第15話 氷の瞳が射抜くもの
週末の『新婚さん』ごっこ――もとい、買い出しから明けた月曜日。
学校という場所は、俺たちに否応なしに「現実」を突きつけてくる。
教室の窓際、冬の淡い光を背負って座る氷室雫は、今朝も完璧な「氷の令嬢」だった。
背筋をピンと伸ばし、難解そうな本に目を落とす横顔。その周囲には目に見えない壁がそびえ立ち、クラスメイトたちは遠巻きに彼女を眺めることしかできない。
(……昨日の夜、うちのソファで丸まって寝てた奴と同一人物なんだよな、これ)
俺は自分の席で教科書を広げながら、昨夜の光景を思い出しては、脳内で一人ごちる。
家では名前で呼び合い、オムライスにハートを描けとせがんでくる「雫」が、ここでは誰も寄せ付けない「氷室さん」に戻っている。その圧倒的な落差に、俺の心臓は朝から奇妙なリズムを刻んでいた。
そんな時だった。
「あ、佐藤君! ちょっといいかな?」
声をかけてきたのは、図書委員の伊並さんだった。
彼女はクラスでも明るい性格で通っており、誰に対しても分け隔てなく接する人だ。ショートカットの髪を揺らしながら、彼女は俺の机に身を乗り出してきた。
「次の読書週間のポスターなんだけど、佐藤君の案、すごくいいって委員会で評判だったんだよ!」
「え、本当? 適当に描いたラフだったんだけど」
「何言ってるの、センスいいよ! ここ、もう少し色を足したいんだけど、どう思う?」
伊並さんは「ねえねえ」と、俺の手元にある資料を指差しながら、自然な動作で俺の隣に椅子を持ってきた。
距離が近い。彼女のシャンプーの香りが漂い、俺たちの肩が触れ合いそうなほど密着する。
「……あ、ここなら暖色系の方が目立つんじゃないかな」
「あはは、やっぱり佐藤君に聞いて正解! 頼りになるなぁ」
伊並さんは、冗談めかして俺の二の腕を軽くポンと叩いた。
クラスのどこにでもある、他愛のない光景。
だが、その瞬間。
――キン、と。
耳の奥で、氷が割れるような音がした気がした。
それと同時に、教室の空気が、不自然なほどに急降下した。
(……なんだ? エアコンが壊れたのか?)
俺は思わず首をすくめた。
窓から差し込む陽光は暖かいはずなのに、背筋を這い上がるような、凍てつくような寒気がする。
無意識に、視線を窓際へ向けた。
そこには、変わらず読書に耽っているはずの雫がいた。
だが、彼女はもう本を読んでいなかった。
雫は、手に持っていたシャープペンシルを、白くなるほど強く握りしめている。
伏せられた睫毛の奥にある黒い瞳は、微塵も動かず、まっすぐにこちらを――正確には、俺の隣で笑っている伊並さんを射抜いていた。
その瞳は、まさに「絶対零度」。
「……ひっ」
俺の隣で、伊並さんが短く悲鳴を漏らした。
「ど、どうしたの伊並さん」
「……な、なんだろう。急に、すごく怖い視線を感じるっていうか……。氷室さんが、こっちを見てるような……」
伊並さんがおそるおそる窓際を振り返ったが、その時には、雫は既に視線を本に戻していた。
ただ、彼女の周囲に張り詰めたマイナス何度かの空気は、一向に和らぐ気配がない。
♢♢♢
(雫side)
雫は今、自分でも制御できない『ザワつき』の中にいた。
(……なんなの、これ)
雫は心の中で、自分自身に問いかけていた。
胸の奥が、冷たい氷の棘で刺されたように痛い。
悠真が、自分以外の女の子と楽しそうに話している。
その光景を見るだけで、呼吸が浅くなり、指先が冷たくなっていく。
(悠真君は、ただクラスメイトと話しているだけ。……当たり前のことじゃない。彼には彼の人間関係があるわ。私が口を出す権利なんて、どこにもない……)
頭では分かっている。
自分たちはただの『契約関係』だ。
だが、あの子が悠真の腕に触れた瞬間。
雫の頭の中では、昨日、悠真に「ハート」を描いてもらったオムライスの記憶が鮮烈に蘇った。
あの不器用な優しさは、自分だけのものだと思っていた。
あの落ち着く匂いを知っているのは、自分だけだと思っていた。
(……不快だわ。すごく、不快。……お腹が空いているせいかしら? そうよ、きっと栄養が足りていないのよ……)
彼女は必死に自分を納得させようとした。
これが『嫉妬』という感情であることを、彼女はまだ認められない。認めれば、今の「都合のいい契約」という仮面が壊れてしまう気がしたからだ。
だが、思考とは裏腹に、彼女の指先は震えを止めてくれない。
「……ああ、そうだ。佐藤君、今日ちょっとだけ放課後残れる? 細かいレイアウトの相談もしたくて」
「えっ、あ、うん。いいけど……」
俺が伊並さんの誘いに頷いた、その瞬間。
――バキッ。
静かな教室に、小さな、だが不吉な音が響いた。
雫が握っていたシャープペンシルが、その強すぎる力に耐えかねて、真っ二つに折れていた。
「…………っ」
雫は顔を真っ赤にし、折れたペンを隠すように机の中に突っ込んだ。
動揺が、怒涛のように押し寄せてくる。
彼女はたまらず立ち上がり、誰とも目を合わせないようにして、足早に教室を後にした。
♢♢♢
放課後。
俺は、校門の近くで雫が出てくるのを待っていた。
いつもなら、彼女は少し遅れて現れ、俺の後ろを付いてくるのが日課だ。
「……あ、雫。お疲れ」
姿を見せた彼女に声をかける。
だが、雫は俺の方を一瞥もしなかった。
それどころか、俺の横をすり抜ける瞬間、彼女から放たれた空気は、今朝よりもさらに冷たかった。
「……別に。待ってなくてもいいのよ」
「えっ、……雫?」
驚いて彼女の顔を覗き込もうとしたが、雫はマフラーに顔を埋めて、ずんずんと歩き出してしまう。
「おい、待てよ。何かあったのか? 」
「…………うるさい。悠真君には関係ないことよ」
「関係ないって……。怒ってるのか?」
「……怒ってない。…私を待ってないで、あの子と楽しくポスター作ってればいいでしょう?」
雫は足を止めず、吐き捨てるように言った。
「あの子って……伊並さんのことか? ポスターの相談はすぐに終わったよ……」
「説明なんて求めていないわ。……私、今日は一人で帰る。……夕飯も、いらない」
雫は一度も振り返ることなく、駅の方へと消えていった。
取り残された俺は、ただ呆然と彼女の背中を見送ることしかできなかった。
夕暮れの風が、やけに冷たく感じる。
(……なんだよ、あれ。完全に怒ってるよな……?)
わけが分からない。
ただ一つ確かなのは、学校での「氷の令嬢」の仮面が、今にも壊れそうなほどにヒビ割れていたということだ。
俺は、重い足取りでアパートへ向かった。
夕飯はいらないと言われたが、それを真に受けるほど、俺は彼女の「ポンコツ」な性格を知らないわけではない。
「……きっと、家に着く頃にはお腹鳴らしてるんだろ、あいつ」
俺は、少しだけ苦笑いした。
不機嫌な彼女は、確かに怖い。
でも、あんなにストレートに感情をぶつけてくる彼女を、俺は嫌いにはなれなかった。
波乱の予感が漂う、夕暮れ時。
俺と雫の「距離感のバグ」は、嫉妬というスパイスを加えられ、さらに加速していくことになる。




