第10話 激安スーパーの「新妻(仮)」
激安スーパー『アキバ屋』。
そこは、私立光星高校の「聖域」に住まう氷室雫にとって、おそらく人生で最も縁遠い場所だったに違いない。
入り口に無造作に積み上げられた空の段ボール箱。所狭しと貼られた、蛍光ピンクや黄色の「爆安」「赤字覚悟」という扇情的なポップ。スピーカーからは、安っぽい電子音のBGMと共に店長自らのマイクパフォーマンスが鳴り響いている。
「……すご、いわね。ここ、本当に日本なのかしら」
雫は入り口で立ち往生し、圧倒されたように大きな伊達メガネを押し上げた。キャスケットの下から覗くつややかな黒髪が、店内の混沌とした熱気に当てられて心なしか心細げに揺れている。
「日本だよ。それも、俺たちの生活を支える最前線だ」
俺は手慣れた動作で、入り口に置かれた買い物カートを引き寄せた。
雫はそれを見て、「私も、それやってみたいわ」と、まるでおもちゃを見つけた子供のような瞳でカートのハンドルを握った。だが、慣れないキャスターの動きに翻弄され、カートはあらぬ方向へと進もうとする。
「危ないって。ほら、前見て」
「わっ、……意外と重いのね、これ。……あっ、佐藤君、置いていかないで!」
雫は慌ててカートを立て直し、俺の背後へと回り込んだ。
そして、俺の左腕の袖を指先でギュッと掴む。
右手にカートのハンドル、左手に俺の袖。そんな、傍目から見ればひどく不器用で、それでいて密着度の高いスタイルで、俺たちの買い出しが始まった。
「まずは野菜からだ。氷室さん、そこのキャベツ取ってくれ。できるだけ重くて、芯が白いの」
「重くて、白いのね……。ええと、これかしら? ……あ、こっちの方が大きくて立派だわ!」
雫は宝探しでもするかのように、真剣な顔でキャベツの山に挑んでいる。
彼女が選んだのは、一玉二百九十八円の、確かに立派だがこの店にしては強気な価格設定のブランド品だった。
「待て待て、それは高い。こっちの百円ので十分だ」
「でも、こっちの方が色が綺麗よ?」
「味は変わらないよ。その二百円の差で、明日の副菜が一品増えるんだぞ」
「……そうなの? 二百円で、世界が変わるのね……」
雫はカルチャーショックを受けたような顔をして、俺の差し出した百円のキャベツを恭しくカートに入れた。
そんなやり取りをしながら、俺たちは青果コーナーを進んでいく。
雫は初めて見る光景の連続に、終始目を丸くしていた。
詰め放題の人だかりを見ては「何かの暴動かしら?」と怯え、もやし一袋十九円という価格を見ては「この国はデフレの深淵に沈んでいるの?」と戦慄している。
「佐藤君、見て! このイチゴ、すごく赤いわ。美味しそう……」
「……六百円か。今日は予算オーバーだな。また今度」
「えっ、ダメなの? ……じゃあ、あっちのメロンは?」
「もっとダメだ。三千円だぞ、あれ」
「そう……。お金って、有限なのね……」
雫はシュンとして肩を落とした。
その様子が、まるでおねだりをして断られた子猫のようで、俺の胸の奥が少しだけチクリとした。
だが、周囲の視線は別の意味で俺たちに刺さっていた。
「あら、見て。あそこの二人、若いのに仲がいいわねぇ」
「新婚さんかしら。旦那さんがしっかり家計を握ってる感じで、微笑ましいわね」
通りすがりの主婦たちの、隠す気のない囁き声。
俺は顔が熱くなるのを感じたが、当の雫は「新婚」という単語の意味を正しく理解しているのかいないのか、俺の袖を掴む力を強めて、さらに距離を詰めてくる。
「ねえ、佐藤君。みんなが私たちのことを見て、笑っているわ。……やっぱり、変装がバレたのかしら」
「……いや、そうじゃないと思う。……とにかく、次は肉コーナーだ」
俺は逃げるように歩を早めた。
肉コーナーでは、今日の目玉である「豚コマ肉・メガパック」を狙う。
「氷室さん、これだ。これだけあれば、三日は持つ」
「……茶色のトレーに、お肉がぎっしり詰まっているわね。……少し、ワイルドだわ」
「これが一番経済的なんだよ。……あ、あと、卵も忘れずに。あっちの特売の列に並ぶぞ」
俺たちは、タイムセールの卵を求めて列に加わった。
周囲はベテランの主婦や、生活感溢れるおじいさんたちばかりだ。
その中で、ネイビーのキャスケットにロングコート、そしてつややかな黒髪を揺らす雫は、どう見ても異物だった。
だが、彼女はそんな周囲の目など気にする様子もなく、俺の横でカートを支え、時折俺の顔を覗き込んでは、楽しそうに微笑んでいた。
「……佐藤君と一緒に選ぶと、ただの食べ物が、なんだか特別なものに見えるわ」
「ただの食材だよ」
「いいえ。……これが、私の体の一部になって、佐藤君が魔法みたいに美味しくしてくれるもの。……そう思うと、なんだか愛おしくなってくるわ」
雫は、カートに入ったキャベツや豚肉を、まるで愛しいペットでも見るような優しい目で見つめた。
その無防備な言葉と、潤んだ瞳。
(……だめだ。心臓に悪すぎる)
学校では「氷」と称される彼女の、あまりにも温かくて純粋な一面。
俺は、彼女の手を握りしめたくなる衝動を必死に抑え、代わりにカートのハンドルを強く握った。
「お兄ちゃん、いい奥さん持ったねぇ!」
レジで会計を済ませている時、威勢のいいおばちゃん店員が、雫を見てニカッと笑った。
「えっ、あ、いや……」
「こんなに綺麗な子が、あんたの後ろを離れないでずっと付いて回って。幸せもんだよ、全く!」
雫は「おくさん……」と、その単語を口の中で反芻するように呟いた。
そして。
「……ええ。ありがとうございます」
あろうことか、彼女は否定もせず、少しだけ照れたように微笑んで頭を下げたのだ。
「お、おい! 氷室さん!」
「なにかしら。……嘘は言っていないわ。私は佐藤君にお世話してもらっているし、同じ屋根の下……ではないけれど、隣同士で、ご飯を食べているのだもの。……広義の意味では、間違っていないはずよ?」
雫は、何食わぬ顔で伊達メガネのブリッジを押し上げた。
だが、その頬がうっすらとピンク色に染まっているのを、俺は見逃さなかった。
大量の買い物袋を手に、俺たちはスーパーを出た。
冬の風が火照った顔に心地よい。
新婚、奥さん。
投げかけられた言葉が、呪文のように俺の頭の中でリフレインしている。
隣を歩く「氷の令嬢」は、満足げに自分の分(軽いパンの袋だけだが)を抱え、軽やかな足取りで歩いている。
「……買い出しって、こんなに楽しいものだったのね。佐藤君、また連れてきてくれる?」
「……ああ。……まあ、お前がゴミの分別を覚えたらな」
「それはそれ、これはこれよ。……さあ、帰りましょう。お腹が空いてしまったわ」
雫は、再び俺の袖を掴んだ。
激安スーパーでのひとときは、俺たちにとって「ただの買い物」以上の意味を持ち始めていた。
だが、そんな幸せな空気も束の間。
アパートへと続く帰り道、俺たちは最大のピンチに直面することになる。
「……あ、あれって……佐藤?」
背後から聞こえてきた、聞き覚えのある声。
俺と雫の身体が、同時に石のように固まった。




