第19話 台所の新旧・女の戦い(?)
俺の狭いワンルームのキッチンが、これほどまでに密度を増したことはかつてなかった。
「さあ! 今日はお母さん特製の『佐藤家流・具だくさん肉じゃが』と『寒ブリの照り焼き』にするわよ! 雫ちゃん、手伝ってくれる?」
「はい! 喜んで、お母様……あ、いえ、佳代子さん!」
腕まくりをして鼻息を荒くするのは、母・佳代子だ。彼女はまるで行軍の指揮官のような威勢の良さで、買ってきた食材をシンクに並べていく。その隣で、まるで神聖な儀式にでも挑むかのような真剣な表情を浮かべているのが、氷室雫である。
彼女は俺が貸した、少しサイズの小さいエプロンをきっちりと締め、つややかな黒髪を後ろで一つに結んでいた。学校の「氷の令嬢」としての威厳を、「修行中の花嫁」への気迫に昇華させているような、どこか危うい、だがひたむきな空気を纏っている。
「あらぁ、嬉しいわ! 雫ちゃん、じゃあこのジャガイモの皮剥き、お願いしてもいいかしら?」
「お任せください。……全力を尽くします」
雫は、まるで名刀を抜くかのような手つきでピーラーを握りしめた。だが、その手元は見ていて冷や冷やするものだった。ジャガイモを握る力が強すぎて今にも粉砕してしまいそうだし、刃の当て方が慎重すぎて、一個剥き終える頃には日が暮れてしまいそうだ。
「……雫、ちょっと貸せ。左手の添え方が危ないぞ」
俺は思わず、彼女の背後から手を伸ばした。彼女の細い指をそっと包み込むようにして、ピーラーの角度を修正する。
「あ……悠真君」
「いいか、力で剥くんじゃない。こう、滑らせるように……。ジャガイモを回すのは左手の役目だ。ほら、やってみろ」
「……ええ。わかったわ。こう、ね?」
雫は頬を微かに染めながら、俺の教えを忠実に守ろうと奮闘する。俺は彼女がコツを掴むまで数秒間そのままでいたが、彼女が安定したのを確認して、流れるような動作で隣のコンロへ移動した。
雫が次に必要とするであろうボウルを無言で差し出し、溢れそうになったゴミを片付け、調味料の配置を使いやすいように入れ替える。雫もまた、俺が差し出したボウルを当然のように受け取り、俺が鍋に手を伸ばそうとすれば、そっと火傷しないように乾いた布巾を差し出してきた。
言葉はなくとも、視線を交わさずとも、俺たちの間にはここ数週間で培われた「呼吸」が出来上がっていた。
そんな俺たちの様子を、ブリに塩を振ろうとした手のまま、佳代子は呆然と見守っていた。
「………………」
「……母さん? どうしたんだよ。手が止まってるぞ」
「……いや。なんでもないわ。なんでもないんだけど……」
佳代子は、感極まったように目元を指で拭った。
「悠真、あんた……。お母さん、確信したわ」
「何をだよ」
「もうこれ、夫婦じゃない。新婚三ヶ月目っていうより、熟年夫婦の域に片足突っ込んでるわよ、あんたたち」
「ぶっ――!?!?!?」
雫が持っていたジャガイモが、シンクの中にポチャンと音を立てて落ちた。彼女は顔を真っ赤にし、結んだ髪からこぼれた後れ毛を必死に整えながら、声を震わせる。
「お、お、いえ、佳代子さん! そ、そのような……! 私たちは、あくまで、その……協力関係といいますか、契約に基づいた、あの……っ!」
「いいのよいいのよ、雫ちゃん! お母さん、もう全部わかったから! 悠真がこんなに自然に女の子をリードしてるなんて、奇跡以外の何物でもないわ!」
佳代子はケラケラと笑い、俺の背中をバシバシと叩いた。
「よかったわねぇ、悠真。雫ちゃんみたいな、あんたの呼吸を全部汲み取ってくれる子、世界中探しても他にいないわよ?」
俺は顔が熱くなるのを自覚しながら、黙々とブリに醤油を回しかけた。
確かに、母さんの言う通りかもしれない。
いつの間にか、俺にとって雫が隣にいることは、自分の右腕があるのと同じくらい当然のことに変わっていた。彼女の不器用な手つきも、それをフォローする自分の動きも、日常という名の歯車に完璧に組み込まれていたのだ。
◇◇◇◇◇
夕食のテーブルは、これまでにないほど賑やかだった。
「美味しい……。佳代子さんの肉じゃが、悠真君のとはまた違った、深みのあるお味ですね」
「あらぁ、嬉しい! 隠し味に、ほんの少しだけ蜂蜜を入れてるのよ。雫ちゃん、後でレシピ書いてあげるわね」
「はい! 家宝にします!」
雫は、学校で見せる「氷の無表情」がどこへ行ったのかというほど、生き生きとした表情で食事を楽しんでいた。佳代子もまた、自分の息子が選んだ(と確信している)相手が、これほどまでに素直で美しい少女であることに、満足感を隠しきれない様子だった。
「でもねぇ、雫ちゃん。悠真も今でこそこうして料理なんてしてるけど、小さい頃は本当に手がかかったのよ?」
「……母さん。その話、今する必要あるか?」
「あるわよ! お母さん、今の悠真の『デキる男』風な面構えを見てると、昔のポンコツぶりをバラしたくなっちゃうの!」
佳代子は、楽しそうに身を乗り出した。雫もまた、宝石のように黒い瞳をキラキラと輝かせ、俺の恥ずかしい過去という名の獲物を狙う猛獣のような目になった。
「ぜひ! ぜひ詳しく聞かせて下さい、佳代子さん! 悠真君の幼少期の話、興味があります!」
「……お前なぁ」
「いいじゃない。……私、悠真君のことをもっと知りたいの」
雫のそのストレートな言葉に、俺は反論する気力を奪われた。
「この子ね、幼稚園の頃、近所の女の子に『悠真君は将来、私のお嫁さんにしてあげる』って言われて、本気で喜んでエプロン着て待ってたのよ?」
「ぶっ――!」
「まあ! お嫁さんに!? 悠真君が!?」
「そうなの! 『お嫁さんになるから、掃除と洗濯を練習する!』って言って、おもちゃの掃除機持って家中走り回っちゃって……もう可愛かったんだから!」
雫は「お嫁さん……悠真君が、お嫁さんに……」と、その光景を想像したのか、
顔を真っ赤にして身悶えした。
「そ、それからそれから!? 他にもありますか、佳代子さん!」
「あとはね、初めてオムライスを作ろうとした時、卵がうまく割れなくて、全部殻ごとフライパンにぶち込んじゃって……。でも『これはカルシウムたっぷりの特製料理だ!』って言い張って、涙目で食べてたわねぇ」
「ふふっ……あははは! 悠真君らしいわ、すごく……あったかいエピソードです」
雫は、涙が出るほど笑っていた。その笑顔を見ていると、自分の恥部を晒されているはずの俺も、なんだか毒気を抜かれてしまう。
「……雫ちゃん。悠真はね、昔から『誰かのために何かをする』のが大好きな子だったの。だから、今こうして雫ちゃんのためにご飯を作ってるのは、あの子にとっても一番の幸せなんだと思うわよ」
佳代子の不意の真剣な言葉に、雫の笑い声が止まった。
彼女は、少しだけ顔を伏せ、それから優しく俺を見つめた。
「……はい。……知っています。私も、悠真君が作ってくれるご飯に、何度も救われましたから」
雫の声は、夜の静寂に溶け込むように穏やかだった。
「佳代子さん。私……家族というものを、今日初めて知りました。……悠真君がどうしてこんなに優しくて、あったかい人なのか、ようやく分かった気がします。……愛されているから、なんですね」
雫の瞳に、薄っすらと涙が浮かんでいた。彼女の母親はすでに亡くなっていて、父親は、仕事で常に不在だ。彼女にとって「家族の食卓」というものは、おそらく物語の中だけの遠い存在だったのだろう。佳代子は、そんな雫の手をそっと握りしめた。
「雫ちゃん。あんたはもう、他人じゃないわ。悠真が大切にしている人は、私にとっても大切な人よ。……だから、いつでも甘えていいのよ?」
「……はい。……ありがとうございます、お母様……っ」
雫は、堪えきれずに一粒の涙をこぼした。それは悲しい涙ではなく、凍てついた心が、家族の温もりによって溶かされた瞬間の涙だった。
俺は、何も言わずに二人の様子を見守った。
狭い部屋、茶色の家具、少し甘めの肉じゃが。そこには、俺がずっと雫に見せてあげたかった「普通の幸せ」が、確かに存在していた。
「……さて! しんみりするのはここまで! 悠真、買ってきたケーキ、出しなさい!」
「……わかったよ」
佳代子の明るい声が、再び部屋を支配する。雫は、涙を拭いて、見たこともないほど幸せそうな笑顔で頷いた。
家族。その新しい概念が、俺と雫の間に、さらに深く、温かい根を張った夜だった。




