第21話 とろけるシチュー
俺、佐藤悠真の日常は、あの日、母・佳代子が嵐のように去ってから、決定的にその色を変えていた。
「悠真君、お待たせ。……今日の準備はできているわ」
放課後。俺が部屋の鍵を開けるよりも早く、隣の202号室から雫が現れた。
学校では相変わらず「氷の令嬢」としての凛とした美しさを保っている彼女だが、俺の前に立つ今の彼女は、既に黒髪を後ろで緩く束ね、エプロンを小脇に抱えている。
佳代子に「悠真をよろしくね、お嫁さん」と耳打ちされて以来、雫の「お嫁さん修行」は、加速を通り越して暴走に近い域に達していた。
「……雫。まだ制服も着替えてないだろ」
「いいの。……悠真君のご飯作りを少しでも手伝うのが、今の私の『最優先事項』だから」
雫は当然のように俺の部屋へ滑り込むと、慣れた手つきでエプロンを締め、キッチンに立った。
最初の頃はゴミの分別すら怪しかった彼女が、今では土の付いた人参やジャガイモを「こうすれば綺麗になるのね」と真剣な表情で洗っている。その白い指先が少し泥で汚れるのも厭わない姿に、俺は言いようのない愛おしさを感じていた。
「よし、今日は『鶏肉と冬野菜のホワイトシチュー』だ。雫、そのジャガイモの芽をしっかり取ってくれるか?」
「ええ、任せて。……完璧にしてみせるわ」
俺はコンロの前に立ち、調理を開始した。
まずは雫が丁寧に泥を落としてくれた野菜を受け取り、皮をむき、カットする。
そして、鶏もも肉を一口大に切り、フライパンで皮目から焼いていく。ジューッという激しい音が響き、脂の香ばしい匂いが立ち上る。
「……いい音。お肉が『美味しくなりたい』って言っているわ」
「お前の感性、たまに独特だよな」
俺は苦笑いしながら、人参の赤、ジャガイモの白、玉ねぎの透明。それらをバターでじっくりと炒めていく。玉ねぎが透き通り、甘みが引き出されたところで、小麦粉を振り入れて粉っぽさがなくなるまでさらに炒める。
「雫、牛乳を少しずつ入れてくれ。ダマにならないようにな」
「……慎重に、ね。……はい」
雫が真剣な顔で、計量した牛乳を注ぎ入れる。俺は木べらで一定の方向に混ぜ続け、とろみを出していく。
仕上げに生クリームと、そして俺の秘密の隠し味を加える。
「……悠真君。今、何を……? それは、お味噌?」
「ああ。少しだけ白味噌を入れるんだ。コクが深まって、ご飯にも合う味になる」
コトコトと弱火で煮込む鍋。
雫が最後に、鮮やかな緑色のブロッコリーをそっと差し出した。
「次はこれ、ね?」
「正解だ」
部屋中に、クリーミーで温かな、幸せを煮詰めたような香りが広がっていく。
雫は目を細め、湯気の向こう側で小さく鼻を鳴らした。
「……いい匂い。……幸せって、こういう匂いがするのね。悠真君と出会うまで、私はお腹が空くのが怖かったけれど……今は、この匂いを嗅ぐだけで、心の中まで満たされていくわ」
雫のその言葉に、俺は少しだけ鼻の奥が熱くなるのを感じた。
◇◇◇◇◇
夕食の準備が整った頃、俺たちは部屋の中央に鎮座する「新兵器」に向き合った。
母・佳代子が「冬はやっぱりこれよ!」と、わざわざ実家から送ってきた『こたつ』だ。
6畳1Kの部屋にこたつを置くと、必然的に二人の距離は物理的に限界まで近くなる。
「……悠真君。……失礼するわね」
雫は、どこか神聖な儀式にでも挑むような顔で、こたつの布団の中に足を入れた。
俺も、その向かい側に座る。
テーブルの上には、たっぷりと盛られた熱々のホワイトシチューと、トーストした厚切りのパン。
「いただきます、悠真君」
「……ああ、召し上がれ」
雫はスプーンでシチューを掬い、ふうふうと丁寧に息を吹きかけてから、口に運んだ。
「…………っ、……ふにゃっ」
出た。このおよそ二ヶ月、俺が毎日見ても飽きることのない、とろけるような脱力スマイル。
学校の誰もが畏怖する「氷の令嬢」の面影を木っ端微塵に砕く、世界で一番甘い笑顔だ。
「……おいしい。鶏肉がホロホロで、お味噌のコクが……なんだか、悠真君の優しさがそのまま形になったみたい。……心の奥の、一番冷たかった部分まで溶けていくわ」
「……大袈裟だよ。ただのシチューだ」
「いいえ。……私にとっては、これが唯一無二の、生きていくための魔法なのよ」
雫は、幸せそうにシチューを頬張り続けた。
外は木枯らしが吹き荒れているはずなのに、このこたつの周りだけは、まるで春の日だまりのように温かい。
だが。
「……あっ」
こたつの中で、俺の足が雫の足に触れた。
狭いこたつだ。向かい合わせでも、当然そうなる。
瞬間、二人の間に火花が散ったような沈黙が流れた。
シチューを運ぶ雫の手が止まり、彼女の耳の付け根から首筋にかけて、一瞬で鮮やかな朱色が広がっていく。
「……ご、ごめん。狭いからな、ここ」
「……い、いいえ。……大丈夫よ」
俺は慌てて足を引こうとした。
だが、引くよりも早く、雫の足が、俺の足の甲をそっと押さえるようにして絡んできた。
「…………雫?」
「……逃げないで。……冷えていた足が、悠真君の熱で温かくなっていくの。……もう少し、このままでいさせて」
こたつの中で、確かな彼女の体温と柔らかさが伝わってくる。
顔を上げれば、雫は真っ赤な顔をして、一生懸命にシチューの具材を見つめていた。でも、その瞳には強い光が宿っている。
距離感のバグ、なんてレベルじゃない。
これはもう、意識せざるを得ない「男女」の熱量だった。
心臓が、シチューの煮える音よりも激しく打ち鳴らされる。
雫は、俺の足に触れたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……ねえ、悠真君。……いつか、もっと広いお家に住んで、大きなキッチンを持っても……冬はこうして、狭いこたつで一緒にいたいわね」
それは、ただの願望ではない。
俺と歩む未来を、彼女が当然のように受け入れているという、最大の告白に近い言葉だった。
「……そうだな。……」
俺は、こたつの中で彼女の足の温もりをしっかりと受け止めた。
外の寒さも、これから訪れるかもしれない嵐も、今の二人には関係なかった。
とろけるシチューと、重なり合う足の熱。
俺たちの絆は、冬の夜、これまで以上に深く、温かなものへと変わっていった。
「……悠真君。シチュー、おかわりしてもいいかしら?」
「……ああ。いくらでもあるぞ」
俺は、彼女の幸せそうな笑顔を守り抜くことを、心の中で静かに誓った。




