第29話 黄金比タレの牛丼
放課後。
俺たちはもう、変装をしてコソコソと歩く必要はなかった。
俺の左腕にしっかりと腕を回し、雫は幸せそうに冬の街を歩く。学校指定のコートが少し触れ合う距離。彼女の長い黒髪が風に揺れ、いつもの石鹸の香りが俺の鼻腔をくすぐる。
「……変装しないお買い物って、こんなに清々しいのね」
「ああ。まあ、すれ違う人には相変わらず二度見されてるけどな」
「いいわ。私は佐藤悠真の恋人ですって、看板を背負って歩きたいくらいなんだから」
雫は冗談めかして笑うが、その瞳は本気だった。
やがて、俺たちの「戦場」であり、秘密のデートスポットでもあった激安スーパー『アキバ屋』の看板が見えてくる。
「おっ! 来たね、新婚さん!」
入り口に入るなり、レジのおばちゃんが威勢のいい声を張り上げた。
どうやら彼女は、俺たちが学校で『公開宣言』をしたことなど知る由もないはずだが、その直感は相変わらず鋭かった。
「今日は一段と仲がいいじゃない! なんだい、ついに籍でも入れたのかい?」
「あ、いや、おばちゃん、それは流石に――」
「はい。……正式にお嫁さんになることにしました」
雫が、さらりと爆弾を投下した。
俺は持っていた買い物カゴを落としそうになり、おばちゃんは目を丸くして固まった。周囲の客も一斉にこちらを振り返る。
「……し、雫? 何を言って……」
「間違っていないわ。……悠真君の家族(お母様)にも認められたし、お父様との約束も果たしてみせる。……私はもう、あなたの奥さんになる準備はできているもの。……ねえ、おばちゃん。悠真君のお嫁さんになったら、このお店、もっと通ってもいいかしら?」
雫は、マフラーから顔を出し、最高に輝かしい笑顔をおばちゃんに向けた。
おばちゃんは一瞬、その美しさに気圧されたようだったが、すぐにガハハと豪快に笑い飛ばした。
「気に入った! いいよお嬢ちゃん、あんたみたいな度胸のある奥さんなら、大歓迎だよ! ほら、今日の目玉、タイムセールの国産牛! あんたたちに一パック、おまけしてやるよ!」
「ありがとうございます、おばちゃん。……悠真君、やったわね。牛よ!」
「……お前のその、美貌とポンコツさと主婦感覚の混ざり具合、どうにかしてくれよ……」
俺は溜息をつきながらも、雫が嬉しそうにカゴに入れた牛肉を見つめた。
彼女はもう、世間体を気にして自分を殺す「令嬢」ではない。
俺と一緒に安い肉を喜び、隣で笑い、未来を語り合う。
世界で一番欲張りで、世界で一番可愛い、俺だけの女の子だ。
レジを済ませ、両手に買い物袋を提げて店を出る。
冬の夕暮れ、空は茜色から深い藍色へと変わり始めていた。
「……ねえ、悠真君」
「なんだ?」
「私、幸せよ。……学校でみんなに見られていても、スーパーでお嫁さんって呼ばれても。……あなたが隣にいて、『雫』って呼んでくれるだけで、私の世界はこんなに色鮮やかになるの」
雫は、俺の肩にそっと自分の肩を寄せた。
「最初は、ただお腹を空かせた私を助けてくれただけだった。……でも、あなたは私の胃袋だけじゃなくて、凍りついていた心まで、全部温めてくれた。……一生、離さないでね? もし離したら、私、またお腹を空かせた猫に戻って、あなたのドアを壊れるまで叩き続けるから」
「……そんな物騒なことしなくても、俺の方から捕まえておくよ」
俺は空いている左手で、彼女の小さな手を、しっかりと恋人繋ぎで握りしめた。
♢♢♢♢♢♢
アパートへ戻り、いつものように俺の部屋のキッチンに並んで立つ。
だが、今日の雫はいつもとは気合の入り方が違った。
俺の母・佳代子から送られてきた、薄ピンク色のエプロンをきゅっと締め、彼女はポニーテールにした髪を揺らして宣言する。
「悠真君。今日から私は、ただ座って待っているだけの『お客様』を卒業します。……私にも、何かお手伝いをさせて」
その瞳は、テストの時よりも真剣だ。
俺は少し迷ったが、彼女の熱意に押される形で、一番安全そうな「味噌汁作り」を任せることにした。
「わかった。じゃあ、味噌汁の具材を切ってもらおうかな。キャベツとえのき、それに……この人参だ」
「人参……。この、硬くてオレンジ色の強敵ね。……承知したわ。刺し違えてでも、美しく切ってみせる」
「刺し違えちゃダメだ、指を切るなよ? 猫の手、覚えてるか?」
「ええ、もちろん。こう……肉球を丸めるイメージね」
雫は包丁を握り、人参と対峙した。その姿はまるで、真剣勝負に挑む剣豪のようだ。
俺は彼女をハラハラしながら見守りつつ、メインの牛丼の調理に取りかかる。
まずは牛丼の命とも言えるタレだ。
醤油、みりん、酒を同量ずつ。そこに砂糖を半分。そして隠し味に、すりおろした生姜を一欠片。これが、俺が行き着いた『黄金比のタレ』だ。
トントントン、と俺が玉ねぎをリズム良く刻む隣で、雫の「戦い」が始まった。
「……っ、ふ、……ぬうっ」
ガリッ、という鈍い音。
見れば、雫が人参に包丁を立てたまま、全身の体重をかけて押し込んでいる。人参が転がらないように押さえる左手は、今にも指を切りそうで見ていられない。
「雫、力任せに押さないで。包丁を前後に滑らせるんだ」
「前後に……こうかしら? ……あ、切れたわ! 悠真君見て、人参が……その、少し個性的な形になったけれど、切れたわ!」
彼女が差し出したのは、銀杏切り……というにはあまりにも厚さがバラバラで、断面がガタガタな人参の欠片だった。だが、雫はそれを宝物のように誇らしげに見せている。
「……うん、いいと思う。火が通りやすいように、次はもう少し薄く頑張ってみようか」
俺は彼女を励ましながら、フライパンを火にかけた。
黄金比のタレを煮立たせ、飴色になるまで炒めた玉ねぎと、先ほどおばちゃんにもらった国産牛を投入する。
ジューッという小気味いい音と共に、甘辛い香りが一気にキッチンを満たした。牛肉がタレを吸い、艶やかな茶色に染まっていく。
一方で、雫はキャベツの千切りに苦戦していた。
「……キャベツが、逃げるわ。この葉の一枚一枚が、私の包丁を拒んでいるみたい……」
必死にキャベツを押さえつけ、一ミリずつ慎重に刃を動かす雫。その額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
俺が五秒で終わらせる工程に、彼女は三分以上かけていた。だが、その一歩も譲らない真剣な横顔は、見ていて胸が熱くなるほどに健気だった。
「よし、雫。野菜が切れたら、鍋に入れて。出汁はもう取ってあるから」
「ええ。……人参、キャベツ、えのき……。野菜の甘みを引き出す、最高のお味噌汁にするわ」
雫が慎重に具材を鍋に滑り込ませる。
俺はその間に、もう一つの『仕掛け』を用意した。
沸騰したお湯に少量の水を差し、温度を下げたところに卵を落とす。蓋をして待つこと数分。絶妙なプルプル加減の『半熟卵』の完成だ。
「さあ、できたぞ」
丼に炊きたての白飯を盛り、その上にタレの染みた牛肉と玉ねぎをたっぷりと載せる。中央を少し窪ませ、そこへ先ほどの半熟卵を静かに着地させた。
「……綺麗。……宝石箱みたいだわ、悠真君」
雫が味噌汁の鍋をお盆に運びながら、感嘆の声を漏らす。
彼女が作った味噌汁も、具材の大きさこそ不揃いだが、キャベツの緑と人参の赤、えのきの白が鮮やかに彩りを添えていた。
こたつに向かい合い、「いただきます」と手を合わせる。
雫はまず、自分が作った味噌汁を一口啜った。
「……あ。……甘いわ。お野菜の味が、すごくする」
「本当だ。しっかり火が通ってて、美味しいよ。雫が一生懸命切ったから、出汁がよく染み込んでる」
「……っ。……嬉しい。私、自分で作ったものを『美味しい』って言ってもらえるのが、こんなに幸せなことだなんて知らなかった……」
雫は目を細め、本当に嬉しそうに微笑んだ。
そして、メインの牛丼に箸を伸ばす。半熟卵の黄身を箸先で突くと、とろりと黄金色の液体が肉の上に溢れ出した。
それを肉と絡めて、一気に口へ運ぶ。
「…………んんっ!」
雫の体が、ぴくんと跳ねた。
咀嚼するたびに、幸せが全身に染み渡っていくような、蕩けるような表情。
「……美味しい……。タレの甘辛さと、卵のまろやかさが、お口の中で結婚しているわ……。お肉も柔らかくて、ご飯が止まらない……。悠真君、あなたやっぱり魔法使いか何かなの?」
「ただの料理好きだよ。……でも、雫が手伝ってくれた味噌汁があるから、いつもよりずっと美味しく感じるな」
「悠真君……」
雫は箸を置き、少しだけ居住まいを正した。
「私……今日、わかった気がするわ。お料理は、ただお腹を満たすための作業じゃない。誰かのことを想って、一生懸命準備して……一緒に『美味しいね』って言い合う。それが、一番の幸せなんだって」
彼女の瞳には、かつての「氷の令嬢」と呼ばれた頃の冷たさは微塵もなかった。
そこにあるのは、小さな幸せを大切に慈しむ、一人の女の子の温かな光。
「私、もっと上手になりたい。……いつか、悠真君を驚かせるくらい美味しいものを作って、あなたが疲れて帰ってきた時に『おかえりなさい、ご飯にする?』って……言えるようになりたいの」
未来を約束するような、甘くて切実な誓い。
俺は少し照れくさくなって、彼女の頭をそっと撫でた。
「ああ。楽しみにしてるよ。……でも、焦らなくていい。雫のペースで、少しずつ『お嫁さん』になっていけばいいんだから」
「……ええ。……悠真君」
雫は顔を真っ赤にしながらも、真っ直ぐに俺を見つめてそう言った。
この小さな部屋には、牛丼のタレの香りと、二人の笑い声がどこまでも温かく満ち溢れていた。




