第20話 お義母様の公認と、残された火種
楽しい時間は、過ぎてしまえば瞬きほどの短さに感じられた。
母・佳代子が持ってきた食材は、三人の胃袋と冷蔵庫の中に収まり、賑やかだった食卓も綺麗に片付けられた。
「……もう、こんな時間ね。そろそろ行かないと、終電に遅れちゃうわ」
佳代子が壁の時計を見て、名残惜しそうに立ち上がった。
玄関先。冬の冷たい夜気が、開いたドアの隙間から滑り込んでくる。雫はいつの間にか、俺の背後に隠れるように立ち、佳代子の姿をじっと見つめていた。その瞳には、親しい友人と別れる時のような、寂しげな色が浮かんでいる。
「佳代子さん。今日は、本当にありがとうございました。……私、こんなに温かい時間は初めてで」
「いいのよ、雫ちゃん。お母さんの方こそ、悠真がこんなに素敵な子と仲良くしてるのを知れて、安心したわ。……これ、お近づきの印に。実家の方で評判のお守りよ」
佳代子は、小さな縮緬細工の根付を雫の手に握らせた。
「ありがとうございます。……大切に、します」
雫はそれを宝物のように両手で包み込んだ。
「よし。じゃあ、悠真。ちょっとこっち来なさい」
「ん? なんだよ」
佳代子は俺の腕を強引に引き寄せ、雫から少し離れた廊下の隅へと連行した。
そして、俺の耳元で、今までにないほど真剣な、それでいて楽しそうな低い声で囁いた。
「いい、悠真。あの子……雫ちゃんを、絶対に離しちゃダメよ。あんたにはもったいないくらい、真っ直ぐで良い子なんだから」
「……分かってるよ、そんなこと」
「本当に分かってるのかしら? あの子の『特別』は、もう全部アンタに向けられてるんだからね。男なら、しっかり責任取りなさいよ?」
佳代子は俺の脇腹を小突くと、ニヤリと笑って雫の方へ戻っていった。
そして今度は、雫の耳元に顔を寄せる。
「…………えっ?」
雫が、目を見開いて硬直した。
佳代子が何を言ったのか、俺の位置からは聞こえなかった。だが、雫の顔が、耳の付け根から首筋にかけて、一瞬で真っ赤に染まっていくのが分かった。
「それじゃあ二人とも、仲良くね!」
佳代子は最後にとびっきりの笑顔を向けて、軽やかな足取りで階段を下りていった。
夜の静寂が戻った廊下。
遠ざかる足音と、冬の風がそよぐ音だけが響く中、俺と雫は、石像のように固まったまま立ち尽くしていた。
「……あ、あの、雫……」
「………………」
おそるおそる声をかけるが、雫は俯いたまま、ピクリとも動かない。
彼女の手に握られた縮緬のお守りが、小刻みに震えている。
「……母さん、最後なんて言ったんだ? お前、すごい顔してるぞ」
「…………お、……お……」
「お?」
「……『悠真をよろしくね、お嫁さん』って……言われたわ……」
消え入りそうな声。
だが、その一言は、俺の鼓動を狂わせるのに十分すぎる破壊力を持っていた。
「お、……お嫁……っ!?」
脳内を、その単語が暴走する。
お嫁さん。
それは、さっき佳代子が言った『将来の』というニュアンスを通り越して、既に家族として認められた、決定的な「公認」の言葉だった。
「………………」
「………………」
沈黙が、重い。
そして、ひどく熱い。
先ほどまでの家族団らんの空気はどこへやら、二人の間には、これまで以上に濃密で、逃げ場のない意識の糸が張り詰めていた。
「……あ、あー。悪い、雫。母さん、ああいう性格だから……。お節介が過ぎるっていうか、思い込みが激しいっていうか……。とにかく、あんまり真に受けないでくれ。迷惑だっただろ?」
俺は必死に、この気まずい状況を打破しようと言葉を紡いだ。
お嫁さんだなんて、まだ付き合ってもいない俺たちには早すぎる言葉だ。雫のような完璧な美少女にとって、俺の母親からそんな風に扱われるのは、屈辱に等しいのではないか。
そう思って、俺は彼女に謝ろうとした。
だが。
「…………迷惑、じゃないわ」
「えっ?」
雫が、ゆっくりと顔を上げた。
涙目で赤くなった頬。そして、夜の闇の中でもはっきりと分かるほど、情熱的に燃える黒い瞳。
彼女は俺のシャツの裾を、指先でギュッと掴んだ。
「……嫌じゃ、なかった。……お嫁さんって呼ばれるの、なんだか……すごく、嬉しかったの」
雫の声は、震えていた。
羞恥に耐えているのか、それとも自分の気持ちの大きさに戸惑っているのか。
雫は俺の目をじっと見つめ、覚悟を決めたように言葉を続けた。
「……私、家族というものに、ずっと憧れていたわ。……温かいご飯を食べて、笑い合って、誰かに『よろしくね』って託されるような……そんな場所。……悠真君の隣にいることが、そんな風に認められることなのだとしたら……私は、それがいい」
雫は、俺の胸に額を押し当てた。
「……だから、迷惑だなんて言わないで。……私は、嫌じゃなかったわ。……本当よ?」
その告白は、もはや「契約」という言葉では縛りきれないほどの熱を持っていた。
「お嫁さん」というワードが、二人の距離を決定的に狂わせた。
俺の腕の中にいる雫は、もうただのお隣さんでも、お世話をしているクラスメイトでもない。
俺の人生の一部に、そして未来の一部に、深く入り込もうとしている、一人の特別な女の子。
俺は、震える彼女の背中に、そっと手を回した。
「……分かった。……ごめん。……俺も、その……嬉しかったよ」
「…………っ、……ん。……ありがと……」
静まり返った廊下で、俺たちはしばらくの間、お互いの体温を感じ合っていた。
佳代子が残していった「公認」という名の火種は、俺たちの心の中で、消えることのない大きな炎となって燃え広がっていた。
最強の母が去り、二人に残されたのは、以前よりもずっと甘く、そして重みを増した関係性。
二人はそのまま、余韻を惜しむように俺の部屋に戻った。
雫はソファに腰掛け、佳代子からもらったお守りを掌の上で転がしている。その表情は、今夜の夕食の温かさを反芻するように柔らかい。
「……今日は、本当に楽しかった。世界が、昨日より少しだけ明るく見えるくらいに」
雫が、独り言のように呟く。
俺も、キッチンで温かいほうじ茶を注ぎながら、そんな彼女を眺めていた。
このまま、こんな穏やかな時間がずっと続いていく。そんな、甘い錯覚に酔いしれていた。




