第24話 壊れた人形
氷室宗一郎が残していった冷たい静寂が、部屋の隅々にまで灰のように降り積もっていた。
数分前まで、ここは世界で一番温かな場所だったはずだ。共同作業の果てに得た、この静かで小さな幸せ。
だが今、俺の目の前にいる少女は、そのすべてを忘れ去ってしまったかのように無機質だった。
「……雫」
俺の声に、彼女は反応しない。
膝をついたまま、虚空を見つめる彼女の瞳からは、光が完全に消えていた。
昨日まで俺に見せてくれていた、あの宝石のような黒い輝きも、美味しそうに飯を食う時の潤いも、嫉妬に震える情熱も。
すべてが分厚い氷の下に閉じ込められ、そこにはただ、精巧に作られた「人形」だけが残されていた。
「佐藤君。……カードを、拾って」
雫の口から出たのは、聞いたこともないほど平坦で、体温の感じられない声だった。
『悠真君』ではない。
以前のような、親しみを込めた『佐藤君』でもない。
ただ事務的に、他人に指示を出すための記号としての呼び名。その響きは、冬の夜風よりも鋭く俺の耳を切り裂いた。
「……嫌だ。こんなもん、受け取るわけないだろ」
「拾って。……それが、お父様の望むことよ。……お父様の言葉は、この家では絶対なの。逆らうこと、否定すること、それ自体が許されない。……私にも、あなたにも」
雫はゆっくりと立ち上がった。その動作には一切の迷いがなく、同時に一切の生気もなかった。
彼女は幽霊のような足取りで俺の横を通り過ぎ、クローゼットへと向かう。そして、昨日俺と一緒にあんなに苦労して畳んだ服を、まるでただの布切れを処理するかのように無造作に掴んで鞄に詰め込み始めた。
一つ、また一つ。
俺たちが一緒に選んだ生活の断片が、黒いボストンバッグの中に飲み込まれていく。
その光景を見ているだけで、心臓が握りつぶされるような痛みが走った。
「……おい、雫! 何してるんだよ! 明日の朝まで時間は……まだあるだろ! 」
「今から準備をしておかないと、お父様を待たせることになるわ。……氷室の娘が、人を待たせるなんて、あってはならない失態なの。分単位で管理された世界に戻るだけ。ただ、それだけのことよ」
機械的な手つき。
まるで行程が決まっている工場作業のように、彼女は淡々と荷物をまとめていく。
俺が教えた「シワにならない畳み方」なんて、もう意識すらしていない。ただ、そこにあるものを「消去」するように詰め込んでいく。
俺は、その震える背中を掴もうとした。だが、彼女の周囲に張り付いた目に見えない氷の壁――「拒絶」のオーラが、俺の手を物理的な抵抗となって押し止める。
「雫、こっちを向けよ! 嘘だろ? お前、さっきまで……」
「……佐藤君。これ以上、私を惨めにしないで」
振り向かずに放たれたその言葉に、俺は息が止まった。
そこへ、再びドアが開いた。
廊下で待機していたのであろう宗一郎が、高級時計を一度だけ確認し、冷ややかに部屋を見渡す。その視線が俺を掠める時、そこには憐憫すらなく、ただ道端の石ころを避けるような冷淡さがあった。
「……賢明な判断だ、雫。ようやく目が覚めたようだな。不相応な環境は、一時的に判断力を狂わせる毒になる。君も、今回の件で学んだはずだ」
宗一郎は、いまだに床に落ちたままのカードを顎で指した。
「佐藤君、と言ったか。……君のような凡夫が、氷室の娘に関わることの重大さを理解していないようだが、これは私の最大限の温情だ。そのカード一枚で、君の将来の不安はすべて消える。大学の学費でも、新しい生活の資金にでもすればいい。……娘の『気まぐれな遊び』に付き合ってくれた手間賃としては、破格のはずだ」
「……遊び、だと?」
俺は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、血が滲むほどに強く。
怒りで視界が真っ赤に染まる。
この男は、雫がどれだけこのボロアパートで必死に生きようとしていたか、どれだけ孤独と戦っていたかを知ろうともしない。
彼女が俺の作った飯を食べて、初めて「生きててよかった」と言った時の涙すら、ただの「遊び」の一言で塗りつぶそうとしている。
「ふざけるな……。雫は、モノじゃない。あんたの所有物でも、完璧を飾るための道具でもないんだ! 彼女の心を、あんたは一瞬でも考えたことがあるのかよ!」
俺の叫びに、宗一郎は眉一つ動かさなかった。眼鏡の奥にある瞳は、絶対的な確信に満ちていた。
「道具か。……そうかもしれないな。だが、磨き上げられた一級の道具には、それに相応しい主と、相応しい置き場所がある。……君のような、ただ飯を作るだけの料理人もどきが、彼女という存在を汚していい理由にはならないのだよ」
宗一郎は雫に歩み寄り、その細い肩を鷲掴みにした。雫は拒むこともなく、ただ風に揺れる糸の切れた人形のように、されるがままになっている。彼女の身体が微かに震えていることに、この男は気づいているのだろうか。いや、気づいたとしても、それはただの「不具合」としてしか認識しないのだろう。
「雫。……この男に、最後に何か言い残すことはあるか? けじめをつけるのも、教育のうちだ」
雫は、ようやく俺の方を向いた。
だが、その瞳に俺の姿は映っていないようだった。
いや、正確には「俺を見ないように」必死に焦点をずらしているようにも見えた。
「…………ごめんなさい。佐藤君」
彼女は、小さく、力なく笑った。
それは微笑みというにはあまりにも悲しく、自分の存在を消し去ることを決めた者のような、儚い表情。
「……全部、私の夢だったのね」
「……雫? 」
「悠真君に出会って、毎日温かいご飯を食べて……。名前を呼び合って、家族みたいに笑って。……そんなの、私には許されるはずがなかった。……不似合いな幸せを望んだから、お父様に叱られてしまったわ」
彼女は、悠真の母・佳代子からもらった縮緬のお守りを、そっと机の上に置いた。
「……返しておくわ。……これを持っていると、また、夢を見てしまいそうだから」
「待てよ、雫! お前、本気で言ってるのか!? 」
俺は必死に訴えかけた。だが、雫は首を横に振った。
嘘だ。
真っ赤な、悲しい嘘だ。
そんなはずがない。
あの時、俺のシャツを掴んでいた彼女の指の震えも、俺の胸に押し当てられた額の熱さも、すべてが真実だったはずだ。あの時の彼女は、間違いなく「生きて」いた。
だが、今の彼女の瞳は、それを完全に否定していた。
凍りついた心。
彼女は、自分をこれ以上壊さないために。
父親という絶対的な支配者に、これ以上、俺が傷つけられないように。
俺との思い出をすべて「夢」だと自分に言い聞かせ、記憶の奥底に封印しようとしているのだ。そうしなければ、この絶望の中で、彼女の心は粉々に砕け散ってしまうから。
「……満足か? 佐藤君。娘もこう言っている」
宗一郎が、促すように彼女の背中を押す。
雫は一度も、本当に一度も振り返ることなく、玄関へと歩き出した。
その足取りは、先ほどまでの震えが嘘のように堂々としていた。それが、俺には彼女の精一杯の「演技」に見えて、余計に胸が締め付けられた。
ドアが閉まる瞬間……
「…………夢で、終わらせてたまるか」
絶望の底で、俺の心拍数は、激しく打ち鳴らされ始めていた。




