第31話 お嫁さん修行、始動!
(雫side)
その日の夜、私は自分の部屋で一人、悶々としていた。
手に持っているのは、悠真君のお母様の佳代子さんからもらった縮緬細工の根付だ。それをじっと見つめながら、私の脳裏には昼間の女子たちとの会話がリピート再生されていた。
『佐藤君のどこが好きになったの?』
『佐藤君って料理得意なんでしょ? たまには氷室さんの手料理も食べたいんじゃないかなーって』
――手料理。
それは私にとって、エベレストの頂上を目指すよりも困難な、未知の領域だった。
これまでの私は、悠真君が作ってくれる絶品料理を、ただただ「美味しいわ、悠真君」と、小動物のように食べていただけだ。
だが、今の私は違う。
「本当のお嫁さん」近づきたいのだ。ならば、彼に尽くされるだけでなく、自分も彼を喜ばせる存在になりたい。
「……待っているだけの私は、今日で終わりよ。私は、悠真君に相応しい『お嫁さん』になるんだから」
私は立ち上がり、気合を入れて拳を握った。
目標は決まった。明後日の昼休み。
悠真に内緒で、「サプライズ手作り弁当」を披露する。
彼は驚き、そして感動のあまり「雫、君は最高のお嫁さんだ!」と私を抱きしめる……。
そんな(私にしては珍しい)妄想に鼻息を荒くしながら、私はスマートフォンで『初心者 お弁当 おかず』と検索を開始した。
翌日の放課後。
私は「今日は少し寄るところがあるの」と、怪しさ満点のぎこちない笑顔で悠真君と別れ、一人でアキバ屋へと向かった。
いつもは悠真君の後ろをついて歩くだけだった売り場。だが、今日は一人だ。
「……まずは、お肉ね。鶏の唐揚げ……これがお弁当の王道だわ」
以前、悠真君から教わった「目利き」を思い出しながら、鶏もも肉を一パック手に取る。次に、卵、そしてミニトマト。
カゴを持つ手は少し震えている。まるで極秘任務を遂行するスパイのような緊張感だ。
会計を済ませ、自分の部屋へ戻るなり、私はキッチンへと向かった。
私の部屋のキッチンは、驚くほど綺麗だ。
なぜなら、引越し以来一度も火を使ったことがないからだ。
私は、エプロンを装着し、スマートフォンのレシピサイトを開いた。
まずは、鶏肉を切る工程だ。
包丁を握る。昨日悠真から教わった「猫の手」を意識しながら、鶏肉に刃を当てる。
だが、生肉の弾力は想像以上だった。
「……っ、逃げるわ。このお肉、生きている時よりも抵抗が強いわ……!」
ヌルリと滑る肉を必死に押さえつけ、格闘すること十五分。なんとか一口大(というには、ステーキのような巨塊と、消しゴムのような破片の混合物)に切り分けた。
「ええと……つぎは鶏肉に下味をつけるのね。醤油、大さじ二杯。酒、大さじ二杯……」
私はキッチンの引き出しから、セットで買ったまま一度も封を開けていなかった計量スプーンを取り出した。
だが、そこで手が止まる。
「……大さじ、中さじ、小さじ。……なぜ三つもあるの?」
サイズの異なる三つのスプーン。
「『大さじ』は、きっと一番大きいこれのことね。……でも、私の悠真君への愛を考えれば、規定のサイズで足りるはずがないわ。それに大さじ2杯では足りないような気がするわ。大は小を兼ねる……このカレー用のでっかいスプーンを基準にすれば、想いはより強く伝わるはずよ」
私は計量スプーンを「小さすぎる」と却下。あろうことか、キッチンにあった大きなサービングスプーンを取り出した。その容積は、標準的な大さじの三倍はあった。
そこに、表面張力の限界まで醤油を注ぎ、ステーキのような巨塊と、消しゴムのような破片の混合物を「醤油と酒の海」に沈めた。
そして、ついに最大の難関。「揚げる」工程に突入する。
「油の温度は、百八十度……。なるほど、熱ければ熱いほど、お肉に情熱が伝わるということね」
私の辞書に『中火』という言葉はない。
ガスコンロのツマミを最大まで回した。
ゴーッ! という威勢のいい音と共に、鍋の中の油がみるみるうちに熱されていく。
やがて油から煙が立ち上り始めたが、私はそれを「準備ができた合図」だと受け取った。
「いざ。……悠真君への愛を込めて!」
下味をつけた(というか醤油にドブ漬けした)肉に、適当に小麦粉をまぶし、一気に油の中へ投入した。
――バチバチバチバチィッ!!
「きゃあああっ!? 反撃!? 油が反撃してきたわ!」
高温の油に水分の多い肉を入れたため、激しい油跳ねが発生する。
私は「ひ、火炎魔法だわ……!」と叫びながら、近くにあった鍋の蓋を盾のように構えて応戦した。
数分後。
キッチンには、香ばしい……を通り越して、何かが焦げる黒い煙が充満していた。
私が恐るおそる鍋の蓋をどけると、そこには「隕石の欠片」のような、真っ黒な物体が転がっていた。
「……おかしいわ。レシピの写真は、もっと美味しそうな黄金色だったはずなのに。……もしかして、うちの油は黒派なのかしら?」
現実逃避を始めた私だったが、その時、部屋のインターホンが激しく鳴った。
「雫! 雫、いるのか!? 変な匂いがするぞ! 火事じゃないか!?」
悠真君の声だ。
私はパニックになった。サプライズがバレるどころか、消防沙汰だと思われている。
慌てて火を消し(これは正解だった)、エプロンを外そうとしたが、紐が絡まって脱げない。
「あ、あの、悠真君! 大丈夫よ! 私は、その……ちょっと、料理をしていただけで……!」
「どんな料理だ! 開けるぞ!」
幸い、鍵はかかっていなかった。
ドアが勢いよく開き、悠真君が部屋に飛び込んできた。
♢♢♢♢♢♢
そこには、真っ白な煙が漂うキッチンで、顔に小麦粉をつけ、エプロンを無惨に引きずり、右手には「黒焦げの隕石(唐揚げ)」を刺した菜箸を持つ、雫の姿。
「…………雫?」
「…………ごきげんよう、悠真君。……いいところに来たわね。今日の晩御飯は、『ダークマターの素揚げ』よ」
雫は虚無の表情で、力なく微笑んだ。
俺はしばし呆然としていたが、キッチンの惨状を見て、すべてを察したらしい。
俺は深く、深くため息をつくと、雫の隣まで歩み寄った。
「……雫。俺、言ったよな。無理に一人でやる必要はないって」
「……だ、だって……」
雫の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「……だって、お嫁さんになりたかったんだもの。……みんな、自分でお弁当を作っているのに、私だけ、いつも悠真君に頼ってばかりで……。私も、あなたを喜ばせたかったの……っ」
ぽろぽろと零れ落ちる涙。
それは、プライドを捨てて、ただ愛する人のために背伸びをしようとした、彼女の純粋すぎる想いの証だった。
俺は、その細い肩をそっと抱き寄せた。
「……喜んでるよ。雫が俺のために、こんなに必死になってくれたこと、すごく嬉しい」
「……でも、これ……食べられないわ。真っ黒だし、きっと中はお肉が生だわ。……私、やっぱりダメなのよ。お嫁さん失格だわ……」
「失格じゃないよ。……ほら、少し焦げてないところ、味見させてくれ」
俺は雫の手から菜箸を奪うと、比較的黒くない破片を一口食べた。
……一瞬、顔が「しょっぱっ!」と歪んだが、それをぐっと堪えて、優しい笑顔を作った。
「……うん、醤油の味がしっかりしてて、白飯が進みそうだ。……次は、火加減を『中火』ってのを覚えような」
「……中火。……それは、情熱を半分に抑えるということかしら?」
「いや、美味しく作るための魔法の温度だよ」
悠真に頭を撫でられ、雫はようやく顔を上げた。
小麦粉のついた鼻先を赤くして、彼女は小さく頷く。
「……わかったわ。明日からまた、ご指導をお願いします。……師匠、兼、旦那様」
「……旦那様はまだ早いだろ」
白煙の中、二人の笑い声が重なる。
『お嫁さん』への道は、どうやら鶏の唐揚げよりも遥かに手強いようだが、彼女がその道を諦めることは、決してなさそうだった。




