第23話 絶対零度の訪問者
翌日、アパート『コーポ・サザンカ』の前の細い路地に、この場所にはおよそ不釣り合いな、漆黒の光沢を放つ高級セダンが滑り込んできたのは、午後五時を回った頃だった。街灯が灯り始めた黄昏時、その車体はまるで周囲の光をすべて吸い込むブラックホールのように、不吉な存在感を放っていた。
「……来たわ」
隣の202号室――雫の部屋で、俺と雫は並んで窓の外を見下ろしていた。
雫の横顔は、昨夜の赤らんだ面影が嘘のように真っ白になっている。彼女の瞳からは生気が失われ、昨日まで溶けかかっていた「氷の令嬢」の仮面が、より分厚く、より冷たく再構成されていくのが分かった。
彼女が今、どれほどの恐怖と向き合っているのか。俺は彼女の肩にそっと手を置き、その心の震えを止めようとした。だが、雫はその指先が触れる直前に、自ら一歩、俺から距離を置いた。
「……ダメよ、悠真君。お父様の前では、私に触れないで。……あなたまで、壊されてしまうわ」
拒絶、ではない。それは、俺を守るための、悲痛な警告だった。
その言葉に、俺の胸に冷たい何かが深く突き刺さる。昨日まで「悠真君の隣がいい」と言ってくれた彼女が、今は俺を遠ざけることでしか、俺を救えないと思っている。
やがて、コンクリートの階段を上る、規則正しい靴音が聞こえてきた。
カツ、カツ、カツ。
迷いのない、冷徹なリズム。それは、この場所の住人が持つ生活の音ではない。支配し、選別し、切り捨てる者の音だ。
その音が202号室の扉の前で止まり、短く、威圧的なノックが二回響いた。返事を待つ気など毛頭ない、宣戦布告のような音だった。
雫が、ひきつった息を呑みながらドアを開ける。
「……お久しぶりです、お父様」
そこに立っていたのは、仕立てのいい濃紺のスーツに身を包んだ、長身の男だった。
氷室宗一郎。雫と同じ漆黒の髪を完璧なまでに後ろに流し、縁なしの眼鏡の奥にある瞳は、まるで磨き上げられた手術用ナイフのように鋭い。そこには肉親への愛情どころか、人間的な感情の一片すら見当たらなかった。
宗一郎は、娘である雫に視線を向けることすらなく、まず土足同然の勢いで部屋の中に足を踏み入れた。
俺と雫が死に物狂いで片付け、母・佳代子が「素敵ね、女の子の部屋らしいじゃない」と笑ってくれたその空間を、彼は一瞥しただけで、嫌悪感を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「……酷い臭いだ。安っぽい洗剤と、下俗な生活の臭いが染み付いている。よくこんな豚小屋のような場所で三ヶ月も耐えられたものだな、雫。氷室の人間としての矜持すら、その悪臭で失ったか」
その一言で、俺たちの昨日の努力が、共有した時間が、すべて無意味なゴミとして切り捨てられた。
雫は俯き、唇を血が滲むほどに噛んで耐えている。彼女の細い背中が、暴力的なまでの言葉の重圧に耐えかねて、今にも折れてしまいそうだった。
「あ……あの、初めまして。隣に住んでいる、佐藤悠真と言います」
俺は一歩前に出て、努めて冷静に挨拶をしようとした。震える声を抑え込み、彼女の隣に立つ資格があることを示そうとした。
だが、宗一郎は俺を見なかった。
正確には、視界には入っているはずなのに、そこに人間が存在しているとは認識していない。まるで、道端に落ちている石ころや、壁の染みを見ているかのような、徹底的な無視。その傲慢な沈黙が、俺の存在意義を根底から否定してくる。
「雫。私がなぜ、わざわざ海外から予定を切り上げてまでここへ来たか、分かっているな?」
「……はい。メッセージを、拝見しました」
「……お前にこの一人暮らしを許したのは、氷室の人間としての自立心を養うためだ。甘えを捨て、自らを律する術を学ぶための期間だったはずだ。だが、お前がしていたのは自立ではない。……隣に住む、この身元の知れない、卑しい凡夫への『寄生』だ」
宗一郎は、ようやく俺の方に視線を向けた。
だが、それは「対等な対話」を求めてのものではない。顕微鏡で害虫を観察し、殺虫剤の種類を選定するような、氷のような眼差し。
「……寄生、なんてしていません。佐藤君は、ただ困っていた私を助けてくれただけで……食事も、彼がいなければ私は――」
「黙りなさい。醜い言い訳は聞きたくない」
宗一郎の声は、荒らげることもなく、ただ低く、重く響いた。それだけで、雫の言葉が物理的に封じ込められたような錯覚に陥る。
「……最近のお前の行動を調べた者から報告を受けている。お前がこの男の部屋に入り浸り、不適切な関係を結んでいるということをな。挙げ句の果てには、少し前にはこの男の母親まで来て、家族ごっこに興じていたそうではないか。……氷室の娘が、これほどまでに安っぽく成り下がるとはな」
俺は、身体が強張るのを感じた。
監視。
そうだ、世界を相手に仕事をする男が、一人娘を野放しにするはずがなかったのだ。俺たちが「二人だけの秘密」だと思って、スーパーで笑い合い、ソファで肩を寄せて眠ったあの魔法のような時間は、最初から誰かのレンズ越しに、冷徹にカウントされていたのだ。
「不適切な関係なんて、そんなことはありません! 俺はただ、彼女がまともに食事もできていなかったから……放っておけなかっただけで……っ!」
「……凡夫が、私に口を利くな。不快だ」
宗一郎の言葉には、怒りすら感じられなかった。あるのは、ただ絶対的な優越感。彼にとって、俺のような一般市民は、言葉を交わす価値すらない存在なのだ。
「君の目的は分かっている。氷室の財産への足がかりか…下俗な野心だ。これ以上、氷室の名を汚すのであれば、相応の社会的制裁を覚悟してもらう」
宗一郎は再び雫へ向き直り、冷たい宣告を下した。
「雫。明日の朝、八時に引越し業者が来る。ここの荷物はすべて処分しろ。必要なものは買い直せばいい。……お前は今夜中に荷物をまとめ、本宅へ戻りなさい。履修科目はすべてこちらで調整した。明日からは、外部との接触を一切断ち、家庭教師による徹底的な管理下に戻ってもらう。……二度と、このような下等な真似はさせない」
「……っ、……そんな。お父様、せめて学校だけは……卒業まで、あと一年なんです……っ」
雫の顔から、さらに血の気が引いていく。
せっかく手に入れた、温かなご飯の味。
「美味しいね」と笑い合える、当たり前の夕暮れ。
名前を呼び合い、不器用に寄り添った、あの奇跡のような日常が、すべて巨大な力によって握りつぶされようとしている。
「……お父様。お願いです、私は、ここで……悠真君の隣にいたいんです……!」
「……二度言わせるな。……お前が、氷室の人間として『完璧』であれないのなら、お前に自由など必要ない。感情など、氷室の娘には不要なノイズだ。お前はただ、美しく、完璧な道具として磨かれていればいい」
宗一郎は、懐から一枚のカードを取り出した。プラチナ色に輝くそのカードを、彼は俺の足元に、まるでゴミを捨てるかのように無造作に投げ捨てた。
「これは、娘が近づいた迷惑料だ。……君のような学生が、手にできない額が入っている。これを受け取って、二度と雫の前に姿を見せるな。……返事はいらん。君のような人間の言葉は、私にとっては騒音に過ぎない」
カラン、という軽い乾いた音がして、カードがフローリングの上を滑り、俺の足先で止まる。
その音は、俺と雫が積み上げてきた関係が、ただの「金で解決できる程度の些事」だと言われているようで、猛烈な吐き気がした。俺の自尊心も、彼女への想いも、この男にとっては数値化できるコストでしかないのだ。
「……雫。準備をしておきなさい。……私の期待をこれ以上裏切るな」
宗一郎はそれだけを言い残すと、俺には最後まで一度も視線を合わせることなく、翻って部屋を後にした。
重いドアが閉まる音が、この世の終わりを告げる断頭台の音のように、虚しく響いた。
静まり返った部屋の中で、雫は糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
彼女の肩が、小刻みに、そして激しく震えている。
「……悠真君。……ごめんなさい。……ごめんなさい……っ」
数日前、佳代子に「お嫁さん」と呼ばれて幸せそうに笑っていた、あの宝石のような表情はもうどこにもなかった。
そこにいたのは、絶対零度の孤独の中に再び閉じ込められ、羽をもぎ取られた小鳥のような雫だった。
「……雫。俺は……」
俺は、足元に落ちたカードを見つめた。
宗一郎が残していった、暴力的なまでの拒絶と、逃げ場のない圧迫感。
これが、雫がこれまでずっと、たった一人で戦ってきた「氷室」という世界の正体だった。




