第18話 令嬢、お義母様(仮)と対面す
運命の日。その幕開けは、俺、佐藤悠真の部屋、201号室のチャイムから始まった。
――ピンポーン! ピンポーン!
俺は一つ、深く息を吐いてから、玄関のドアを開けた。
「悠真! 元気にしてた!? あら、ちょっと痩せたんじゃないの?」
ドアを開けるなり飛び込んできたのは、弾けるような笑顔と、両手に提げられた大量の買い物袋――そして、圧倒的な『母のオーラ』を纏った女性、佐藤佳代子だった。
「……母さん。いきなり大きな声出すなよ。近所迷惑だろ」
「何言ってるのよ、お母さんの顔を見てその挨拶はないでしょ! ほら、これ、アンタが好きな寿福堂のいちごのロールケーキ。あと、これは寒ブリ、お肉に野菜。冷蔵庫、ちゃんと入りきるかしら?」
佳代子は俺の返事も待たずに、ズカズカと部屋に入ってきた。
「ふーん、まあまあ片付いてるわね。……あら、このゴミ袋の山は何? 随分と気合を入れて掃除したみたいじゃない」
「あ、いや。……まあ、母さんが来るからな」
昨夜、隣の部屋で格闘した成果物が、まだ俺の部屋の隅に鎮座していた。俺はそれをさりげなく背中で隠しながら、佳代子が持ってきた大量の食料を冷蔵庫に詰め込んだ。
「さて! 悠真の様子も確認したし、次は大事な用件ね」
「用件?」
「決まってるでしょ。お隣さんへのご挨拶よ! 悠真がお世話になってるんだから、ちゃんとお母さんからご挨拶しておかないと。ほら、この高級銘菓を持って行くわよ」
佳代子は、百貨店の包装紙に包まれた箱をひったくるように持ち上げた。
俺は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「い、いや! 隣の人は忙しいかもしれないし、挨拶なんていいよ……」
「ダメよ。一人暮らしは近所付き合いが大事なんだから。ほら、行くわよ!」
佳代子の『おばちゃん力』は、俺の抵抗を軽々と跳ね除けた。
俺は祈るような気持ちで、隣――202号室へと続く数歩を歩いた。
◇◇◇◇◇
202号室の前。
佳代子が迷いなくチャイムを鳴らした。
――ピンポーン。
数秒の、永遠のような静寂。
やがて、ガチャリとドアが開いた。
「…………はい」
そこに立っていたのは、完璧な「氷の令嬢」としての姿を纏った、氷室雫だった。
漆黒の髪は一筋の乱れもなく、清楚なネイビーのワンピースに身を包んでいる。その凛とした立ち振る舞いは、どこかの国の王女が公式行事に臨んでいるかのような気高さがあった。
「あらまぁ……っ!」
佳代子が、文字通り息を呑んだ。
「初めまして。202号室に住んでおります、氷室雫と申します」
雫は、流れるような優雅な所作で深々と頭を下げた。
昨夜、アザラシのぬいぐるみを抱いて寝落ちしたポンコツな姿は、どこにもない。
「……あ、あらぁ、初めまして!お隣の201号室の佐藤の母です! ……え、ちょっと悠真。何よ、このお姫様みたいな美少女は! アンタ、こんなとんでもない子が隣に住んでるなんて一言も言ってなかったじゃない!」
「だから、同じクラスの氷室さんだって……」
佳代子は俺の言葉を無視して、雫の手をガシッと握りしめた。
「氷室さん!あ、雫ちゃんって呼んでもいいかしら? クラスメイトなの? 家はここなの? 一人暮らし? あらまぁ、こんなボロアパートにこんな綺麗な子が……。肌なんて透き通ってるし、髪なんてツヤツヤじゃない!ほら、これ、つまらないものだけど食べてちょうだい!」
「……ありがとうございます。お心遣い、感謝いたします。佐藤君には、いつも本当にお世話になっております」
雫は、凛とした笑顔で応えた。
「雫ちゃん、悠真はちゃんと隣人としてやってる? この子、昔から変なところで頑固で、気難しくて……でも、根はいい子なのよ?」
「……ええ。……承知して、おります。ゆうっ……佐藤君は、とても、優しい方だと……」
雫の返答に、佳代子の目がギラリと光った。
彼女は雫の顔を、穴が開くほどじっくりと観察し――そして、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
(……あ、不味い)
俺の直感が警鐘を鳴らす。
佳代子は、雫の頬がわずかに赤らんでいることや、俺を見る彼女の瞳に宿る、隠しきれない「熱」を一瞬で見抜いてしまったのだ。
「……あら?」
「な、なんだよ」
「いいえ、なんでもないわ。……さあさあ、雫ちゃん!立ち話もなんだし、悠真の部屋でお茶でも飲みましょう!お母さん、アンタたちの話、もっと詳しく聞きたいわ!」
「えっ、ちょ、待てよ母さん!氷室さんにも都合が……」
「私は、構いませんわ。佐藤君のお母様とお話しさせていただけるなら……喜んで」
雫は、頬を染めながらも、凛とした態度を崩さずに頷いた。
こうして、俺の狭いワンルームで、最強の母と氷の令嬢による、予測不能なティータイムが始まった。
◇◇◇◇◇
「へぇー、お隣さん同士で、一緒にスーパーに行くこともあるの?」
「……はい。佐藤君は、特売品に詳しくて、とても頼りになるんです」
「あらぁ!悠真がそんな風に役に立ってるなんて、お母さん感激だわ!」
佳代子の圧倒的なマシンガントークと、巧みな質問攻めに、雫の「氷の令嬢」としてのガードが、ボロボロと崩れ始めていた。
佳代子は、雫が俺に対して抱いている感情を、まるで熟練のハンターのように追い詰めていく。
「悠真はね、不器用なのよ。昔から掃除も料理も、自分のことは自分でやる子だったけど、他人の世話を焼くのはもっと好きなの。……雫ちゃん、この子にいつも迷惑かけられてない?」
佳代子のその言葉に、雫は「そんなことはありません!」と食い気味に身を乗り出した。
「悠真君には、いつも本当にお世話になっていて……!私の生活は、彼がいなければ成り立ちませんから!」
「……えっ? 成り立たない?」
佳代子が首を傾げた。
雫は自分の失言に気づき、顔を真っ赤にしてパニックになった。
「あ、いいえ! そういう意味ではなく……!その、彼は私の……食生活とか、お部屋の管理とか、そういう……契約、そう、契約上のサポートを……!」
「契約!? あんたたち、一体どんな関係なのよ!」
「ち、違うんだ母さん! これはただの家事手伝いの延長っていうか……!」
「いえ! 私がお世話をしているんです! ……あっ、違います、お世話を『されている』のは私の方で……でも、悠真君を支えたいと思っているのは、本当で……!」
雫は、もはや自分が何を言っているのか分からなくなっているようだった。
目は泳ぎ、声は震え、完璧だった髪型も、佳代子の勢いに押されて少し乱れている。
佳代子は、そんな雫の様子を眺め、ニコニコと満足げに茶を啜った。
「……ふふっ。いいわぁ、雫ちゃん。アンタ、本当にいい子ね。……合格よ!」
「……ご、合格……?」
雫が呆然と呟いた。
佳代子は、俺の肩をバシバシと叩きながら、雫に向かってウィンクをした。
「悠真はね、自分のこととなるとからっきしなの。だから雫ちゃん、これからもこの子のこと、しっかり捕まえておいてね。……将来のお義母さんからの、お願いよ」
「お義母……っ!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
雫の顔が、爆発しそうなほど真っ赤になった。
彼女は両手で顔を覆い、そのままソファの上で「あうぅ……」と小さく丸まってしまった。
学校での「氷の令嬢」の威厳は、佐藤佳代子という名の台風によって、跡形もなく吹き飛ばされていた。
だが、その顔を隠した雫の指の間から覗く瞳は、どこか嬉しそうで、幸せそうだった。
「……母さん、本当にもうやめてくれ……」
「あら、いいじゃない。賑やかで楽しいわよ」
佳代子はケラケラと笑いながら、カバンからエプロンを取り出した。
「さて! 話も一段落したし、お母さんが腕によりをかけて、アンタたちの夕飯を作ってあげるわ! ……あ、雫ちゃんも手伝ってくれるかしら? 悠真が好きな料理、教えてあげるから」
「…………はい! 喜んで、お供します!」
雫は、弾かれたように顔を上げ、元気よく返事をした。
お義母様(仮)と、お嫁さん(仮)。
最強の布陣がキッチンに並ぼうとしていた。




