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第12話 特別な名前

激安スーパー『アキバ屋』での激闘(と、田中たちとの心臓に悪い遭遇)を終え、俺たちはアパートへと続く緩やかな坂道を上っていた。


空はどこまでも高く、突き抜けるような冬の青。午前中の陽光がアスファルトを白く照らし、俺たちの足元には短く、くっきりとした影が落ちている。


朝の澄んだ空気は冷たく、吐き出す息が白く揺れては消えていく。だが、俺の隣を歩く「氷の令嬢」の存在のせいか、あるいは先ほどまでの緊張のせいか、不思議と寒さは感じなかった。


「佐藤君。……その袋、半分貸して。私も持つわ」


「いいよ。重いし、指に食い込むぞ。それに、男の俺が持つのが普通だろ」


「ダメよ。さっき田中君たちに怪しまれたのも、私のせいだもの。……連帯責任よ。それに、私も少しは役に立ちたいの」


雫は頑として譲らなかった。結局、俺は比較的軽い方の袋――中身はパンや卵のパックだ――を彼女に手渡した。雫はそれを両手で大事そうに抱え、一歩ずつ踏みしめるように歩く。


 「……ふふっ、意外とずっしりくるのね。命の重みを感じるわ」


「卵と食パンに命を感じるなよ。……まあ、ありがとな」


「どういたしまして」

 

雫は満足げに小さく頷いた。彼女の歩調は、どこか弾んでいるように見える。

大きなキャスケット帽のつばから覗く彼女の鼻の頭は、寒さのせいか、それとも興奮のせいか、ほんのりと林檎のように赤らんでいた。 


「……楽しかったわ」


 不意に、雫がポツリと呟いた。


「買い物って、あんなにドキドキするものなのね。……特売の争奪戦も、さっきの見つかりそうになったあのスリルも……。私、生まれて初めての経験ばかりだったわ」


「……スリルは、あんまり経験したくないけどな。寿命が縮まるかと思ったぞ」


「ふふっ。そうね。でも……一人で無機質なコンビニのレジに並ぶのとは、全然違う景色に見えるわ。……世界が、色鮮やかになったみたい」


雫は冬の澄んだ空を見上げ、満足げに微笑んだ。

学校で見せる冷徹な「氷の令嬢」の仮面は、もうどこにもない。少しだけ紅潮した頬と、柔らかく弧を描く桜色の唇。それは、新しい遊びを覚えたばかりの子供のような、純粋で無防備な少女の顔だった。


やがて、見慣れたアパート『コーポ・サザンカ』が見えてきた。

二階へと続く外階段を上り、それぞれの部屋の前へ。

 

「……佐藤君。今日は、本当にありがとう。……」


雫は大事そうに抱えていた袋を俺に返すと、自分の部屋のドアノブに手をかけた。

だが、彼女はすぐに鍵を開けようとせず、何かを躊躇うように立ち止まった。


「……ねえ、佐藤君。一つ、お願いがあるの」


「なんだ? 掃除用具の買い足しか?」


「ちがうわ。……そういう実務的なことじゃなくて」


雫はゆっくりと振り返った。

午前中の明るい光が廊下に差し込み、彼女の黒髪に細かなハイライトを落としている。

 

「……学校では、今まで通り『氷室さん』でいいわ。周りの目もあるし、私たちの契約を守るためにも。……でも」


「……でも?」


雫は、自分のロングコートの裾をギュッと掴み、上目遣いで俺を見た。


「……このドアの内側、二人だけの時は……私のこと、『雫』って呼んでくれない?」


「…………えっ?」


あまりにも予想外の提案に、俺の喉が鳴った。

名前を、呼び捨て。

それは、家族か、あるいはそれ以上に親密な間柄でしか許されない行為だ。


「……ダメ、かしら。私……佐藤君に名字で呼ばれると、なんだか学校にいるみたいで……少し、寂しいの」


「寂しいって……。でも、俺みたいなのが、お前を呼び捨てにするなんて……。不敬罪とかで誰かに刺されるぞ」


「佐藤君は、私の命の恩人で……世界で一番美味しいご飯を作ってくれる人でしょ? そんな人に、いつまでも他人行儀に呼ばれたくないわ」


雫は、頬を微かに染めながら、まっすぐに俺を見つめていた。

その瞳には、嘘偽りのない、切実な願いが宿っている。

 

学校では「氷の令嬢」。

でも、俺の部屋では――ただの、雫。


「……わかったよ。……雫」


おそるおそる、その名前を口にする。

自分の舌の上で、その響きが驚くほど甘く、そして心地よく響いた。


雫は、一瞬だけ目を見開いた後、冬の陽光よりも眩しく、花がほころぶような笑顔を見せた。

                

「ええ。……改めて、よろしくね。悠真ゆうま君」


「なっ――」


彼女の口から出た俺の名前。

不意打ち。あまりの破壊力に、俺は言葉を失って立ち尽くすことしかできなかった。


「……ふふっ。……じゃあ、一時間後に。美味しいお昼ご飯、期待してるわね。悠真君」


雫はいたずらっぽくウインクをして、自分の部屋へと滑り込んだ。

パタン、と閉まったドア。


俺は、誰もいない廊下で自分の顔が爆発するほど熱くなっているのを自覚した。


「……悠真、君、かよ……」


名前で呼ばれただけで、これほどまでに心が乱されるなんて。

 

初めての買い物。初めての密着。そして、初めての名前呼び。

俺たちの関係はもう、ただの隣人という枠を大きく踏み越えてしまった。

 

だが、幸せな余韻に浸る俺は、まだ気づいていなかった。

この『名前呼び』という親密な関係が成立した直後、学校での俺たちの立場を揺るがす、新たな「嵐」が近づいていることに。


「……よし、気合入れてお昼作るか。……雫のために」


自分でも驚くほど自然にその名を呼び、俺は自室のドアを開けた。

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