第25話 騎士の宣戦布告
ドアが閉まる、重苦しく、そして絶望的な音が部屋に響いた。
すべてが終わったかのように思えた、その直前――。
――ガシャン!
俺は、閉まりかけたドアに強引に手を差し込んだ。指の関節に鋭い痛みが走ったが、そんなことはどうでもいい。痛みよりも、このまま彼女が消えてしまうことへの恐怖の方が、数万倍も強かった。
俺は力任せにドアを押し開け、廊下へ出ようとしていた氷室宗一郎の前に立ちふさがった。
「……何だ。往生際が悪いな」
宗一郎が、底冷えのする声で俺を射抜く。眼鏡の奥にある瞳は、ゴミを見るような冷徹さを失っていない。その隣で、感情を失った瞳のまま立ち尽くす雫。彼女は俺を見ようともせず、ただ自分の爪先を、あるいはその下にある奈落を見つめているようだった。
「言い忘れたことがあったからな。……それに…こんなもん、忘れていくなよ」
俺は、床に落ちたままだったあのカードを拾い上げた。それを、俺は宗一郎の胸元に向けて、突きつけた。
「これ、いらねえよ。アンタにとっては万能の魔法のカードかもしれないけど、俺にとってはただのプラスチックのゴミだ。……返せ。雫を返せ」
宗一郎は、信じられないものを見るような目で俺を見つめ、それから可笑しそうに鼻で笑った。
「返せ、だと? 笑わせるな。雫は私の娘だ。氷室の血を引く、完璧でなければならない存在だ。……君のような、明日の飯代を心配し、狭いボロアパートで一生を終えるような凡夫が、彼女をどうやって守るつもりだ? 君に何ができる? 経済的な保証は? 将来の地位は? それとも、口先だけの安っぽい愛情か?」
「……そんなもん、ねえよ。一個もな。地位も名誉も、アンタの資産の一パーセントにも届かない。そんなことはわかってる」
俺は一歩、宗一郎に詰め寄った。体格も、身に纏うオーラも、彼の方が圧倒的に上だ。だが、今の俺に退くという選択肢はなかった。俺の背後には、凍りついたまま震えている雫がいるのだ。
「アンタの言う通りだ。俺はただの高校生で、アンタを黙らせるような力なんて持ってない。……でもな、アンタが何年もかけて一度も雫に与えなかったものを、俺は持ってる」
「……ほう。聞かせてもらおうか。君が持っている『氷室の資産』を超える価値のあるものとやらを」
「『温かい飯』と、『ただいま』って言える居場所だ」
宗一郎の眉が、ピクリと動く。俺はそのまま、溜め込んでいた想いを、魂ごとぶつけるように言葉を叩きつけた。
「あんたが雫を『完璧な道具』として磨き上げ、自己満足している間、彼女がどんな気持ちでお腹を空かせていたか知ってるか? アンタが『氷室の誇り』だなんだと、雫の気持ちも無視して押し付けている間、彼女がどれだけ静まり返った一人の食卓に耐えてたか知ってるか? 栄養素だけが入ったサプリメントや、冷え切ったコンビニの飯で、彼女の心がどれだけ痩せ細ってたか知ってるか!?」
「……下俗な話だな。食事など、栄養さえ摂れれば生命維持に支障はない」
「違うんだよ! 飯を食うってのは、生きてることを確かめる作業なんだよ!」
俺は叫んでいた。廊下中に響き渡る声。それは自分でも驚くほどの熱量を帯びていた。
「俺の作った……残り物で急いで作っただけのチャーハンを食べて、雫は泣いたんだぞ! 『あったかい』って言って、ボロボロと……。泣きながら食べたんだ! アンタに一度でも、そんな顔を見せたことがあるか!? アンタが与えた『完璧な環境』の中で、彼女があんな風に子供みたいに笑いかけたことがあるか!?」
俺の前にいる雫の肩が、びくんと大きく震えた。
「アンタは雫を『氷の令嬢』に仕立て上げたかもしれない。でも、俺の隣にいる時の雫は、ただの雫なんだ。掃除ができなくて、ゴミの分別もわからなくて、オムライスにハートを描いてほしくて、俺の肩を枕にして『落ち着く』って言って笑う……。そんな、どこにでもいる、最高に可愛い女の子なんだよ!」
「………………」
「アンタが彼女を閉じ込めているその檻は、完璧かもしれないけど、血も通ってなきゃ匂いもしない。……でも、俺の隣なら、毎日洗濯物の匂いがして、明日何を食おうかって、バカみたいなことで笑い合える明日があるんだ! それが彼女にとっての、本当の『生きる意味』なんだよ!」
俺は雫の方を振り返り、その虚ろな、今にも消えてしまいそうな瞳を真っ直ぐに見つめた。もう一度、彼女の瞳に光を灯すために。
「雫! 思い出せよ! 『全部夢だった』なんて、嘘をつくな!俺が作った飯を食って、お前は確かに『生きてる』って顔をしてたんだぞ。俺たちの毎日が、偽物なわけないだろ!」
「……ゆ、悠真……君……」
雫の唇が、微かに震えた。
彼女の心を覆っていた分厚い氷に、目に見えるほどのヒビが入る。
漆黒の瞳の奥に、小さな、だが決して消えない確かな灯が、再び灯った。
「アンタにとっては、俺はただの『料理人もどき』かもしれない。でも、俺は雫の騎士だ。……アンタが彼女を無理やり連れ去るっていうなら、俺は一生かかってでも、彼女が食べたいって言うものを作り続けて、彼女の胃袋を掴んで、アンタの冷え切った元から奪い返してやる!」
「…………ふっ」
宗一郎が、喉の奥で乾いた笑い声を漏らした。それは嘲笑のようでもあり、あるいは初めて見る未知の存在への感嘆のようでもあった。
「……面白い。地位も名誉も持たぬ無力な少年が、料理と居場所だけで、氷室の家督が築き上げた価値観に挑もうというのか。……滑稽だな。実に滑稽で、……そして、不快なほどに真っ直ぐだ」
宗一郎の眼鏡の奥の瞳が、鋭さを増す。だが、そこには先ほどまでの徹底的な軽蔑だけではなく、目の前の少年の「言葉の重み」を測るような、奇妙な静寂が宿っていた。
「……だが。雫がこれほどまでに、他人の言葉に揺らいでいる姿を見るのは、生まれて初めてだ。……私の管理が、甘かったのか。あるいは、君の言う『飯の温かさ』とやらが、想定外の不純物だったのか」
宗一郎は雫の肩から、ゆっくりと手を離した。そして、初めて俺の目を見て、問いかけるように言った。
「佐藤悠真と言ったか。……君の言う『温かい飯』とやらが、私の与える『完璧な環境』よりも、娘を幸福にできるというのなら。……それを、私の前で証明してみせろ」
「……ああ。言われなくても、そうする。明日も、明後日も、ずっとだ」
俺はカードを、再び宗一郎の足元に叩きつけた。今度は、拒絶の意志を込めて。
「金なんていらない。俺が欲しいのは、雫の『いただきます』だけだ。それが、俺の戦う理由のすべてだ」
雫が、顔を上げた。
彼女の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
それは先ほどまでの絶望の涙ではなく、凍てついた心が悠真の熱によって溶け出した、温かな涙だった。
俺と氷室宗一郎。そして雫。
三人の視線が、火花を散らすように交差する。
嵐の真っ只中で、俺は初めて、氷の令嬢を守るための『剣』――キッチンナイフと、温かな料理を手に、宣戦布告を果たしたのだ。
「……雫。……」
俺は、彼女に手を差し出した。
父親の前で、俺の手を取ることは、彼女にとってこれまでの人生すべてを捨てることに等しい。
だが、雫は迷わなかった。
「……悠真君」
彼女の白い手が、俺の手に重なった。
驚くほど熱く、力強く。
俺は彼女の手を離さない。この先、どんな嵐が吹こうとも、俺は彼女の胃袋と心を、温め続けると決めたのだから。




