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第30話 初めての「友達」

(雫side)


祖母が亡くなり、父に引き取られてから、私の周りには、見えない壁があった。

それは私が自分を守るために築いた氷の檻であり、同時に周りが私の「完璧さ」という虚像に気圧されて近寄れずにいただけの結果。

   

けれど、その壁が今、温かな熱を帯びて崩れ去ろうとしていた。


「ね、ねえ、氷室さん。……ちょっと、いいかな?」


二時間目の休み時間。彼と一緒に次の授業の準備をしていた私の背中に、遠慮がちな声がかけられた。

振り返ると、クラスでも目立つ存在の佐々木美紀さんが数人の女子を連れて立っていた。


思わず、心臓が跳ねる。……緊張が、背筋を走った。


「……は、はい。何かしら、佐々木さん」


私は反射的に背筋を伸ばし、努めて冷静に——氷の仮面が剥がれないように言葉を返した。


「あ、名前、覚えててくれたんだ! 嬉しい!」


パッと顔を輝かせる佐々木さん。それだけで、私の喉の奥に張り付いていた冷たい緊張が少しだけ和らいだのが分かった。


「あのね、相談というか……聞きたいことがあって。佐藤君との……その、お付き合いの話なんだけど。私たち、実はすっごく気になってて。……もし迷惑じゃなかったら、少しお話ししてくれない?」


彼女たちの瞳には、男子たちが向けてきたトゲのある殺気などどこにもなかった。そこにあるのは、純粋な好奇心。……「あの氷室雫が恋をした」という事件を、どこか祝福してくれているような熱量。


私はどうしていいか分からず、隣の悠真君を見た。彼は困ったように笑いながら、でも優しく頷いてくれた。


「行ってきなよ。友達ができるチャンスだぞ」


「……友達。……ええ、わかったわ。悠真君がそう言うなら」


深呼吸をして、私は意を決して立ち上がった。まるで未知の世界へ一歩踏み出すような感覚。彼女たちの輪に加わると、すぐに質問の嵐が吹き荒れた。


「――それでそれで! 氷室さんって、普段は何をしてる時が一番楽しいの?」


「……え。……そう、ですね。……悠真君の家で、彼が料理を作っているのを、後ろから眺めている時……かしら」


「キャー! 何それ、新妻!? 佐藤君、そんなことさせてるの!?」


耳を劈くような女子たちの悲鳴。私は顔に火がついたような熱さを感じながら、


「ち、違います、私が勝手に見ているだけです!」と必死で弁明した。


「じゃあじゃあ、佐藤君のどこが好きになったの? やっぱり、あの優しいところ?」


「……ええ。それも、ありますけれど。……彼は、私が一番情けない時に、笑わずに助けてくれたんです。ゴミの分別ができなくて途方に暮れていた私に、優しく、でも少し呆れたように教えてくれて……。その時の彼の横顔が、とても温かくて……」


気づけば、飾らない本音が口を吐いて出ていた。

もう、氷を纏って隠す必要はない。私が語る悠真君との日々が、彼女たちの前で初めて色彩を持っていく。


私の初々しすぎる告白に、女子たちはいつの間にか「尊い……」とでも言い出しそうな表情で見守ってくれていた。


「氷室さんって、もっとクールで怖い人かと思ってたけど……すっごく可愛いんだね」


「本当。佐藤君が独り占めしたくなる気持ち、わかる気がする」


可愛い。……生まれて初めて言われた、評価でも恐怖でもない言葉。

不意に視界が潤みそうになった。それは、完璧な人形として育てられてきた私が、ずっと欲しかった本当の「私」への承認だったのかもしれない。


会話は弾み、話題は次第に「家事」や「料理」の話へと移っていった。


「私さ、実は今、肉じゃがを練習してるんだよね。いつか彼氏ができた時に作ってあげたくて」


「あ、いいなー。私はお菓子作りかな。昨日もクッキー焼いたんだけど、焦げちゃってさ」


「氷室さんは? 佐藤君に、何か作ってあげたりするの?」


心臓が、ドクリと大きく跳ねた。  ……それまで浮かべていた私の微笑みが、一瞬にして凍りついたのが分かった。


「……え? ……私が、悠真君に?」


「そうそう! 佐藤君、料理得意なんでしょ? たまには氷室さんの手料理も食べたいんじゃないかなーって」


目の前が真っ暗になるような感覚だった。 昨日までの自分の情けない「実績」が、容赦なく脳裏をよぎる。  


――洗濯機を回そうとして、洗剤をボトル半分投入し、泡の洪水を作った私。

――掃除機をかけようとして、自分の脱ぎ捨てた靴下を吸い込み、異音と共に停止させた私。

――そして何より、悠真君のキッチンで「お湯を沸かそう」として、空焚きで鍋をダメにしかけた私。


「……私は」 声が、微かに震える。


「私は……まだ、何も、できていなくて」


「え?」


「ゴミの出し方も、掃除の仕方も、悠真君に教えてもらってばかりで。……料理も、私は食べる専門で……。彼に何かをしてあげるどころか、毎日、彼に生かされているようなもので……」


血の気が引いていくのが自分でも分かった。 友達との何気ない会話が、残酷なまでの事実を突きつけてくる。


(私……もしかして、全然『お嫁さん』じゃない……?)


みんなは「ちょっとした失敗」で悩んでいるのに、私は……私は「生活能力」という言葉そのものが欠落している。

私が彼と一緒にいられるのは、悠真君というヒーローに、お世話をしてもらっている「お荷物のヒロイン」だからなのではないか。


「ひ、氷室さん? 大丈夫? 顔色が悪いよ?」


「……ごめんなさい。少し、自分を見つめ直す時間が、必要みたいです……」


私はフラフラとした足取りで輪を離れた。 自分の席に戻ると、机の上に突っ伏すことしかできなかった。

今まで自分の幸せだと思っていた時間の正体——それが、彼への過剰な「寄生」で成り立っていたことに気づかされて、胸が締め付けられる。


「……雫? どうしたんだ、急に」


悠真君の、心配そうな温かい声。……それが今の私には痛くて堪らない。私は顔を上げられずに、消え入りそうな声で呟いた。


「……悠真君。……私、自分が恥ずかしいわ」


「ええっ、何がだよ。みんなと楽しく話してたんじゃないのか?」


「……みんな、努力していたわ。誰かのために、自分ができることを。……私には、何もなかった。あなたに甘えて、美味しいご飯を食べて、満足して……。私は、あなたの隣にいる『女の子』ですらなく、ただの『お荷物』だったのよ……」


突き刺さるような自責の念。 悠真君がいかに特別で、いかに彼を頼り切りにしていたか。友達の言葉が、私の「何もなさ」を露わにした。


「そんなことないって。昨日、美味い味噌汁を作ってくれただろ? それに俺は雫が喜んで食べてくれるのが嬉しいんだし……」


昨日一緒に作った、拙い味噌汁の話を彼はわざわざ出してくれる。その優しささえも、今の私にはもどかしい。


「いいえ! このままでは、私はお父様の言う通り『泥を啜る』ことすらできません。泥を啜る前に、泥の味付けをあなたに頼んでしまうわ!」


「……例えが独特すぎるけど、落ち着けって」


私はガバッと顔を上げた。私の瞳の中に宿っているのは、今までの孤独な絶望ではなく、生まれて初めて燃え上がる「闘志」だ。


「悠真君。……決めたわ。私、修行するわ」


「……修行?」


「ええ。今日から私は、あなたの『隣人』でも『居候』でもありません。……あなたの、真の『お嫁さん』になるための、見習いになります!」


叫ぶような、決意の表明。

その声は静まり返った教室に図らずも響き渡り、佐々木さんたちが呆気にとられ、男子たちが怨嗟の呻きを上げていることさえ、今の私にはどうでも良かった。


私は、ただの女の子で終わりたくない。 私は、悠真君の本当の「お嫁さん」になりたいのだ。


「とりあえず、雫。……まずはその、鼻を啜るのをやめようか。ティッシュ、使うか?」


「……ぐすっ。……ありがとう、悠真君。……こういうところよ、こういうところが私をダメにするの……!」


手渡されたティッシュを手に、私は自分への情けなさに打ちひしがれながらも、同時に心に決めた。


(待っていなさい、悠真君。明日には、必ずやあなたを「あーん」で絶句させるほど、美味しい何かを——作れるようにはなってみせるわ!)


私の決死の家事修行。 その第一歩を、私は心の中の猛りとともに踏み出した。


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