第16話 私だけを見て
一人でアパートに帰った俺は、キッチンでフライパンを振っていた。今日の献立は、たっぷりの生姜を効かせた豚の生姜焼きだ。甘辛い香りが部屋中に満ちていく。
「……あいつ、本当に来ないのかな」
あんなに冷たく突き放されたのは初めてだった。
「夕飯はいらない」という言葉を信じるなら、今頃彼女は自分の冷え切った部屋で、一人寂しくコンビニのパンでも齧っているはずだ。
そう思うと、胸の奥がチリチリと痛む。
俺は、彼女のために予備の茶碗と箸を並べた。来ないかもしれない。それでも、用意せずにはいられなかった。
――コンコン。
その時、消え入りそうなほど小さなノックの音が響いた。
俺は弾かれたように玄関へ向かい、ドアを開けた。
「……雫」
「………………」
そこに立っていたのは、いつもの大きなパーカーを羽織った雫だった。
だが、その顔はマフラーに深く埋められ、表情は見えない。彼女は一言も発さず、俺の脇をすり抜けるようにして部屋に入ってきた。
彼女はいつものローテーブルの前に座ったが、姿勢を正したまま、微動だにしない。
夕食を出しても、箸をとろうともしない。ただ、俯いたまま、自分の膝の上で拳を握りしめていた。
「……雫。冷めるぞ。……嫌いなものだったか?」
「………………」
「生姜、少し多めに入れたんだ。体が温まると思って……」
「………………」
沈黙。
テレビの音も消した部屋に、時計の針の音だけが虚しく響く。
学校での「氷の令嬢」の仮面をそのまま持ってきたかのような、重苦しい空気。だが、今の彼女から感じるのは、拒絶ではなく、もっと脆くて壊れそうな『何か』だった。
俺は我慢できず、彼女の隣に腰を下ろした。
「……なあ、雫。何か怒ってるんだろ? 俺、何か悪いことしたなら謝るから。……教えてくれよ」
「………………」
「……伊並さんのことか? あれは本当に、委員会のポスターの話で――」
その瞬間、雫の肩が大きく震えた。
「……別に、怒ってなんていないわ」
ようやく絞り出された声は、ひどく掠れていた。
「悠真君が誰と話そうが、誰と仲良くしようが……私の知ったことじゃない。私たちはただの契約関係。……そう、そうよ。私が口を出すことじゃないもの……」
自分に言い聞かせるような、冷たい言葉。
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の目からは、一粒の大きな涙がポロリとこぼれ落ち、テーブルの上に小さな染みを作った。
「……雫、お前……」
「……なんなの、これ」
雫は、自分の涙を拭おうともせず、震える声で続けた。
「胸がザワザワして、息が苦しくて……。あなたが他の女の子と楽しそうに笑っているのを見るだけで、頭の中が真っ白になるの。……こんなの、私じゃない。……不快だわ。すごく、嫌な気持ちなのよ……っ!」
雫は、突然俺のシャツの裾をギュッと掴んだ。
指先が白くなるほどの、凄まじい力。
彼女は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった瞳で、俺を強く睨みつけた。
「……悠真君。今日、あの子と楽しそうだった」
「あ、あれは……」
「あんな風に、優しく笑いかけて……。私の前でだけ、笑っていればいいのに。……私の知らない悠真君を、あんな風に安売りしないで……!」
雫の絞り出すような叫びに、俺は言葉を失った。
ドクン、と。心臓が今までに経験したことのないほど激しい脈動を刻み、喉元まで競り上がってくる。
(……え? それ、どういう意味だよ)
「私の前でだけ、笑っていればいいのに」。
その台詞の意味を理解した瞬間、目の前が真っ白になった。
クラス中の男子が憧れ、誰も近づくことすらできなかった『氷の令嬢』が、いま俺の前で、他の女子とのやり取りに嫉妬して、子供のような身勝手な不満を漏らしている。
……驚いた。
彼女にとって俺はただ、飢えを凌がせてくれる都合のいい隣人で、自分の居場所を守るための契約上のパートナーだと思っていた。
けれど、いま俺を見上げているその潤んだ瞳にあるのは、ただの依存じゃない。
(……俺を、独り占めしたいのか……?)
頭が沸騰しそうなほどの衝撃。それと同時に、自分でも制御しきれないほどの巨大な歓喜が全身を駆け巡った。
不器用で、孤独で、他人の温かさに触れるのを恐れていたこの美少女の心を。
俺の「お節介」が、そんな風にまで狂わせてしまったのだとしたら。
――嬉しい。たまらなく、嬉しい。
彼女にとっての『特別』が俺だという事実を突きつけられ、口の端がだらしなく緩みそうになるのを必死に堪える。
今までお節介を焼いていたつもりが、いつの間にか、俺の方が彼女にがんじがらめに縛られていた。
彼女はまだ、この感情が『恋』だということに気づいていないのだ思う。ただ、自分だけの居場所、自分だけの温もりが、誰かに奪われてしまうのではないかという恐怖に、必死に抗っているのだ。
「……雫。俺は、どこにも行かないよ。……伊並さんとは、本当にただのクラスメイトだ」
「嘘よ……。あんなに近くに寄って……。……私だけなの。悠真君の特別な場所を知っているのは、私だけのはずなのに……っ」
雫は、俺の胸に顔を埋めた。
俺の腕を、シャツを、引きちぎらんばかりの勢いで掴みながら、彼女は子供のように泣きじゃくった。
「……お願い。……ねえ、悠真君」
彼女の声が、消え入りそうなほど小さくなる。
「……私だけを、見て。……私だけの悠真君でいて……。……どこにも、行かないで……」
その一言が、俺の心の防波堤を完全に粉砕した。
学校中が憧れる「氷の令嬢」が、今、俺の胸の中で、俺一人を求めて泣いている。
その愛おしさに、その脆さに、俺は胸を締め付けられた。
「……ああ。約束するよ、雫」
俺は、震える彼女の背中に手を回し、ゆっくりと抱き寄せた。
彼女の細い肩が、俺の腕の中で少しずつ落ち着きを取り戻していく。
石鹸の香りと、彼女の体温。
俺たちは、どちらからともなく、さらに深く身を寄せ合った。
「……俺は、お前の隣にいる。……雫が『いらない』って言っても、俺は飯を作るし、お前の世話を焼くよ。……だから、もう泣くな」
「…………ほんとうに?」
「ああ。本当だ」
雫は、俺の胸に顔を擦り付けるようにして、小さく頷いた。
その無防備な仕草は、まさに俺の肩を枕にして眠った時の、あの「甘えん坊な猫」そのものだった。
しばらくの間、俺たちは言葉を交わさず、ただお互いの鼓動を感じ合っていた。
嫉妬という嵐が通り過ぎた後の、静かで、甘美な時間。
だが、その至福の時間を切り裂くように、テーブルの上に置いていた俺のスマホが、無機質な振動音を立てた。
――ブブッ。
俺は雫を抱き寄せたまま、片手でスマホを手に取った。
画面には、一通のメッセージが表示されている。
『明日、ちょっと用事でそっちまで行くことになったわ。ついでに悠真の様子も見に行くわね。午後には着く予定よ。 母さんより』
「…………っ!?」
一瞬で、血の気が引いた。
親の襲来。それも、よりによって明日。明日は祝日で学校は休みだ。
スマホの画面に躍る「母さん」の文字。その瞬間に、俺の脳内にはある『光景』が鮮烈に呼び覚まされた。
俺の母、佐藤佳代子。世話焼きで、社交的で、思い立ったら即行動。そして何より――「お隣さんへの挨拶」を欠かさない、古き良き(お節介な)日本のおばちゃん気質の持ち主だ。
「ど、どうしたの? 悠真君。そんなに青い顔をして……」
俺の胸の中で、雫が不安そうに顔を上げた。涙で潤んだ瞳が、俺の動揺を真っ向から受け止めている。
「し、雫……。大変なことになった」
「大変なこと……?」
「明日、俺の母さんが来る。……それも『ついでに様子を見に行く』ってことは、間違いなく隣の部屋にも挨拶に行くってことだ。手土産の銘菓を持ってな」
雫の動きが、ピタリと止まった。
彼女の脳裏にも、現在の自室の惨状が浮かんだのだろう。
「……え、待って。私の部屋、まだ……その……」
「ああ。まだ段ボールは山積みだし、脱ぎ捨てた服は地層になってるし、ゴミの分別も怪しいままだ」
「……見られたら、死ぬわ。私のプライドが、跡形もなく霧散してしまう……っ!」
さっきまでの甘い雰囲気は一瞬で吹き飛んだ。
もし母さんに、あのみだらな部屋を見られれば、雫の正体がバレるどころか、俺との関係まで根掘り葉掘り訊かれるのは火を見るより明らかだ。
「やるしかない。……雫、今夜は徹夜だぞ」
「ええ……。やってやりましょう。……私の、私たちの平穏のために!」
俺たちは固く拳を握り合った。
嫉妬に泣いていた少女はどこへやら、そこには「存亡の危機」に立ち向かう一人の戦士の顔があった。




