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第22話 雫の挑戦

私立光星高校の教室では、今日も変わらぬ光景が繰り広げられていた。


窓際の席に座る、氷室雫。

一切の隙を見せず、静かに本を読み耽る彼女の周囲には、相変わらず他者を拒絶するような絶対零度の空気が張り詰めている。

だが、俺――佐藤悠真だけは知っていた。その「氷の令嬢」の仮面の下で、彼女が今、何を考えているのかを。


(……一回、二回、三回。……よし、三回だな)


雫が、長い黒髪を指先で掬い、耳にかける動作を三回繰り返した。

それは、クラスメイトの誰にも気づかれない、俺と彼女だけの「秘密のシグナル」だった。


(三回は……『今日はお肉が食べたい』だったな。了解だ、雫)


俺が小さく頷くと、雫はほんの一瞬だけ、誰にも見えない死角で唇の端を綻ばせた。

学校では「氷の令嬢」と「地味な男子」。だが、一歩外に出れば、俺たちは誰も踏み込めないほど濃密な時間を共有するパートナーだ。このスリル混じりの二重生活は、俺たちの日常に甘く危険なスパイスを加えていた。


 ◇◇◇◇◇


土曜日、俺たちはいつもの激安スーパー『アキバ屋』へと足を運んだ。

もはや雫にとって、ここは「戦場」ではなく、自分たちの生活を支える大切な「聖域」となっていた。


「悠真君、見て。あっちの鶏もも肉、今日はグラム八十八円よ。先週より十円もお得だわ。……こっちの洗剤も、詰め替え用の方がポイント還元率が高いわね」


「……雫、お前。本当に主婦力が上がったな」


「当然よ。佳代子さんに『よろしく』って託されたのだもの。……いつか本物の奥さんになっても困らないように、今のうちに経済観念を身につけておかないと」


さらりと、爆弾発言を投げかけてくる雫。

彼女は変わらず変装はしているが、俺と一緒に買い物袋を提げて歩くこの時間を、隠す必要のない「自分たちの権利」だと信じて疑っていないようだった。


買い出しを終えて部屋に戻り、俺がキッチンで上着を脱ぐと、雫が「あ……」と声を上げた。


「……どうした?」


「……悠真君の肩に、私の髪の毛がついていたわ」


雫は、俺の肩から一本の長い黒髪をそっと摘み上げると、それを捨てることなく、愛おしそうに自分の指に絡めた。


「……あ、ごめんなさい。……でも、私の印がついているみたいで、なんだか嬉しいわ。……悠真君が私のものだって、世界中に証明しているみたいで」


「……お前なぁ。そういう独占欲、隠さなくなったよな」


「……嫌、かしら?」


上目遣いで覗き込んでくる彼女の瞳。

 

俺は「……嫌なわけないだろ」と小さく呟き、逃げるようにコンロに火をつけた。


 ◇◇◇◇◇


今夜のキッチンには、いつもと違う空気が流れていた。

雫が「今日は、お味噌汁だけは私が一人で作りたい」と言い出したのだ。


「いいか、雫。出汁は煮立たせすぎないように。……味噌を溶き入れる時は、一度火を止めるんだぞ」


「ええ。……分かっているわ。何度も悠真君の隣で見てきたもの」


雫は真剣な表情で、お玉と菜箸を操った。

煮干しで取った黄金色の出汁に、丁寧にカットした豆腐とわかめを投入する。

そして、味噌を丁寧に、ダマにならないように溶かし入れていく。

湯気と共に、味噌の香ばしくて懐かしい香りがキッチンに満ちていく。


「……できたわ。……悠真君、味見してみて……」

 

雫が、震える手で差し出してきたお椀。

俺は一口、それを口に運んだ。


「………………」


「……どう、かしら。……やっぱり、悠真君の味には届かない?」


「いや。……美味い。……雫、……あったかくて、最高だ」


俺がそう言うと、雫の瞳に、不意に大きな涙が溜まった。

彼女は自分の作ったお味噌汁を一口飲み、「……本当だわ。あったかい」と、声を震わせた。


「私……ずっと、この場所を守りたい。……このキッチンで、悠真君と並んで、温かいご飯を作る。……そんな当たり前の幸せが、今の私にはすべてなの。……かつての孤独を忘れてしまうほど、私はもう……あなたなしでは、生きていけないわ」


雫は、俺の胸に顔を埋めた。

料理の温もりと、彼女の体温。

俺たちは、どちらからともなく、狭いキッチンで強く抱き合った。

それは「契約」という言葉を完全に踏み越えた、家族以上の絆だった。


 ◇◇◇◇◇


食後。

俺たちは、すっかり俺の部屋の一部になったこたつに潜り込み、将来の話を始めた。


「……ねえ、悠真君。卒業したら、やっぱり同じ大学に行きたいわ。……推薦枠を使えば、きっと大丈夫よ」


「推薦ってお前……。俺はもっと成績を上げないとな。……お前の隣に堂々と並べるように、本気で勉強しないと」


「ふふっ。……期待しているわね。……二人でキャンパスを歩いて、また夕方には一緒に『アキバ屋』に行って……。ずっとずっと、こうして一緒に生きていきたいの」


雫は俺の腕を抱きしめ、幸せそうに目を細めた。

 

「私たち、ずっと一緒ね。……約束よ?」


「ああ。……約束だ、雫」


この幸せが、永遠に続く。

氷の壁はもう完全に溶け、そこには春のような温もりしかない。

俺も、雫も。そう信じて疑わなかった。


 ――ブブッ。


その時。

こたつの上に置かれた雫のスマートフォンが、短い振動を上げた。

雫は「あら、こんな時間に誰かしら……」と、無邪気に画面をタップした。


瞬間。

雫の身体が、氷を流し込まれたように一気に強張った。

 

彼女の指先が、目に見えて震え始める。

さっきまでの幸せな色が、彼女の頬から一瞬で消え去り、白磁のような冷たさが戻ってきた。


「……雫? どうした? 誰からだ?」


俺は不安に駆られ、彼女の手元を覗き込んだ。

そこには、極めて短く、それでいて逃げ場のない「現実」が記されていた。


『明日、一旦帰国する。話があるから、夕方には部屋に戻っておきなさい。それと――お前の隣の部屋に住んでいる男子生徒についても、詳しく聞かせてもらう……父より』


「…………っ!?」


俺は、息を呑んだ。

雫の父親。彼女を孤独の中に置き去りにし、完璧であることを強いてきた父親。

 

「……なんで。どうして、バレてるの……」


雫の声は、掠れていた。

彼女は、始まったばかりの「小さな幸せ」も、佳代子がくれた「お嫁さん」という温もりも、すべてが一瞬で霧散してしまいそうな恐怖に、ガタガタと震えていた。


「……あ、足音が聞こえるわ。……冷たい、氷の足音が」


雫を閉じ込めていた檻の扉が、外側から乱暴に叩かれ始めていた。


「……雫」


俺は、震える彼女の肩を抱き寄せた。


幸せの絶頂から、奈落へ。

冬の夜は、残酷なほど静まり返っていた。

 

明日。

俺たちは、最強の敵を前にして、砕け散るか、それとも本物の奇跡を起こすか。

運命の審判が、すぐそこまで迫っていた。

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