第14話 アキバ屋の「名物新婚カップル」?
週末の朝、冬が近づく陽光はどこか柔らかく、アパートの廊下を白く照らしている。
二回目となる隣人を連れての激安スーパー『アキバ屋』への買い出し。
俺、佐藤悠真は、自室のドアの前で雫を待っていた。
「……お待たせ、悠真君。準備できたわ」
隣の202号室から現れた氷室雫を見て、俺は思わず小さく息を呑んだ。
今日の彼女は、前回の「いかにもお忍び」な雰囲気とは少し違っていた。
ネイビーのベレー帽を浅めに被り、そこから艶やかな黒髪がさらりと肩に流れている。大きめのダテメガネは継続だが、今日はさらに、アイボリーの分厚いマフラーを口元までぐるぐると巻いていた。
「……その、どうかしら。今度は不審者に見えない?」
「いや、不審者どころか、どこぞの深窓の令嬢が休日を楽しんでるようにしか見えないぞ」
マフラーに顔を半分埋めているせいで、上目遣いになった彼女の瞳が強調されている。吸い込まれそうなほど深く、夜の湖のように静謐な黒い瞳。それが不安げに揺れる様は、男としての庇護欲を嫌というほど刺激してくる。
「……目立たないように、地味な色を選んだつもりなのだけれど。……難しいわね、庶民に紛れるというのは」
「お前の場合は、何を着ても『氷室雫』っていう記号が消えないんだよ。……まあいい、行くぞ」
俺たちは並んでアパートを後にした。
二度目の買い出し。雫の足取りは前回よりもずっと軽やかだった。
彼女は俺の左側にピタリと寄り添い、当然のように俺のダッフルコートの袖を指先で摘む。
「……ねえ、悠真君。今日の特売は何かしら」
「今日は牛バラ肉が安いらしい。久しぶりに肉じゃがでも作るか」
「肉じゃが……! あの、甘酸っぱくてホクホクしたお料理ね?」
「甘酸っぱいって……、まあ、甘辛い、だな。酢は入れないぞ」
そんな他愛もない会話をしながら、俺たちは商店街を抜けていく。
すれ違う人々が、やはり二度見三度見と彼女を振り返るが、雫はもうそれをあまり気にしていないようだった。彼女の意識は、これから向かう「戦場」と、その先にある夕飯の献立に完全に占拠されている。
◇◇◇◇◇
『アキバ屋』に到着すると、店内は相変わらずの熱気に包まれていた。
BGMの電子音が鳴り響き、店員たちの威勢のいい声が飛び交う。
俺は手慣れた動作で買い物カートを手に取り、雫を先導して青果コーナーへと足を踏み入れた。
「……いたいた。今日も仲がいいわねぇ!」
レジの方から、聞き覚えのある野太い声が響いた。
振り返ると、そこには前回「いい奥さん持ったねぇ」と俺たちを冷やかした、ベテラン店員のおばちゃんが立っていた。
彼女は品出しの手を止め、満面の笑みでこちらに手を手を振っている。
「あら、新婚さん。また二人で来たのね!」
響き渡る声。周囲の客たちが一斉にこちらに視線を向ける。
俺は顔が火が出るほど熱くなるのを感じ、慌てて否定しようと口を開いた。
「あ、いや、おばちゃん、それは誤解で――」
「…………はい。また来ちゃいました」
俺の言葉を遮るように、隣から凛とした、だがどこか弾むような声が響いた。
驚いて隣を見ると、雫がマフラーから顔を出し、頬をほんのりとピンク色に染めながら、おばちゃんに向けて上品に会釈をしていた。
「えっ、ちょ、雫……!?」
「悠真君、お野菜を選びましょう? 今日は肉じゃがなんですもの。ジャガイモは、芽が出ていない綺麗なものを選ばないと」
雫は俺の困惑などどこ吹く風で、スッと俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
腕に伝わる、彼女の柔らかな感触と確かな体温。
雫はそのまま俺を促すように歩き出し、おばちゃんに「それじゃあ、失礼しますね」と、とびきり綺麗な笑顔を振りまいた。
「いやぁ、本当にお似合いだよ。頑張んなよ、お兄ちゃん!」
背後で聞こえるおばちゃんの応援。
俺は半ば強引に野菜コーナーの奥へと連行され、人目が少なくなったところでようやく雫の腕を解いた。
「……おい、雫。何考えてるんだよ。新婚さんって言われて、なんで肯定してんだよ」
「否定する理由がないもの」
雫は平然とした顔で、ジャガイモの袋を手に取った。
伊達メガネの奥にある瞳は、驚くほど真っ直ぐに俺を見つめている。
「理由がないって……。俺たち、付き合ってもいないし、結婚なんてさらさらしてないだろ」
「でも、毎日一緒にご飯を食べて、悠真君は私の生活を支えてくれているわ。……それに、外の人たちからそう見えるのなら、いちいち説明して回る方が不自然じゃないかしら。……田中君の時のように、親戚だなんて嘘をつくよりずっとマシだわ」
雫はそう言って、選んだジャガイモをカートに置いた。
そして、ふいっと視線を逸らし、小声で付け加えた。
「……それに。……悪い気は、しなかったわ」
「……え?」
「……なんでもない。さあ、次は玉ねぎよ。人参も必要ね」
雫は再び俺の袖を掴み、ずんずんと歩き出した。
その耳の裏が、隠しきれないほど真っ赤に染まっているのを、俺は見逃さなかった。
(……いいのかよ、それで……)
俺は心中で激しく突っ込みを入れたが、彼女のあんなに嬉しそうな横顔を見てしまうと、それ以上強く言い返すことができなかった。
結局、その日の買い出しは、終始「新婚カップル」のような空気感で行われた。
「悠真君、このお肉。少し脂身が多い気がするわ。こっちの方が肉じゃがには向いているんじゃないかしら」
「……お前、いつの間にそんな知識を」
「昨日の夜、掃除を終えた後に少し調べたの。……悠真君に、いつか私が作った料理を食べてもらいたいもの」
さらりと爆弾発言を投げかけてくる雫。
彼女はもう、自分がどれだけ俺を翻弄しているのか、全く自覚していないようだった。
レジを通る際も、雫は当然のように俺の隣に立ち、財布を出そうとする俺を制して、
「ここは私が。……契約ですから」と、凛とした態度で支払いを済ませた。その姿は、家計を預かるしっかり者の若奥様にしか見えなかっただろう。
アキバ屋を出ると、冬の空気が心地よく頬を冷やしてくれた。
両手に重い買い物袋を提げた俺の横を、雫は自分の分の小さな袋を抱えて歩く。
冬の陽光は真上に近く、お昼前の商店街は活気に満ちていた。
「……ねえ、悠真君」
「なんだよ」
「新婚って言葉、少しだけ……いい響きね」
俯きながら呟く彼女に、俺は言葉を失う。
「……帰りましょう、私たちの家に」
「私たちの、じゃなくて隣同士の部屋だろ」
ツッコミを入れつつも、自然と歩調を合わせる。
猫のように懐いてくる氷の令嬢。
俺は、彼女に振り回されるこの日常が、どうしようもなく愛おしくなっている自分に気づかざるを得なかった。
「……今夜の肉じゃが、楽しみにしてるわね」
無邪気に笑う雫の姿を見ながら、今まで味わったことのない幸せを感じていた。




