第35話 ドア越しの肉豆腐
雫に友達ができてから、俺たちの日常は驚くほど色鮮やかになった。
学校の休み時間には佐々木さんたちと楽しそうに女子トークに花を咲かせ、俺の指導なしでも作れるお弁当のレパートリーも着実に増えている。
「今日はちくわだけじゃないわ。ほうれん草の胡麻和えにも挑戦したのよ」
そう言って、少し歪な形のおかずが入った弁当箱を誇らしげに見せる彼女の顔には、かつての「氷の令嬢」の面影なんて微塵もなかった。
俺と笑い合い、友達と騒ぎ、料理の腕に一喜一憂する。そんな、穏やかな日々がずっと続くのだと、俺はどこかで信じ切っていた。
……二学期末考査の結果が掲示板に貼り出される、その瞬間までは。
学期末特有の、解放感と緊張が入り混じった空気が廊下に満ちている。
人だかりを掻き分け、掲示板の前に立った俺は、まず自分の順位を確認した。
「お、あった。百五十二位……。相変わらず、真ん中の住人だな」
俺、佐藤悠真は自分の名前を中段のやや下に見つけ、小さく息を吐いた。可もなく不可もなく。平均を地で行く俺らしい順位だ。
だが、俺の目的はその下ではない。最上段、一番右端に刻まれた名前だ。
学年一位。
そこには当然のように、『氷室 雫』の三文字が君臨していた。
「……さすがだな」
思わず独り言が漏れる。だが、その隣に記された合計点数と、二位の名前を見た瞬間、俺の頬が微かに引き攣った。
一位 氷室 雫 486点
二位 東郷 瑛太 483点
その点数差は、わずか「三点」。
五教科五百満点のうちの、たった三点だ。マークミス一つ、あるいは記述の僅かな表現の差でひっくり返る、紙一重の勝利。
これまでの彼女は、二位に少なくとも十点、時には二十点以上の圧倒的な差をつけて独走していたはずだ。それが今回、ここまで詰め寄られている。
「……悠真君」
背後から声をかけられ、振り返る。
そこには、いつものように完璧な制服の着こなしをした雫が立っていた。けれど、その表情は「一位」を獲った者のそれではない。
彼女の白い指先は、返却されたばかりの成績表を握りしめたまま、小刻みに震えていた。
「一位、おめでとう。やっぱり雫はすごいな」
「……三点。三点しかないわ。……」
雫は俺の祝福を遮るように、低く、冷たい声で呟いた。
その瞳には、喜びの色など微塵もない。あるのは、崖っぷちに立たされた者が抱くような、暗い焦燥感だけだった。
「雫、そんなに気にすることな――」
「随分と余裕そうだね、氷室さん。……いや、今は『氷の令嬢』の皮を被った、ただの浮かれた女子高生かな?」
俺の言葉を割り込むようにして、鋭い声が響いた。
人だかりが割れ、一人の男子生徒が歩み寄ってくる。
細いフレームの眼鏡をかけ、知性的というよりは攻撃的なまでの鋭さを放つ瞳。東郷瑛太だ。
一年の頃から万年二位に甘んじている彼は、一位である雫を倒すことだけに執念を燃やす、学年屈指の努力家でもあった。
「東郷君……」
雫の声が、以前の「氷の令嬢」モードに戻る。他者を一切寄せ付けない、拒絶の壁。
東郷は掲示板の三点差を忌々しげに睨みつけると、雫の手元にある成績表――そこからはみ出した各教科の得点分布をチラリと見て、鼻で笑った。
「五教科の得点推移を見たよ。君、得意の理系科目で満点を逃したね。……信じられない。あんな基礎的な難易度の試験で、君が僕に肉薄されるなんて。以前の君なら、僕の入り込む隙など一ミリも作らなかったはずだ」
「……他人の成績を分析するのは、趣味が悪いわよ」
「分析するまでもない。掲示板を見れば、君が『鈍った』のは一目瞭然だ。……理由は、わざわざ口にするまでもないか」
東郷の視線が、雫の隣に立つ俺へと向けられた。
まるで路傍の石ころでも見るような、冷酷な蔑みの眼差し。
「佐藤君と言ったかな。君のような平凡な男と浮ついているせいで、彼女の『氷』は随分と溶けてしまったようだ。……無価値な情愛に絆され、完璧という誇りを捨てるとは。氷室雫も堕ちたものだね」
「……悠真君は関係ないわ。これは私の実力不足よ」
雫が俺を庇うように一歩前へ出る。だが、東郷は冷徹な口調で畳み掛けた。
「関係あるさ。集中力の欠如、時間の浪費。君が友達ごっこだの、お嫁さん修行だのという下らない遊びに現を抜かしているから、僕に三点差まで詰め寄られるんだ。……いいかい、氷室さん。今回の結果で確信したよ。君はもう、僕にとって絶対的な壁じゃない。ただの、恋に浮かれた『凡人』だ」
東郷は雫に顔を近づけ、宣告するように言った。
「次の学年末考査、僕は必ず君から一位を奪う。その時、君に何が残るかな? 完璧でなくなった君に、氷室の家が価値を見出すと思うかい? その隣の男とヘラヘラ笑っていられる余裕が、果たして残っているかな?」
「…………っ」
雫の顔から、一気に血の気が引いていくのがわかった。
東郷はそれだけ言い残すと、翻って去っていった。その背中には、次こそは「女王」を引きずり下ろすという強い執念が溢れていた。
周囲の野次馬たちも、嵐が去った後のように散っていく。
残されたのは、俺と、彫像のように固まった雫だけだった。
「……雫」
俺が彼女の肩に手を置こうとした瞬間。
雫が、ビクッと大きな反応を見せて、俺の手を拒むように身を引いた。
「……ごめんなさい。……悠真君。私……少し、一人になりたいわ」
「え、でも……」
「お願い。……今は、誰とも話したくないの」
雫は俯いたまま、早歩きでその場を去っていった。
俺は、彼女を追いかけることができなかった。
なぜなら、彼女が去り際に見せた表情――それは、出会ったばかりの頃の、あの絶望に満ちた「氷の令嬢」の顔そのものだったからだ。
その日の夜。
俺のアパートの隣室、雫の部屋からは、何の音も聞こえてこなかった。
いつもなら「お腹空いちゃった」と控えめに壁を叩く音や、インターホンが鳴る時間なのに。
俺は自分の部屋のキッチンで、彼女のために用意した肉豆腐を見つめていた。
雫の好物。味がよく染みるように、早めに火を止めておいた。けれど、主のいない食卓は、ただ冷えていくだけだ。
俺の脳裏には、学校での東郷の言葉がリフレインしていた。
『氷室の家が価値を見出すと思うかい?』
東郷は、雫の家庭事情を詳しく知っているわけではないだろう。だが、彼の「エリートとしての勘」は、正鵠を射ていた。
雫にとって、学年一位はただの成績じゃない。
それは、父親・宗一郎との間に交わされた、このアパートで「自由」に生きるための、唯一にして絶対の条件なのだ。
『高校卒業までの定期考査で、お前が学年一位から一度でも落ちれば、その時は問答無用で連れ戻す』
宗一郎の、あの冷徹な声が蘇る。
三点差。
それは雫にとって、自由という名の檻の鍵が、今にも壊れようとしている警告音だった。
もし、次のテストで東郷に抜かれれば。
彼女はこの部屋を去り、あの冷たい「氷の檻」へと連れ戻される。
俺と一緒にご飯を食べることも、笑い合うことも、お嫁さん修行をすることも、すべてが「無価値」なものとして奪われてしまう。
「……そんなこと、させるもんか」
俺は拳を握りしめた。
だが、今の雫に「大丈夫だよ」なんて言葉は届かないだろう。
彼女は今、一人で戦っている。自分の不甲斐なさを責め、失うことの恐怖に震えながら、再び心に厚い氷を張ろうとしている。
俺ができることは、何だ?
彼女を甘やかすことか? それとも、一緒に焦ることか?
違う。
俺は立ち上がり、冷蔵庫からタッパーを取り出した。
少し冷めてしまった肉豆腐を詰め、ご飯を盛り、彼女のお気に入りのふりかけを添える。
そして、俺は部屋を出て、隣のドアの前に立った。
チャイムは鳴らさない。
代わりに、ドアノブにタッパーが入った袋を掛け、ドア越しに静かに声をかけた。
「……雫。ご飯、置いておくから。……温かいうちに食べてくれ」
中からの返事はない。
だが、わずかに「……っ」という、喉の奥で押し殺したような音が聞こえた気がした。
「……東郷の言ったことなんて、気にするな。あいつは雫の努力を知らないだけだ」
俺はドアの向こう側にいるはずの彼女に向けて、努めて明るい声で付け加えた。
「……ちゃんと食べろよ」
それだけ言って、俺は自分の部屋に戻った。
部屋に戻り、俺は自分の勉強机に向かった。
今まで、俺は雫に甘えていたのかもしれない。彼女が一位なのは当然で、俺はただその隣で笑っていればいいのだと、どこかで思っていた。
けれど、雫が戦っているなら、俺も戦わなきゃいけない。
彼女が一位を守るために「氷」に戻る必要がないように。
俺の隣にいても、彼女が「最強」でいられるように。
俺は教科書を開いた。
一位と百五十二位。
住む世界が違うと言われるかもしれない。けれど、俺たちの間にあるこの壁を、俺は料理以外の方法でも守り抜きたいと思った。
窓の外では、冬の夜風がヒュウヒュウと鳴っている。
これから始まるのは、今までで一番長い、そして一番厳しい冬だ。
雫。
俺が、お前の氷を溶かすだけじゃない。
溶けた後の、柔らかいお前が、誰よりも高く羽ばたけるように。
俺が、その翼を支えてみせる。
静寂に包まれたアパートで、俺は力強くペンを握りしめた。
その隣の部屋で、雫が震える手でタッパーを開け、冷めかけた肉豆腐を一口、涙と一緒に飲み込んだことを、俺は知らなかった。




