第13話 猫化した令嬢と、ゼロ距離のソファ
俺と氷室雫の間で『名前呼び』の協定が結ばれてから、数日が経過した。
「……悠真君。今日の夕飯、なに?」
学校では一切口を利かない。すれ違う時に目も合わせない。
だが、放課後になり、お互いがアパートの自室に戻った途端、彼女は当たり前のように201号室――俺の部屋のドアを叩き、甘ったるい声でそう尋ねてくるようになった。
「今日はオムライスだ。チキンじゃなくて、特売のウインナーを使ったケチャップライスだけどな」
「オムライス……! 卵、ふわふわのやつがいいわ」
すっかりこの部屋の住人のような顔をして、雫はローテーブルの前に座る。
シュシュで無造作にまとめられた黒髪。少し大きめのパーカーから覗く、白い華奢な手首。
学校で周囲を凍らせている「氷の令嬢」の面影は、この空間には1ミリも存在していない。ただ、ご飯を待ちわびる「甘えん坊の猫」がそこにいるだけだった。
「はいはい、ふわふわな。ちょっと待ってろ」
俺はエプロンを締め直し、コンロの火をつけた。
まずはみじん切りにした玉ねぎと、輪切りにしたウインナーをフライパンで炒める。玉ねぎが透き通ってきたら、温かいご飯を投入。そこへバターをひとかけらと、たっぷりのケチャップを加える。
じゅわっ、と酸味のある香ばしい匂いが立ち上った。
木べらで切るように混ぜ合わせ、全体が鮮やかなオレンジ色に染まったら、一度お皿にこんもりと盛り付ける。
ここからが本番だ。
「……いい匂い。ケチャップとお肉が焼ける匂いって、どうしてこんなに幸せな気持ちになるのかしら」
いつの間にか、雫がキッチンの入り口までやってきて、俺の手元を覗き込んでいた。
彼女の吐息が俺の肩口にかかる。
「……近いぞ、雫。油がはねるかもしれないから、座ってろ」
「はーい」
名前を呼ぶのには、まだ少しだけ照れがある。だが、彼女は「悠真君」と「雫」という呼び合いを、心の底から気に入っているようだった。
俺はボウルに卵を三個割り入れ、少量の牛乳と塩を加えて手早く溶く。
熱したフライパンに多めのバターを溶かし、一気に卵液を流し込む。
ジューッ!という激しい音と共に、卵の縁がフツフツと固まり始める。すかさず菜箸で大きくかき混ぜ、半熟のトロトロ状態をキープしたまま、フライパンの柄をトントンと叩いて木の葉型にまとめていく。
「いくぞ」
俺は、お皿に盛ったケチャップライスの上に、その半熟オムレツをそっと乗せた。
そして、ナイフでオムレツの真ん中にすーっと切れ目を入れる。
パカッ、と。
内側に閉じ込められていた半熟の卵が、まるで黄色い花が咲くように、とろりとライスを覆い隠した。
「わぁ……っ!」
雫が、子供のように両手を叩いて歓声を上げた。
その瞳は、キラキラと星を散らしたように輝いている。
「完成だ。特製、とろとろオムライス」
「すごいわ、悠真君! まるでお店みたい……!」
俺は湯気を立てる皿を、ローテーブルへと運んだ。
向かい側に座り、冷蔵庫から取り出したケチャップのボトルを彼女の前に置く。
「ほら、仕上げのケチャップは自分でかけろ。好きなだけかけていいぞ」
「…………」
しかし、雫はケチャップのボトルを見つめたまま、動こうとしない。
そして、ちらりと上目遣いで俺を見た。
その目が、何かをねだるように潤んでいる。
「……どうした? ケチャップ嫌いだったか?」
「ううん。……あのね、悠真君」
雫は、もじもじとパーカーの裾を弄りながら、消え入りそうな声で呟いた。
「……描いて、ほしいの」
「は? 何を?」
「…………ハート」
時が、止まった。
「……はい?」
「だ、だから! オムライスには、定番でしょう!? テレビのメイドさんとかも、よくオムライスにハートを描いて、『美味しくなーれ』ってやってるじゃない!」
顔を真っ赤にして早口でまくしたてる雫。
メイド喫茶の知識をどこで仕入れてきたのかは謎だが、つまり彼女は、俺にオムライスにハートを描けと要求しているのだ。
この、学校一の美少女が。俺に対して。
「……俺が描くのかよ。おっさんのメイドだぞ」
「おっさんじゃないわ、悠真君は高校生よ。……お願い。私、あれ、一度やってもらってみたかったの」
そんな捨て犬みたいな目で見つめられたら、断れるはずがない。
俺は深いため息をつき、ケチャップのボトルを手に取った。
手が震えないように必死に力を込め、黄色い卵のキャンバスの上に、赤いケチャップで不器用なハートマークを描く。
「……ほら、これでいいか?」
「…………ふにゃっ」
俺が描いた、少し歪なハートマーク。
それを見た瞬間、雫の顔が、文字通りとろけるように緩んだ。
それは学校の誰にも見せたことのない、俺だけが知っている至福の表情。
「ありがとう、悠真君。……食べるのがもったいないわ」
「冷める前に食えよ」
「うん。いただきます」
雫はスプーンで、ハートの端っこを崩さないようにそっと掬い、口に運んだ。
卵のコクと、ケチャップの酸味、そしてバターの香りが口いっぱいに広がったのだろう。彼女は頬に手を当て、「んん〜……っ」と、言葉にならない感嘆の声を漏らした。
「美味しい……。卵が口の中で溶けちゃうわ……」
幸せそうにオムライスを頬張る雫を見ていると、俺の方まで胸がいっぱいになってくる。
大盛りだったはずのオムライスは、あっという間に彼女の胃袋へと消えていった。
◇◇◇◇◇
食後。
満腹になって満足した雫は、俺の部屋の隅にある小さな2人掛けのソファを占領していた。
食器を洗い終えた俺がリビングに戻ると、雫はクッションを抱きしめたまま、テレビの画面をぼんやりと眺めていた。
テレビでは、たまたま動物のドキュメンタリー番組が流れている。
画面の中では、日向ぼっこをしている数匹の子猫が、お互いに身を寄せ合ってじゃれ合っていた。
「……可愛いわね、猫」
「そうだな。……まあ、うちにも一匹いるけどな」
「えっ? 悠真君、ペット飼ってたの?」
「いや、こっちの話」
俺は苦笑いしながら、ソファの空いているスペース――雫の隣に腰を下ろした。
2人掛けのソファは狭く、俺が座ると、自然と彼女との距離はゼロに近くなる。
肩と肩が、あと数センチで触れ合いそうな距離。
漂ってくる雫の香りに、俺の心拍数は無意識に跳ね上がってしまう。だが、雫はそんな俺の緊張など気にも留めていないようだった。
「……ねえ、悠真君」
「ん?」
「お腹がいっぱいになったら、なんだか、すごく眠たくなってきたわ……」
雫の言葉は、少しろれつが回っていなかった。
瞬きの回数が増え、テレビの画面を見つめる黒色の瞳が、とろんと潤んでいる。
「寝るなら自分の部屋に帰ってベッドで寝ろよ。風邪ひくぞ」
「……やだ。もう少し、ここにいたい」
わがままを言う子供のように、雫はクッションを抱きしめる力を強めた。
そして。
こてん、と。
「…………っ!?」
突然、俺の右肩に、柔らかな重みが乗った。
驚いて横を見ると、雫が俺の肩に自分の頭を預け、目を閉じているではないか。
「お、おい……雫?」
「…………んぅ……」
返事はない。彼女は完全に脱力し、俺の肩を枕代わりにして寄りかかっていた。
艶やかな黒髪が俺の首筋にかかり、くすぐったい。
腕に触れる彼女の体温が、服越しでもはっきりと伝わってくる。
距離感のバグ、というレベルではない。
これはもう、完全に家族か、あるいは恋人同士のスキンシップだ。
(だめだ、俺の心臓が持たない……っ!)
動けば彼女を起こしてしまう。かといって、このままの姿勢でいれば、俺の理性がショートしてしまう。
ガチガチに硬直する俺の肩に、雫はさらにすりすりと、猫のように頭を擦り寄せてきた。
「……こら、雫。起きろ。ちゃんと自分の部屋で……」
「…………んん。……いい匂い……」
寝言のように、雫の桜色の唇が微かに動いた。
「……匂い?」
「……悠真君の、匂い。……すごく、落ち着くわ……。ずっと、このままでいたい……」
ドカン、と。
俺の中で、何かが爆発する音がした。
無自覚な爆弾発言。
彼女は自分が今、どれほどの破壊力を持った言葉を口にしたのか、全く気づいていないのだろう。
規則正しい寝息を立て始めた雫の顔は、驚くほど穏やかで、何の警戒心もなかった。
「……お前なぁ。そういうこと、無防備に男に言うもんじゃないぞ」
俺は誰に届くともない文句を呟きながら、大きく息を吐き出した。
顔が熱い。耳の裏まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。
テレビの中では、子猫たちが丸くなって眠りについていた。
俺の隣でも、世界で一番可愛い「氷の令嬢」が、俺の肩に身を預けて微睡んでいる。
俺は、動くのを諦めた。
彼女が目を覚ますまで、この幸せで、甘くて、心臓に悪い拷問のような時間を、甘んじて受け入れることにしよう。
「……おやすみ、雫」
誰にも見られない、俺だけの特等席。
寝息を立てる彼女の黒髪に、俺はそっと、触れるか触れないかの距離で頬を寄せた。




