさい、今は時間が惜しいの」と、鈴を転がすような、けれど冷徹な声で一蹴してしまう。
佐々木さんたちは寂しそうに顔を見合わせ、俺に助けを求めるような視線を送ってくるが、俺にもどうすることもできなかった。
今の雫は、誰の言葉も届かない深い氷の底に、自ら潜り込んでしまっている。
そしてその影響は、俺たちの「聖域」である二人の時間にも及んでいた。
「……雫。塩と砂糖を間違えてるぞ」
俺のキッチン。
並んで立っている雫の手元を見て、俺は思わず声を上げた。
彼女はビクッと肩を揺らし、虚ろな瞳を俺に向ける。その瞳の下には、昨日まではなかった薄い隈が浮かんでいた。
「……あ。…………ごめんなさい」
「いや、いいよ。雫、今日はもう休め。顔色が悪い。……料理も、当分は俺が全部作るから、雫はお嫁さん修行は休みにして勉強に集中しろ」
俺は彼女の負担を少しでも減らそうと、良かれと思ってそう言った。
だが、その言葉が、追い詰められていた彼女の「逆鱗」に触れてしまった。
「……どうして?」
雫の手が、ピタリと止まる。スプーンを握る指先が白くなるほどに力がこもっていた。
「どうしてそんなことを言うの、悠真君。……私が、足手まといだから? 料理もできない、テストの順位も落ちかけている私には、あなたの隣に立つ価値さえないと言うのかしら」
「そんなこと言ってないだろ! 俺はただ、お前が心配で……」
「心配なら、私を一人にしないで! 私が完璧でなくなれば、お父様は私を連れ戻しに来る。……学年一位を守って、かつ『お嫁さん』としても完璧でいなければ、私はここにいられないのよ!」
雫の叫びが、狭いキッチンに響き渡った。
彼女の瞳には、涙が溜まっている。けれど、その涙は悲しみというより、恐怖と焦燥からくるものだった。
彼女は、東郷の言葉に、そして父親の呪縛に、再び支配されてしまっている。
「完璧」でなければ捨てられる。その恐怖が、せっかく溶けかけていた彼女の心を、より強固な氷で包み直してしまったのだ。
「……雫」
俺は無理やり彼女の手からスプーンを取り上げ、調理台に置いた。
そして、震える彼女の肩を両手でしっかりと掴む。
「……落ち着け。今のままじゃ、テストの前に雫の心が壊れる。……東郷に勝つためにも、今のままのやり方じゃダメだ」
「……っ。……でも、私は……」
「わかってる。だから、ルールを決めよう」
俺は彼女をソファに座らせ、自分もその隣に座った。
これは、彼女の自由を守るための、そして俺たちの未来を守るための「戦術会議」だ。
「雫。学年末考査まで、以下のルールを守ってもらう」
俺は紙とペンを取り出し、迷いなく三つの項目を書き込んだ。
「一つ。お嫁さん修行――つまり雫がメインでお弁当や夕食を作るのは、週に一回だけにする。他の日は俺が作る。……栄養管理も俺の仕事だ」
「……そんな、私だけ楽をするなんて……」
「二つ。夕食が終わったら、速やかに自分の部屋に戻ること。……ダラダラ過ごさず、集中して机に向かう時間を確保するんだ」
「三つ。……これが一番大事だ。睡眠時間を削らないこと。最低でも六時間は寝ろ。クマを作った雫なんて、東郷に笑われるだけだぞ」
雫は紙を見つめ、唇を噛んだ。
「……嫌よ。そんなの、悠真君と一緒にいる時間が、ほとんどなくなってしまうじゃない。……寂しいわ。一人の部屋で、ただ教科書と向き合うだけなんて……。そんなの、あの『檻』にいた頃と同じだわ」
彼女の本音が漏れる。
強がっていても、彼女はまだ、一人で暗闇に立ち向かえるほど強くはない。
「……これは、雫を守るためのルールなんだ」
俺は努めて真剣な、厳しい声で言った。
「雫が一位から落ちたら、俺たちはもう一緒にいられない。……今の雫は、東郷と戦っているんじゃない。自分の恐怖と戦って自滅しようとしてる。……俺を信じろ。このルールを守ることが、一番確実に一位を守る方法だ」
雫は黙り込んだ。
俺の厳しい視線から逃げるように目を伏せ、長い睫毛を震わせる。
やがて。
雫は小さく溜息をつき、俺の書いた紙を指先でなぞった。
「……わかったわ。悠真君の言う通りにする。……私は、あなたと離れたくないから。……でも」
雫は顔を上げ、今度は彼女の方がペンを握った。
そして、俺の書いたルールの下に、二つの項目を書き足した。
「……私の条件も、聞いてくれるかしら」
「条件?」
「ええ。……一つ。土日のどちらかだけでいいわ。アキバ屋への買い物は、必ず一緒に行くこと。……あれは、私の唯一の息抜きなの。あなたと安売りのお肉を見て、おばちゃんと話す時間を奪わないで」
彼女らしい、ささやかな抵抗に、俺の頬が緩む。
「……ああ。それは約束する」
「二つ。……週に何度か、悠真君の部屋で勉強させて。……一人は、やっぱり寂しいの。悠真君のペンが走る音を聞きながらなら、私は誰よりも集中できる。……いいかしら?」
雫の瞳には、懇願するような色が混じっていた。
「氷の令嬢」としての誇りと、「一人の女の子」としての寂しがり屋な一面。その両方が、彼女の中で必死にバランスを取ろうとしている。
「……わかった。俺の部屋で勉強するのは構わない。でも、お前が自分の部屋で一人で集中する時間も必要だろ? ……だから、俺の部屋での勉強会は、週に二回だけにしよう」
俺がそう告げた瞬間、雫の顔からサッと血の気が引いた。
彼女は身を乗り出すと、俺の袖をぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で握りしめた。
「……二回!? 少なすぎるわ、悠真君! 一週間は七日もあるのよ? 残りの五日間、私はあの静かな部屋で、東郷君の足音に怯えながら一人で机に向かうというの?」
「いや、怯えるって……。でも、一緒にいすぎると、つい話し込んじゃったりして効率が落ちるだろ?」
「絶対に私語はしないわ! 質問する時以外、口も開かないし、あなたの呼吸の邪魔もしない! だから……せめて週に三回。……ううん、本当は毎日がいいけれど、譲歩して三回! 三回でいいから、あなたの隣にいさせて……お願い、悠真君……っ」
雫は今にも泣き出しそうな、捨てられた子猫のような瞳で俺をじっと見つめてくる。
……反則だ。そんな顔をされて、ノーと言えるほど俺の心臓は鋼鉄製じゃない。
「…………はぁ、わかったよ。週に三回な。その代わり、夜十一時までだぞ。一分でも過ぎたら、次の週は中止だ」
「ええ……! ありがとう、悠真君……!」
雫の表情がパッと明るくなった。さっきまでの氷のような絶望が嘘のように、彼女の頬に柔らかな朱が差す。
俺は照れ隠しに自分の頭を掻いた。
「……まあ、俺も雫に教えてもらいたいことがたくさんあるしな。一人で唸ってるより、お前に聞いた方が早いし、助かるよ」
「ふふ。ええ、任せてちょうだい。あなたの成績を上げるのも、お嫁さんの立派な務めだもの」
「……ありがとう、悠真君」
雫の表情に、ようやく僅かな柔らかさが戻った。
張り詰めていた糸が少しだけ緩み、彼女はソファに深く背中を預けた。
「……ごめんなさい、さっきは声を荒らげて。私、自分を見失っていたわ」
「気にするな。……雫が必死なのは知ってる。……でも、雫。忘れるなよ」
俺は彼女の冷たくなった手を、自分の両手で包み込んだ。
「お前はもう、一人で完璧を目指さなきゃいけない『人形』じゃない。俺がいる。友達だっている。……東郷に三点差まで詰められたのは、お前が弱くなったからじゃない。お前が『人間』になったからだ」
「人間……」
「感情があるから、不安にもなるし、ミスもする。……でも、誰かのために頑張ろうと思えるのも、人間だからだろ? 俺と一緒にいるために一位を獲りたいと思ってくれるなら、俺に頼ることも覚えてくれ」
雫の目から、今度は一粒の綺麗な涙が零れ落ちた。
それは凍りついた感情が溶け出した、温かい涙だった。
「……ええ。……そうね。私は、あなたの『お嫁さん』になるために、東郷瑛太を叩き潰してくるわ」
「……おう。……物騒な言い方だけど、その意気だ」
翌日から、俺たちの新しい生活リズムが始まった。




