第26話 本当の俺と彼女
俺の手に重なった雫の手は、最初は凍えるほど冷たかった。けれど、俺が力を込めて握り返すと、そこから確かな熱が伝わり、彼女の指先に色が戻っていくのがわかった。
雫は俺の手を離さなかった。それどころか、震える足で一歩前へ踏み出し、俺の背中に隠れるようにして、初めて自分の意志で父親と対峙した。
「……お父様。私は、帰りません」
その声は小さかったが、廊下の静寂を切り裂くほどに鋭かった。
「何だと……? 雫、自分が何を言っているのかわかっているのか。その男の甘言に惑わされ、氷室の誇りを捨てるというのか!」
宗一郎の怒声が、狭い廊下に反響する。プロのビジネスマンとして培われた威圧感は、高校生である俺たちを容易に押し潰せるほどに重い。
だが、雫は俺のシャツをギュッと掴みながら、さらに言葉を重ねた。
「氷室の誇り……。お父様が仰るそれは、私にとってはただの『檻』でした。感情を殺し、誰にも心を開かず、ただ完璧な人形として振る舞うこと……。そんな日々に、何の意味があるのですか」
「意味だと? それがお前の価値だ! 完璧であってこその氷室雫だろう!」
「いいえ、違います」
雫は俺の背後から顔を出し、真っ直ぐに父親の瞳を射抜いた。その瞳には、かつての絶望も、人形のような虚無もなかった。そこにあるのは、一人の少女としての強い意志だ。
「私は、悠真君の隣にいる自分が好きなんです。ゴミの分別もできなくて、料理に失敗して、彼に叱られて……。でも、美味しいご飯を一緒に食べて、笑い合える。そんな、お父様が『無価値』だと切り捨てる時間の中にこそ、私の本当の居場所がありました。私はもう、お父様の言う『完璧』には戻れません。戻りたくありません!」
雫の叫びに、宗一郎は深く、沈痛な沈黙を守った。
かつて自分が「愛」だけで家族を守ろうとし、無力に砕け散ったあの日以来、彼は「金」と「教育」という鉄壁の防壁の中に、たった一人の忘れ形見を閉じ込めてきた。
だが今、娘の目には、彼が遠い昔に捨て去ったはずの「輝き」が宿っていた。
「…………っ」
宗一郎の眼鏡の奥の瞳が、激しく揺れ動いた。
今の雫の表情。自分の愛する者を信じ、不器用ながらも胸を張って微笑むその姿は、かつて宗一郎が最も愛し、そして失った女性――雫の亡き母親である美咲の面影と、あまりにも痛いくらいに重なっていたのだ。
(ああ、そうだ。雫は……美咲に似て、一度言い出したら聞かなかったな……)
完璧という名の呪縛が、娘の中に見た亡き妻の幻影によって、音もなく崩壊していく。
宗一郎は力なく溜息を吐き、視線を俺たちから逸らすと、静かに背を向けた。
「佐藤君。……先ほど、君は証明すると言った。ならば見せてもらおう」
「高校卒業までの期間を猶予してやろう。雫。お前は卒業まで、その不便な安アパートで暮らすことを許す。ただし、条件だ。今後行われる全ての定期考査において、学年一位から一度でも落ちれば、その時は私の力で即刻連れ戻す」
「……っ。学年一位を……」
「そうだ。幸せとやらが甘えであってはならん。高い価値を維持しつつ、その『温かい飯』というものが成立することを証明し続けろ。……失敗したその瞬間が、このおままごとの終焉だ」
宗一郎はそれだけ言うと、階段を一段下りた。
「業者はキャンセルしておく。……それと、そのカードは受け取っておけ。君たちの言う『自立』は結構だが、私は、娘が飢えるのを見る趣味はない。食費の足しにでもするがいい。……いいな、佐藤君。君の価値もまた、この期限が終わるまでに測らせてもらう」
宗一郎は一度も振り返ることなく、階段を下りていった。下で待機していた高級セダンのドアが閉まる音が聞こえ、やがてエンジン音が遠ざかっていく。
嵐は、去ったのだ。
「………………はぁ」
俺は、我慢していた息を一気に吐き出し、その場にへなへなと座り込んだ。
全身の力が抜け、指先一つ動かすのも億劫になるほどの疲労感が押し寄せてくる。
「……悠真、君……」
雫もまた、限界だったのだろう。
俺の腕にしがみつき、崩れ落ちるように膝をついた。
そして、堰を切ったように、声を上げて泣き始めた。
「……う、……うあ、ああぁぁ……っ!」
それは、嫉妬の涙とも、数分前の絶望の涙とも違った。
何年も何年も、自分を縛り付けてきた氷の鎖から解き放たれた、心からの安堵と、自由を噛みしめるための涙。
俺は何も言わずに、彼女の身体を正面から抱き寄せた。
震える細い肩。俺の胸に押し当てられた、熱い額。
石鹸の香りに、安堵の混じった涙の匂い。
「……もう、大丈夫だ、雫。……どこにも行かなくていい」
「……ん、……うん、……ありがとう、……悠真君、……っ」
雫は、俺のシャツを握りしめ、顔を埋めた。
共同生活(仮)としての契約。
隣人としての付き合い。
お世話係と、お世話される側。
そんな「名前のついた関係」は、今の二人にはもう必要なかった。
俺は、彼女の背中を優しく撫でながら、確信していた。
この夜、俺たちの関係は「本当の恋人」へと、不可逆的に進化してしまったのだということを。
溶け出した氷は、もう二度と冷たい壁には戻らない。
「……ねえ、悠真君」
しばらくして。
雫が、俺の腕の中で少しだけ顔を上げた。
涙で赤くなった目、でもその奥には、世界で一番幸せそうな光が宿っている。
「……お腹、空いちゃったわ」
あまりにも彼女らしい、そして俺たちが守り抜いた日常を象徴する言葉。
俺は思わず、吹き出してしまった。
「……そうだな。……チャーハンでいいか? 特急で作ってやるよ」
「ええ。……世界で一番美味しい、私の騎士様のご飯を、食べさせて」
雫はそう言って、俺の頬に、羽が触れるような軽いキスをした。
俺の心臓が、今日何度目かの限界突破を迎えたのは、言うまでもない。
◇◇◇◇◇
翌朝。
昨日までの修羅場が嘘のように、冬の空はどこまでも青く澄み渡っていた。
俺は、いつも通り学校へ向かう準備をし、校門をくぐった。
周囲の喧騒、生徒たちの笑い声。変わらないはずの日常。
だが、その日の「私立光星高校」の歴史は、一人の少女の手によって塗り替えられることになる。
「……おはよう、悠真君」
教室の入り口。
少し遅れて教室に入ってきた俺の前に現れたのは、いつも通り完璧に整えられた黒髪の、氷室雫だった。
だが、何かが決定的に違っていた。
彼女は、周囲に集まっていた男子生徒たちの視線など一切気にする様子もなく、俺の方へ歩み寄った。
そして。
「……っ!?」
全クラスメイトが見守る中。
氷の令嬢・氷室雫は、俺の手をしっかりと、指を絡めるようにして恋人繋ぎで握りしめたのだ。




