② 星降る夜
(怖っ、怖、怖、怖、怖!!! ななななにっ、目が、顔が、狐なんだけどっ!)
若旦那の顔がゆっくりと変貌し、口角が深まり、細められた目は三日月のように細く吊り上がって、縦の瞳孔が狐火を受けて、仄白く光った。
(ヒィ!)
ジリッと後ろに下がったけれど、桟橋の先は大川。
逃げられないっ。
「お待たせしました」
「ギャッ」
暗がりから声がして、若い女性らしからぬ声を上げて体がよろめいた。
「仁吉。狐火をつけろ」
「はい」
「大丈夫かい? サクラさん」
「ハ、ハヒィ」
咄嗟に若旦那が腕を掴んでくれたから、大川への落下は免れたけど、若旦那の顔が。
(あれ?)
音もなく船の前後に火玉が灯り、薄暗かった桟橋が明るくなって、露わになった若旦那の顔は、いつもの麗人だった。
「どうぞ」
仁吉と呼ばれた船頭が渡し板をかけた。
私は、疑心が消えないまま船を見て、絶句した。
「わ、若旦那、これは・・・」
「私の自家用船だよ」
「えーっと、あの、私、屋形船かと思ってたんですけど・・・」
「あれは、店のだからね、今は使えない」
「そう、ですか。そうですよね。でも、この船は、ちょっと・・・」
「うん、2人乗りだから問題ないよ」
(いえいえ、問題ありまくりですよ。だって、これ、めちゃめちゃプライベート船ですよね)
深紅のベロアな絨毯が敷かれた上に、進行方向に向いた二人掛けのアームチェア、そこにはふかふかなクッションがいくつも置かれているという、とんでもなく豪奢でプライベート感満載な船だった。
(こんなの、若旦那の船だって公言してるような船じゃん。無理、ムリ、ムリ、ムリ、ムリ、絶対無理)
船に灯る火には、通常、不知火が使われる。
龍神の名残火とも呼ばれる火の妖怪で、白く明るい光を放ち、遠くからでもよく見えることで重宝され使われている。
でも、この船に灯されているのは、狐火。
大川で狐火といえば、桔梗屋だ。
地上だけでなく、水上でも種族それぞれに縄張りがあり、妖力や規模の大きい種族ほどそれは色濃く存在する。
水上での明るさ以上に、大川で狐火を灯すことは、狐族の力を示威するという意味合いがあるのだ。
そんな船に乗れるはずもなく、二の足を踏む私を若旦那がヒョイと抱え上げた。
「ギャッッ!」
腰に手が回され、顔が近づき、また目が細められた。
何とか距離をとろうと、両手で若旦那の胸を押す。
「なな、なっ、にを、」
「揺れると危ないだろう」
そう言って、若旦那はタッタと船に乗り込んでしまった。
2人乗りというわりに4、5人は乗れそうな広さはあるけれど、やはり小型船、乗った瞬間グラリと揺れた。
離れたいけど、落ちるのも怖くて、私は体を縮こませた。
「甘い香りだ」
(ヒィ!!!)
耳元で囁かれる言葉に戦慄し、体がこわばった。
「さ、座って」
ストンと降ろされ、私はそのままへにゃりと脱力するように座った。
すぐに、滑るように走り出した船。
行く先に船が見えるけれど、船先に大きく灯る狐火を見ると右に左にと道を開けていく。
凄いな狐族、と感嘆していると、道を開けた船から二度見、三度見のあんぐりビックリの顔を向けられた。
(あーっ、そうだった。頭がフリーズしてたけど、ヤバイわ、これは!)
日よけの屋根が付いているから後ろは大丈夫でも、横や前はオープン過ぎるくらいにオープンだ。
周りの視線からどうやって身を隠そうか、と考えて出来ることといえば、姿勢を低くするしかなく、どんどんお尻が下がり、最後は絨毯に座る形になってしまった。
「寒い?」
「えっ、いえ、あ、うっ・・・はい」
「昼間は暖かくなってきたけど、夜は少し冷えるね」
若旦那は、足元に置かれていたブランケットを広げ、私にかけてくれた。
若旦那は優しい。
こんな、目の周りを赤く化粧した、パッとしないチビ狸にも優しく接してくれる。
お店へ伺った時も、わざわざ声をかけてきてくれたり、労ってくれたり、桔梗屋の若旦那としての店での采配や気配りなんだろうけど、優しい人だと私は思っている。
月光のような銀髪に、温度の感じさせない薄青い瞳と、整い過ぎた美しい顔立ちから、とても近寄りがたいイメージだけど、仕事には熱く、人一倍頑張っていると思う。
(といって、仲良くなんて出来ないけど)
桔梗屋の若旦那と菓子屋の娘とじゃ、立場がぜんぜん違うし、やっぱり、若旦那は妖力の強めの妖で、私が人間だから、相容れることなんてありえない。
私が人間だとわかった時点で、捕獲されて、殺されて、食べられてしまうかもしれない。
そう考えると今の状況、周りの目線も怖いけど、隣の妖の方がよっぽど危ない。
衿合わせの裏に忍ばせている狸の匂い袋を確かめるように、胸の上から押え、座面を枕にしてブランケットを顔近くまで引き上げながら、若旦那から距離を取って横向きに座った。
「この船、横になれるように、少し長めに作ったんだ」
そう言って、私同様、若旦那も絨毯に座った。
(なんの為に?)
不意に疑問が頭に浮かび、若旦那の顔が急に近づいた。
私を見つめる薄青い瞳が、暗闇の中で、深い海底のように青く光っている。
(わざわざ、この船に私を乗せた理由は、ナニ?)
急に鼓動が早くなった。
唇がブルブルと小刻みに震え、背筋がスッと冷たくなる。
こんな状況になって気がつくなんて、私は、なんて馬鹿なんだろう。
どんなに後悔しても、遅い。
(イヤだ、死にたくない。誰か、)
周りの船に向かって叫ぼう、と起き上がった。
「ほら、凄いだろう。満点の星空だ」
耳に届いた声に、私は弾かれるように空を見上げて、息を飲んだ。
やや紫がかった深い青色の空に、今にも落ちてきそうなほどの無数の星が瞬いていた。
夜空に散りばめられた星の粒は、サファイアのように澄んだブルーや、トパーズのような可憐なピンク、エメラルドのような神秘的な光を放って、多彩な輝きを見せている。
見上げる顔前には、いく千もの輝く星達が集まり、光の帯となって広がっている。
「すごい・・・綺麗」
吸い込まれてしまいそうな美しさに、思わず、ほう、と息が零れた。
「これをゆっくり堪能するには、横になって見るのが一番だろう」
振り返ると、若旦那は絨毯の上でくつろぐように横になって、夜空を仰いでいた。
私の視線に気がつくと、手を左に差し出した。
私は、その手に従うように若旦那の隣に横になり、星空を見上げた。
ゆったりと揺れる船に横たわっていると、まるで自分が夜空に浮かんでいるような気さえしてくる。
空から降り注ぐ色彩の星達を見上げながら、私は、ついさっきまでの自分を思って、すごく、ものすっごく、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
(やっぱり、若旦那は優しい人だ。狸の私に、こんな景色を見せてくれるなんて。なのに私は、自分のことばっかりで)
格式のある桔梗屋の狐族の御曹司なのに、狸の私を対等に見てくれている、その気持ちだけでもありがたいのに、対等につきあってくれるなんて、若旦那には、キチンと真摯に向き合わないといけない、と私は思った。
人間というのは、絶対にバレちゃいけないけど、ここにいる限り、私は菓子屋『此花堂』の娘、サクラとして、妖の狸として、生きていかなくちゃいけない。
なのに、自分自身が人間ということを、気にし過ぎだ。
「ありがとうございます、若旦那。こんな、素晴らしい景色を見せて下さって。私、これほどの星空を見たのは初めてです」
「よかった。気に入った?」
「はい、すごく」
「じゃぁ、また一緒に来よう。季節が変わると、見える星も変わるし、見え方も変わる。また違う美しさを楽しめるよ」
「は、・・・い」
若旦那の何気な社交辞令に、安易に返事をしてもいいものか、と少し迷ってしまった。
若旦那が誰かとお付き合いしていると聞いたことはないけれど、と思って、それは若旦那の事情で私が気にすることでもないか、と思い直して、ハッとした。
青い、海底のような深青の瞳孔が私を見下ろしていて、私は咄嗟に視線を逸らしてしまった。
冷たく青く光る目から逃れたいという、条件反射だったけれど、心証は明らかに悪かったと思う。
静寂が広がり、2人の間を風が通り抜けた。
「若菜会に参加するから?」
「ッ!」
若旦那の声が耳元で聞こえた。
吐息の熱を感じるほどの距離に、体が小さく震える。
「勇五郎か?」
まるで刃のような、鋭く切り裂く言い方に、身がすくんだ。
若旦那から放たれるピりついた空気に、もの凄く怒っているのを肌で感じる。
「ご、ごごご、ごめん、なさい。さっき顔を、そそ、そ、逸らした、のは、す、すごく怖かった、からです。決して、悪い意味、じゃなくて。本当に、ごめんなさい。悪気は、ないんです。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
顔を隠すようにブランケットを握りしめて、私は何度も誤った。
「サクラ、さん?」
ブランケットを握りしめる手の上に、大きな手が重ねられた。
ブランケットを下げて見上げると、若旦那の青い瞳が大きく開かれていた。
「怖いって、私のことが?」
すっごい申し訳なかったけれど、私は頷いた。
若旦那は起き上がり、呆然といった感じで、言葉なく絨毯の上に胡坐をかいた。
私も慌てて起き上がり、若旦那に向いて正座した。
「ごめんなさい。若旦那のことを嫌いってわけじゃなくて。なんていうか、その、男の人と、一緒にいることがあまりなくて、緊張する、というか。すみません・・・、折角、連れてきてもらったのに、イヤな気分にさせて、本当にごめんなさい」
夜目が怖い、とは言えず、そこは省いて、深々と頭を下げた。
「嫌いじゃない? 私のこと」
「はい」
そこは間違いないので、私は大きく頷いた。
「そうか・・・」
若旦那は座面に肘をついて、手を顎にあて、考えるような素振りで言った。
「サクラさん。若菜会に参加するって、本当かい?」
「あ、はい。火消し屋の辰蔵親分に、今年は参加人数が少ないから、参加してもらえないかって頼まれたんです。若菜会は、お付き合いする相手を探す名目もありますけど、異種族の方達も集まりますから、人繋がりにいいのでは、とも言われまして。数合わせも兼ねて参加することにしました」
さっきも聞かれたな、と思いながら、間違いがないよう正確に答えた。
「ふーん、そう。じゃぁ、私も参加しようかな、若菜会」
「え?」
若菜会は、もともと異種族同士の出会いの場として始まった集まり。
そのうち、付き合う相手を探す場ともなって、今では異種族同士の恋愛や婚姻も増えて、そちらの様相の方がメインになっている。
私自身、相手を探すなんてあり得ないし、到底無理なんだけど、それよりも、若旦那が、相手を探す必要性が思い浮かばない。
若旦那は狐族のいわゆるサラブレッドだ。
間違いなく、相手は同じ狐族の人だろうし、自分で探さなくても狐族の中で決められてそうなのに、と思った。
「数合わせっていうなら、私も一役買うよ。辰蔵親分とは、知らない仲じゃぁなし。一緒に参加しよう、サクラさん」
そう言われれば、断る理由もない、私は頷いた。
完璧なまでに美しい笑みを浮かべた若旦那。
でも、その笑みには、どこか妖しい影が揺らめいているように、私には思えた。




