第33話 致死量の愛と塩分――雫の初めての手作り弁当
その日の朝、私はかつてないほどの達成感に包まれていた。
鏡の前で髪を整え、カバンの中に、ずっしりと重みのある「それ」を収める。
(完璧よ。……昨日の研究成果、そして深夜までの予習。今日の私は、昨日までの私とは一味違うわ)
私の脳裏には、今朝のキッチンでの格闘が蘇る。
最強の味方である『ちくわ』の穴に、これまた最強の助っ人『チーズ』をねじ込み、昨日の教訓である「弱火」を徹底して守り抜いた。人参やキャベツのように逃げ回らないちくわは、私にとってまさに救世主だった。
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一方、俺――佐藤悠真は、登校中から隣を歩く雫の様子がどこかおかしいことに気づいていた。
いつもなら「今日のご飯は何かしら?」と聞いてくる彼女が、今日は一言も献立について触れない。それどころか、鼻歌すら聞こえてきそうなほど上機嫌で、俺の腕に絡みついてくる。
「……雫、なんかいいことあったのか?」
「ええ。……フフ、楽しみにしていて、悠真君。今日の昼休み、世界が驚愕するわ」
「……不穏な予告はやめてくれよ」
そして、運命の昼休みがやってきた。
俺が自分の弁当箱を取り出そうとすると、隣の席で雫が「待って」と手を差し出した。
彼女がカバンから取り出したのは、可愛らしいクマの包みに包まれた、見慣れない弁当箱だ。
「……え、それって」
「私の、手作りよ。……全部、私一人で作ったのよ」
雫は誇らしげに胸を張り、弁当の蓋を開けた。
瞬間、周囲の席にいたクラスメイトたちが、磁石に吸い寄せられるように集まってきた。
「おい、氷室さんの手作りだってよ!」「マジかよ、歴史的瞬間じゃねえか!」という声が上がる。
お披露目されたお弁当の中身は――。
確かに、先日の「隕石」に比べれば、劇的な進化を遂げていた。
メインを張るのは、ちくわの中にチーズを詰め、衣をつけて焼いたもの(磯辺揚げ風だが青海苔はない)。そして、形は少し歪だが、黄色い色が眩しい卵焼き。隅には、隙間を埋めるためだけに投入されたであろう、大量のミニトマト。
全体的に「茶色と赤」が優勢だが、雫が一生懸命作ったことは痛いほど伝わってきた。
「……すごいじゃないか、雫。ちゃんと形になってる」
「ええ。……佐々木さんたちのアドバイスを忠実に守ったわ。さあ、悠真君。毒見……ではなく、愛情たっぷりの試食をお願いするわ」
雫は期待に満ちた目で、俺に箸を差し出す。
周囲の男子たちが「いいな、佐藤……」「死んでもいいから代わってくれ」と呻き声を上げる中、俺は覚悟を決めて、一番自信作だという『ちくわチーズ』を口に運んだ。
「……モグ、……モグ」
俺の咀嚼に合わせて、教室中が静まり返る。
雫がごくり、と喉を鳴らす。
「……どうかしら?」
「…………。……うん。……ちくわだ。すごく、ちくわの味がする」
「それは素材の良さを活かしたということね!」
「……あと、チーズが……これ、プロセスチーズじゃなくて、ピザ用のシュレッドチーズを無理やり詰め込んだだろ?」
「……よくわかったわね。穴が小さかったから、ピンセットで一粒ずつ押し込んだのよ」
「努力の方向性がおかしいけど……味は悪くないよ。少し……いや、かなりしょっぱいけど」
おそらく、下味の醤油をまだ「情熱(大盛り)」で入れてしまったのだろう。だが、生焼けでも炭でもない。立派に「食べ物」として成立していた。
「良かった……。私、悠真君に美味しいって言ってもらえて、今、胸がいっぱいだわ」
雫が、ぱあっと花が咲くような笑顔を見せる。
それを見た周囲の男子たちが、ついに限界を迎えた。
「おい、佐藤! そんなにしょっぱいなら、俺たちが手伝ってやるよ!」
「そうだぜ! 氷室さんの手作りだぞ? 一口くらい、クラスの共有財産として分けるべきだろ!」
口々に叫びながら、野郎どもがゾンビのように襲いかかってきた。
俺が止める間もなく、彼らは弁当箱の中の『ちくわ』や『卵焼き』を、奪い合うように箸で摘み取る。
「よっしゃあ! 氷室さんの聖なる手料理、いただきま――」
井上を筆頭とする男子たちが、一斉にそれを口に放り込んだ。
一秒後。
「…………っ!?」
「…………ぐっ、……ふ、……ごふぉっ!」
男子たちの顔が、一瞬にして土色に変わった。
彼らは一様に口を押さえ、プルプルと震えながらその場に膝をつく。
「……しょ、……しょっぺええええええええええ!」
「これ、醤油の原液飲んでるのと変わらねえぞ! 卵焼き、砂糖の代わりに塩入れただろこれ!?」
「水……誰か、水をくれ……! 喉が、喉が焼ける……!」
阿鼻叫喚の地獄絵図が展開される。
雫は、そんな彼らを冷ややかな目で見下ろしながら、ポツリと言い放った。
「……失礼ね。それは悠真君のために、私の『愛』を極限まで濃縮したものよ。凡人に理解できないのは当然だわ。それに……」
雫は俺の方を向き、少しだけ恥ずかしそうに頬を染めた。
「……私の料理を食べていいのは、悠真君だけ。横取りするような不作法者には、それ相応のバチが当たったということよ」
男子たちは「バチのレベルが高すぎる……」と涙目で床を這いずり、蛇口を求めて教室を飛び出していった。
嵐の去った後の席。
俺は苦笑いしながら、残ったミニトマトを口にする。これは流石に安全だ。
「……あいつら、手荒なことしてごめんな、雫」
「いいのよ。……それより、悠真君。……本当は、あんまり美味しくなかった?」
雫が、不安そうに小首を傾げる。
俺は彼女の目を見つめ、残ったちくわをすべて自分の口へ運んだ。
「……正直に言うと、塩分過多で午後の授業中に喉が乾きそうだけど。……でも、雫が俺のために早起きして、指先をピンセットで痛めながら作ってくれたんだろ? ……世界で一番、価値のあるお弁当だよ」
「…………っ」
雫の顔が、みるみるうちに赤くなる。
彼女は俯き、自分の膝の上で手を弄んだ。
「……ずるいわ、悠真君。……そんなこと言われたら、私、もっと料理の研究を頑張らなきゃいけなくなるじゃない……」
「はは、期待してるよ。……でも、次は醤油じゃなくて、愛情だけを濃縮してくれ」
「……ええ。……承知したわ、悠真君」
教室の隅では、水を飲んで復活した井上が、そんな俺たちの様子を遠目で見ながら、「……あーあ。毒でもなんでも、あんな風に言われたら本望だよなぁ……」と、珍しく羨ましそうに呟いていた。




