第17話 作戦名「ゴミ屋敷を一掃(いっそう)せよ」
「……悠真君、お願い。やっぱり、今すぐ私の記憶を消去して」
夜の十時過ぎ。俺、佐藤悠真の部屋の玄関先で、氷室雫は絶望に染まった顔で天を仰いでいた。
つい数分前まで、嫉妬に狂って俺の胸で泣きじゃくっていた「氷の令嬢」の姿はどこへやら。今の彼女は、明日の午後、俺の母親・佳代子が襲来するという未曾有の危機に、魂が抜けかかっていた。
「無理言うな。……それより、今は一分一秒が惜しいんだ。行くぞ、雫。202号室(お前の部屋)を開けろ」
「嫌よ……! あそこは、不可侵領域……。あんな無秩序な空間をあなたに見せるなんて、私のプライドが爆発して死んでしまうわ!」
「もう手遅れだろ。ゴミの分別の時に一度見てるんだから。……いいから、鍵を貸せ!」
俺は半ば強引に彼女から鍵を奪い取り、隣の部屋のドアを開け放った。
――そこは、相変わらずの「魔境」だった。
廊下には、脱ぎ捨てられたタイツや、中身の入っていない段ボールの山。リビングに進めば、テーブルの上には読みかけの参考書と、昨日俺が作ったお弁当の空き箱(綺麗に洗ってはあったが)が放置されている。そして何より、部屋の隅には「とりあえず」で積み上げられた、正体不明の衣類の山がそびえ立っていた。
「……なるほど。これは確かに、母さんが見たら卒倒するレベルだな」
「……うぅ。死にたい……。私、明日の朝までに出家するわ……」
雫は壁際にうずくまり、長い黒髪で顔を隠してぶつぶつと呟いている。
だが、俺に迷っている暇はない。母・佳代子は、お節介の化身だ。息子の一人暮らしをチェックするついでに、隣人に手土産を持って挨拶に行く。その際、もし「お近づきの印に」と部屋に踏み込まれでもしたら、雫の学校での完璧な評価は、文字通り「ゴミ」と一緒に捨てられることになる。
「作戦名、『ゴミ屋敷を一掃せよ』だ。雫、お前は洗濯物とちらかっている服を畳め。俺はゴミをまとめて、キッチンを磨く。いいな?」
「……やるわ。やってやりましょう、悠真君。私の、いいえ、私たちの『秘密』を守るために……!」
雫は覚悟を決めたように立ち上がり、鼻息荒く腕まくりをした。
それからの数時間は、まさに格闘だった。
「キッチンが終わったから、これ、クローゼットにいれるぞ」
「ちょ、悠真君! そこは開けないで! 私の『秘密の箱』が――!」
俺がクローゼットを開けると、山積みの服の下から、一体のぬいぐるみが顔を出した。
それは、使い古されて少し毛並みが悪くなった、大きなアザラシのぬいぐるみだった。
「……あ」
雫が、顔を真っ赤にしてフリーズした。
「これ……お前のか?」
「……幼い頃から、ずっと一緒に寝ているの。……寂しい時に、これを抱きしめると、少しだけ……。って、見ないで! 返して、今すぐそれを封印して!」
雫は俺からアザラシをひったくると、必死に背中に隠した。
学校での冷徹な姿からは想像もつかない、あまりにも子供っぽくて、女の子らしい一面。
俺は、彼女のそんな「弱点」に触れてしまったことに、不覚にも胸が高鳴るのを感じた。
「……悪い。……でも、隠すことないだろ」
「う、うるさいわね……っ! さあ、次よ! 次を片付けるわよ!」
雫は照れ隠しに声を張り上げ、猛然と段ボールを解体し始めた。
さらに一時間後。
リビングの散らかりが一段落した頃、俺は床に落ちていた小さな箱を拾い上げた。
「これ、捨てていいか?」
「えっ、あ、それは……!」
雫が慌てて手を伸ばしたが、俺の方が一瞬早かった。
中身がこぼれ落ちる。それは、ゴミ――ではなかった。
中に入っていたのは、数枚のレシートと、付箋らしき紙。
よく見れば、レシートの日付は俺たちが初めて『アキバ屋』へ買い出しに行った時のもの。付箋には、俺の走り書きで『雫の分(味薄め)』というメモが残っていた。
「これ……捨てないで取っておいたのか?」
「………………」
雫は、金魚のように口をパクパクさせた後、観念したように俯いた。
「……捨てられなかったのよ。私にとって、悠真君との……悠真君との思い出は、レシート一枚だって、宝物なんだから。……悪い?」
逆ギレ気味に放たれた、あまりにも純粋な本音。
彼女にとって、俺との生活はそれほどまでに大きな意味を持っていたのだ。
俺は、何も言わずにその箱を雫の手へと戻した。
彼女の指先が、微かに俺の手と触れ合う。
「……悪くないよ。……でも、大事にするなら、床に転がしておくな」
「……ええ。そうするわ」
雫は、小箱を胸に抱きしめ、幸せそうに微笑んだ。
♢♢♢♢♢
作業が終わったのは、深夜の三時を過ぎた頃だった。
魔境だった部屋は、なんとか「引っ越してきたばかりで少し荷解きが追いついていない女の子の部屋」というレベルまで、劇的なビフォーアフターを遂げていた。
廊下の地層は消え、キッチンはピカピカに磨かれ、空気まで澄んでいるように感じる。
「……終わった。……終わったわよ、悠真君」
「ああ……。明日の母さんの襲来、これでなんとか凌げるはずだ」
俺たちは、リビングのラグの上に力尽きて座り込んだ。
達成感と、凄まじい疲労感。
冬の深夜の冷え込みが、掃除で熱くなった身体を容赦なく冷やしていく。
「……寒いな。暖房、タイマー切れてるのか」
「……ええ。でも、リモコンがどこかへ行ってしまったわ……。また、ゴミと一緒に捨ててしまったかしら……」
雫は、疲れ果てて気力も残っていないのか、俺の隣でウトウトと船を漕ぎ始めた。
俺は立ち上がって、彼女のベッドから、一枚の大きな毛布を持ってきた。
「……ほら、これで我慢しろ。風邪ひくぞ」
「……んん、……あったかい……」
俺が毛布を掛けてやると、雫は無意識にそれを引き寄せ――あろうことか、俺をその毛布の中に引き込んだ。
「……っ!? ちょ、雫……!」
「……離さないわよ。……悠真君も、寒いでしょ? 独り占めは、良くないわ……」
雫は、寝ぼけているのか確信犯なのか、俺の腕に自分の身体を密着させ、一つの毛布の中に閉じ込めてしまった。
暗い部屋。
一枚の毛布を共有し、お互いの体温だけが頼りの空間。
腕に触れる彼女の柔らかな感触。すぐ隣で聞こえる、規則正しい寝息。
掃除を終えた後の、妙にハイになったテンションと、この甘ったるいシチュエーションが混ざり合い、俺の心拍数は再び限界突破を迎えていた。
「……雫。……お前、本当に無防備すぎ……」
俺の呟きに、雫は答えない。
彼女は俺の腕を枕にするようにして、幸せそうな笑顔を浮かべて眠りについていた。
共同作業の果てに得た、この静かで、心臓に悪い時間。
俺は、逃げ出すことを諦めた。
どうせ、数時間後には嵐(母親)がやってくる。
それまでは、この小さな幸せを、彼女と一緒に分け合うことに決めた。
「……おやすみ、雫。……」
俺は、毛布の中で彼女の小さな手を、そっと握りしめた。
翌日。
俺たちはまだ知らなかった。
襲来した母が、俺たちの「リカバリーした部屋」よりも、俺たちの「リカバリーしきれていない距離感」を真っ先に見抜いてしまうことを。




