第34話 幸せな一切れの卵焼き
(雫side)
昼休みの「塩分濃縮ちくわ事件」は、光星高校の2年1組の男子生徒たちの間に一種の伝説(と深刻な喉の渇き)を残して幕を閉じた。
悠真君は「愛情の味だよ」と笑って完食してくれたが、私の心境は複雑だった。
(悠真君は優しいからあんな風に言ってくれたけれど……。あれは料理という名の、ただの『物理的な攻撃』だったわ……)
放課後。
私は自分の不甲斐なさを噛み締めながら、佐々木美紀たちの誘いに乗り、放課後の家庭科室へと足を運んでいた。
「待ってたよ、氷室さん! 準備できてるよ!」
家庭科室の重い扉を開けると、そこにはエプロン姿の美紀と、その友人である女子たちが待っていた。放課後の調理室独特の、洗剤と微かな小麦粉の香りが漂っている。
「……みんな…。貴重な放課後の時間をいただいてしまって、申し訳ないわ」
「いいってことよ! 『氷室雫お嫁さん計画』の成功は、私たち女子グループの悲願なんだから!」
美紀が豪快に笑いながら、予備のエプロンを私に手渡す。
今日の課題は、お弁当の定番中の定番――『卵焼き』だ。
「まずは基本の『き』からね。卵焼きは火加減がすべて。氷室さん、昨日は『強火こそ正義』って言ってたけど、今日はそれを忘れて。卵はとっても繊細な女の子なんだからね?」
「……繊細な、女の子。……承知したわ。彼女(卵)の心に寄り添う覚悟よ」
私は真剣な眼差しで卵を手に取った。
だが、最初の難関はすぐに訪れる。
「じゃあ、ボウルに卵を割り入れて」
「ええ。……ふっ!」
――パカッ、という軽やかな音ではなく、ぐしゃり、という鈍い音が響いた。
私の指先に力が入りすぎ、卵の殻が粉々に砕けて白身の中にダイブしてしまったのだ。
「あわわ! ストップ、氷室さん! 握りつぶしちゃダメだって!」
「……申し訳ないわ。つい、脱走を阻止しようと力が……」
「卵は脱走しないよ! もっと優しく、コンコンって角に当てて……そう、そんな感じ」
美紀の熱心な指導(というよりは実況)のもと、なんとか三つの卵をボウルに収める。
次に味付けだ。
「ここに白だしを小さじ一、お砂糖を二杯。氷室さん、計量スプーンはちゃんと平らにすりきってね」
「……すりきる。……ミリ単位の誤差も許されない、精密作業なのね」
私は定規を持ち出さんばかりの勢いで、計量スプーンの表面を慎重に整えた。昨日の「情熱(山盛り)の醤油」の反省が活かされている。
そして、運命のフライパン投入。
四角い卵焼き器を火にかけ、油を引く。
「火は弱火。フライパンが温まったら、卵液を三回に分けて入れるの。一回目が一番大事。少し固まってきたら、奥から手前に向かって……くるん、よ!」
「くるん……。……っ、い、いくわよ!」
私が震える手で卵を流し込む。ジューという微かな音と共に、黄色い膜が広がっていく。
私は菜箸を握りしめ、まるで爆弾解体作業に挑む技術者のような顔で、卵の端を突いた。
「……今よ! くるん……くる……んんっ!?」
焦るあまり、菜箸が卵を突き破った。
さらに、無理に巻こうとした結果、卵は「くるん」ではなく「ぐちゃ」という無惨なスクランブルエッグ状態に成り果てた。
「あああっ! 卵が……私の卵が、空中分解したわ!」
「落ち着いて! まだリカバリーできるから! 二回目の液を入れて、それを芯にして巻き直せば大丈夫!」
美紀の叱咤激励を受けながら、私は必死に食らいついた。
額に汗を浮かべ、ポニーテールを揺らしながら、何度も、何度も、失敗した卵の層を修正していく。
学校では「氷の令嬢」と恐れられ、何でも完璧にこなすように見えていた少女。
そんな彼女が、たかが一切れの卵焼きを作るために、ここまで必死になっている。
美紀たちは、その姿に胸を打たれていた。
「……できた。……できたわ、佐々木さん」
十分後。
皿の上に載せられたのは、形こそ少しデコボコで、あちこちに修正の跡(継ぎ目)があるものの、しっかりと「黄色い巻物」の形をした卵焼きだった。
「いいじゃん! 全然及第点だよ、氷室さん!」
「本当。これなら佐藤君も喜んでくれるよ!」
「……そうかしら。……早速、毒見……ではなく、試食をしてみるわ」
私は箸で端を切り、口に運んだ。
「…………あ」
私の心が、ふんわりと丸くなった。
「……美味しい。……しょっぱくないわ。……甘くて、出汁の味がして……。それに、悠真君が作ってくれるものに、近付いた気がするわ」
私は、自分の作った卵焼きを見つめ、静かに微笑んだ。
それは悠真にだけ見せる甘い笑顔とはまた違う、自分の力で「何か」を成し遂げた喜びと、それを分かち合える友人がいる幸福に満ちた笑顔だった。
「よかったね、氷室さん!」
「うん。……ありがとう、みんな。私……あなたたちのこと、『友達』だと思ってもいいかしら?」
少し気恥ずかしそうに、でも真っ直ぐに問う雫に、美紀たちは顔を見合わせた。
「当たり前でしょ! もうとっくに友達だよ!」
「そうだよ。今度は卵焼き以外のレパートリーも増やさなきゃね!」
家庭科室に、女子たちの明るい笑い声が響く。
私にとって、この放課後の時間は、料理のスキルだけでなく、それ以上に大切な「他人との絆」を教えてくれる場所になっていた。
――放課後の特訓を終えて一時間後。
オレンジ色に染まったアパートの廊下。私は自分の部屋を通り過ぎ、隣にある「彼の居場所」の前に立っていた。
胸の奥が、小さな太鼓を叩いているようにずっと騒がしい。手に持ったラップ越しの感触。まだわずかに残っている温もりが、私の決意を少しだけ後押ししてくれる。
呼吸を整え、私は震える指先でその扉を控えめに叩いた。
「はいはい……。あ、雫。おかえり」
開かれた扉から漏れ出してきたのは、夕食の準備を始めたらしいお出汁の香りと、聞き慣れた、けれど聞くたびに安心する彼の声。
「ただいま、悠真君。……これ、今日の授業の……じゃなかった、修行の成果よ。受け取ってくれるかしら」
私は気恥ずかしさを隠すように、丁寧すぎる所作でラップに包まれた一切れの卵焼きを差し出した。
「おっ、もしかして……」
悠真君は疑うこともなく、それをその場で一口、口に放り込んでくれた。
私の心臓は、この瞬間のために何百回と早鐘を打っていた気がする。味が薄すぎなかったかしら、焼き加減は……。固唾を呑んで、彼の眉が動くのを見守る。
「…………。……ん! 旨いな! 昨日のよりずっと柔らかいし、味も丁度いい。……これ、本当に雫が作ったのか?」
悠真君の瞳がパッと輝く。
その光を見た瞬間、今日一日、不器用な私を親身になって教えてくれた佐々木さんたちの顔が浮かび、目頭が少しだけ熱くなった。
「ええ。……佐々木さんたちに、みっちり鍛えられたわ。……でも、まだまだよ。あなたの味には、もう一歩届かなかったもの……」
私は素直な感想を口にしながら、ほんの少しの悔しさと、それを遥かに上回る誇らしさで胸を張った。彼を喜ばせることができた。それだけで、私の毎日にどれほどの色がつくのか、彼はきっと知らない。
「悠真君。……明日の朝、もう一度作ってみるわ。……あなたの『美味しい』を、もっともっと更新したいから」
夕闇が迫る廊下。古ぼけた電球の明かりが、私の視界を優しく照らしている。今の私はどんな顔をしているのだろう。
ふと、悠真君の手が伸びてきて、私の頭をそっと撫でた。
「ああ、楽しみにしてるよ。……頑張れよ、俺の自慢の『見習いお嫁さん』」
――自慢の。
その響きが、心の中にじわりと溶け出し、幸せな毒薬のように私の理性を麻痺させていく。
私は彼を見上げ、熱くなった頬を隠さないまま、小さな、けれど確かな声を紡いだ。
「……ええ。お任せなさい、私の未来の旦那様」
一歩ずつ。一食ずつ。
「氷の令嬢」と呼ばれていた私の凍りついた壁は、彼が教えてくれるキッチンの温もりのなかで、音もなく消え去っていく。
この優しい手のひらが触れる場所に。
彼の隣に、私がずっといられることを、私は何よりの幸せだと感じていた。




