第27話 氷の令嬢、全面解凍につき…
静寂。
それは、音が消えたというより、教室内の空気が一瞬にして凝固したような、奇妙な圧迫感を伴うものだった。
俺――佐藤悠真の右手には、柔らかくて、少しだけひんやりとした熱を持つ、誰かの指が絡まっている。
いや、「誰か」なんて他人事のように言っている場合じゃない。
氷室雫。
この光星高校で、その名を知らぬ者はいない。
触れるものすべてを凍てつかせるような美貌と、他者を一切寄せ付けない孤高の振る舞いから『氷の令嬢』と称される彼女が。
今、全クラスメイトの目の前で、俺の手をしっかりと握りしめている。
「…………え?」
最初に声を漏らしたのは、誰だったか。
それを合図に、教室の静寂は粉々に砕け散り、爆発的な騒音へと変わった。
「ええええええええええええええええええええっ!?」
「は!? え、ちょっと待て、何が起きてるんだ!?」
「氷室さんが……男と、手を……!?」
「しかも相手、佐藤かよ!? なんで!? いつの間に!?」
怒号に近い驚愕の声が、四方八方から飛んでくる。
無理もない。昨日までの俺たちは、クラスでの接点など皆無に見える「ただのクラスメイト」でしかなかったのだから。
俺は、あまりの視線の痛さに、思わず雫の手を離そうとしてしまった。
だが。
「……だめ」
雫は、さらに力を込めて俺の指を握り直した。
彼女の白い頬は、林檎のように赤く染まっている。それでも、真っ直ぐに前を見据え、俺から離れようとしない。
昨日、父親の前で自分の居場所を宣言した彼女の決意は、本物だったのだ。
「……おはよう、みんな」
雫が、震える声を整えて、教室内を見渡した。
その瞬間、騒ぎ立てていた連中が再び静まり返る。
彼女が、あの「氷の令嬢」が、自分からクラスメイトに挨拶をするなんて、それだけで歴史的な事件だった。
「佐藤君とは……その、お付き合いを、させていただいています。だから、驚かせてしまって、ごめんなさい」
丁寧な、けれど拒絶を許さない宣言。
その直後、雫は俺の耳元に顔を寄せ、クラスの誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。
「(……悠真君。私たち、付き合ってるでいいのよね…?)」
上目遣いに、不安げに俺を覗き込んでくる。
学校での凛とした態度とは裏腹に、その瞳は助けを求める迷子の子猫のようだ。
……だめだ、可愛いすぎる。
このギャップを知っているのは俺だけだと思っていたが、今の囁きひとつで、俺の心臓は簡単にオーバーヒートを起こした。
「……ああ。そうだよ、雫」
俺がそう答えると、彼女は花が綻ぶような、それはそれは美しい笑顔を見せた。
それを見た男子生徒たちの数人が、バタリと机に突っ伏したのが見えた。
「浄化される……」とか「死ぬほど羨ましい」という呻きが聞こえる。
「お、おい佐藤ぉ……!」
案の定、俺の席の周りには、野郎どもの「処刑部隊」が結集していた。
先頭に立つのは、俺の腐れ縁である井上湊だ。彼は涙目で俺の肩を掴み、ガクガクと揺さぶる。
「説明しろ。今すぐ説明しろ。なんでお前が氷室さんと付き合ってるんだ。前世で世界でも救ったのか? それとも氷室さんの弱みでも握ってるのか!? もし脅迫なら俺が警察に――」
「バカ言え、そんなわけないだろ」
「じゃあどうしてだよ! あの『氷の令嬢』だぞ!? 俺たちが声をかけても一瞥もくれなかった、あの女神様だぞ!」
井上の言い分は、この学校の男子の総意だろう。
俺は困ったように頬を掻く。まさか、「隣に住んでて、チャーハンで餌付けしたら懐かれました」なんて真実を言えるわけがない。
すると、隣の席に座った雫が、スッと助け舟を出してくれた。
「……佐藤君は、私のヒーローなんです」
ヒーロー。
その言葉に、男子たちの視線がさらに鋭くなる。
「私が一番辛かった時に、手を差し伸べてくれた。……彼の作るご飯は、世界で一番温かくて、美味しいんです。私は、彼の優しさに救われました」
嘘は言っていない。言っていないが、あまりにもストレートな賛辞に、俺の顔まで火を噴きそうになる。
女子グループからも、「えっ、佐藤君って料理できるの?」「意外と家庭的なんだ……」「ギャップ萌え?」という声が漏れ始めた。
一方の井上は、がっくりと項垂れていた。
「……負けた。胃袋を掴まれたのが女の方じゃなくて、氷室さんの方だったなんて。佐藤、お前……お前こそが真の勇者だよ……」
なんとか第一波をやり過ごしたものの、休み時間になるたびに他のクラスからも野次馬が押し寄せ、俺の日常は一変してしまった。
昼休み。
いつもなら屋上や部室棟の影で一人で食べている雫だが、今日は当然のように俺の席の隣に椅子を持ってきた。
「悠真君、今日のお弁当……楽しみにしてたわ」
雫が、期待に満ちた目で俺を見つめる。
周囲の視線は相変わらず凄まじいが、一度「公開」してしまえば、もう隠れる必要はない。
「今日は、雫のリクエスト通りにしたぞ。はい、これ」
俺が二つの弁当箱を取り出すと、雫は嬉しそうに手を合わせた。
蓋を開けると、そこには彩り豊かなおかずと――雫が熱望した、特製の「チャーハン」が入っていた。
学校の弁当でチャーハンというのもどうかと思ったが、彼女にとってはこれこそが『俺と彼女を繋いだ特別な料理』なのだ。
「……美味しい。やっぱり、悠真君の作る味が一番好き」
雫は一口食べるごとに、本当に幸せそうに頬を緩める。
その姿は、学校でのクールなイメージとはかけ離れた、年相応の少女の姿だった。
クラスの連中も、そんな雫の『初めて見る顔』に、毒気を抜かれたようだった。
「……なあ。氷室さんって、笑うとあんなに可愛いんだな」
「佐藤の野郎、あんな笑顔を独り占めしてたのかよ……。畜生、応援したくなっちまうじゃねえか」
少しずつだが、周囲の空気『「驚愕』から『祝福(と一部の強烈な嫉妬)』へと変わっていくのを感じる。
だが、当の雫はそんな周囲の変化などお構いなしだ。
彼女は箸を置くと、少しだけ躊躇うように、けれど勇気を出して、俺の弁当箱にある卵焼きを指差した。
「ねえ、悠真君。……それ、食べてもいい?」
「え? ああ、いいけど」
「じゃあ……その……食べさせて?」
――静まり返る教室。
俺の手が、止まる。
雫の顔は、もう限界突破と言わんばかりに真っ赤だ。自分で言っておいて、恥ずかしさに震えている。
それでも、彼女は目を逸らさずに俺を待っている。
これは、彼女なりの「覚悟」なのだ。
もう二度と、氷の殻に閉じこもらない。
自分の感情を殺さず、一人の女の子として悠真と生きていく。
その決意を、彼女はこの公開処刑に近い状況で示そうとしている。
「…………わかったよ」
俺も覚悟を決めた。
卵焼きを箸で摘み、彼女の小さな唇の前へ運ぶ。
「はい。……あーん」
雫は、こくりと喉を鳴らして、静かに口を開けた。
ハムッ、と可愛らしい音を立てて卵焼きを咀嚼する。
「……ん。……甘くて、とっても美味しいわ」
満足そうに微笑む雫。
直後、教室のどこかから「ごふっ」と鼻血を出すような音が聞こえたが、俺はあえて無視することにした。
放課後。
校門を出る際も、俺たちは当然のように手を繋いでいた。
もう、コソコソする必要はない。
「……ねえ、悠真君。お父様が言っていたこと、覚えてる?」
並んで歩きながら、雫がふと真面目な顔で切り出した。
「ああ。学年一位から一度でも落ちたら、連れ戻す……だったな」
「ええ。……私、絶対に負けないわ。悠真君とのこの時間を守るためなら、どんな勉強だって耐えられる」
彼女の瞳には、かつての「義務感」ではない、自分の幸せを守るための強い意志が宿っていた。
「でもね、悠真君。……一つだけ、心配があるの」
「心配?」
「……お父様が言っていた、……『泥にまみれて生きるがいい』って」
雫は、自分の繋いだ手を少しだけ強く握った。
「私……掃除も、洗濯も、まだ全然うまくできない。ゴミの出し方だって、悠真君に教えてもらうまで知らなかった。……私、本当にあなたの隣にいる資格、あるのかしら」
その弱気な言葉に、俺は立ち止まり、彼女の正面に回った。
そして、空いている方の手で、彼女の頭を優しく撫でる。
「資格なんて、最初から必要ないんだよ。できないなら、一緒にやればいい。俺が教えるし、手伝う。……それにさ」
俺は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「生活能力ゼロの雫を支えるのが、俺の仕事なんだろ? 『お嫁さん』への道はまだ遠いかもしれないけど、その修行に付き合うのは、俺にとって世界で一番楽しい時間なんだ」
「…………っ」
雫の目から、ポロリと一粒の涙が零れた。
でも、それは悲しい涙じゃない。
彼女は泣き笑いのような表情で、俺の胸に頭を預けてきた。
「……ずるいわ、悠真君。そんなこと言われたら、私……もっともっと、あなたなしじゃ生きていけなくなっちゃう」
「いいよ。……俺も、お前がいない毎日はもう考えられないから」
夕暮れ時の帰り道。
二つの影が、長く伸びて重なっていた。
その境界線は曖昧で、まるでお互いの欠けた部分を補い合っているかのようで。
だが。
俺たちは、この時の甘い空気に浸りすぎていて、まだ気づいていなかった。
『氷の令嬢』の氷を溶かし、その笑顔と指先を独占してしまった一人の少年――俺に向けられる、学校の野郎どもからの嵐のような嫉妬が、すぐそこまで迫っていることを。




