⑫ 特別な時間
「遅くなりました」
「サクラ、さん」
部屋から出ると、ソファに座っていた若旦那が、スッと立ち上がったかと思うと、一瞬にして側までやってきた。
そして、柔らかい眼差しで、私を見た。
「すみません、お待たせしてしまって」
「少しも、待ってないよ」
そんなことは、無いと思う。
2時間ちかく、籠っていたんじゃないかと思う。
暫く沈んでいたけれど、泣いたせいもあって、気分も落ち着き、着物を一旦脱いで、また着直した。
あちこち汚れていたけれど、幸いにして、破れてはいなかった。
そんなことをしながら着替えていたら、かなり時間を取ってしまった。
そして、一番ビックリしたのは、顔だった。
泣いたせいで、目の下に塗っていた赤い化粧が取れてしまっていた。
いつもなら、すぐに直せるように、着物の衿内に忍ばしてある赤い粉も、さっきの一悶着でなくしてしまったみたい。
今更、あの部屋に探しに戻るのはイヤだし、仮に戻るとしても、なんて言って戻るんだって話。
仕方がないので、取れていない、目の上部分から赤い色を下に伸ばして、伸ばして、擦っているうちに、赤い化粧なのか、赤くなった肌なのか、わからなくなってしまった。
なので、あまり見て欲しくない。
サッと、前に手を出された。
これは一体どういう意味なんだろう?と思ったけれど、若旦那の顔を見ると、雰囲気的に手をのせるのが正解?と思って、手を置いた。
すると、ホッとしたような、安堵の吐息が溢れ、手を握られた。
「サクラさん、こちらへ、どうぞ」
蕩けるような柔らかい笑みに、ドキッとする。
先程まで、若旦那が座っていた厚手のファブリックのソファにエスコートされ、座った。
下の客室に似たクラシカルな室内。
天井は高く、ソファの後ろの大きて広い窓が印象的で、昼過ぎのうららかな日差しがシェードのカーテンから優しく差し込んでいる。
室内はとても広く、厚みのある踏み心地のいい絨毯や、繊細な彫刻が刻まれている調度品には琥珀のツヤがあり、全体的に伝統と歴史を感じさせる。
そして、目の前のテーブルには、救急箱が置かれていた。
「少し、ここで待ってて」
若旦那は、いそいそと部屋の外に出ると、すぐに戻ってきた。
私的には、すぐに帰ると思っていたから、予想外の動きに戸惑った。
「あの、若旦那」
「なに?」
「帰らないんですか?」
「帰るよ。だけど、その前に手当てしないとね」
若旦那は、テーブル横の1人用のソファに座ると、向かい合うような位置に動かした。
それから、救急箱を開けると薬を取り出した。
「サクラさん、手を出して」
「大丈夫です。擦り傷ですから」
「だめだめ、ちゃんと手当てしないと。菓子を作るのに、怪我したままじゃ、上手く作れないかもしれないじゃないか。そうなったら、困るでしょ」
にっこりと笑う若旦那。
そこには拒否してもダメだと言う強い意思が感じられて、私はおずおずと手を差し出した。
手のひらは、思いの外、傷がついていて、薬をつけるとジワリと沁みた。
「痛いよね。少し我慢して」
壊れ物を扱うように優しく触れる、若旦那の手。
骨ばっていて、指が長くて、大きく暖かい手。
勇五郎の手に触られた時は、自分でもびっくりするくらい、気持ち悪かったのに、今は全く思わない。
そっと触れる、その手の気遣いに胸が温かくなる。
(ほんと、若旦那は優しいなぁ)
若旦那の顔を見た。
私の手を真剣な眼差しで、手当てしている。
長いまつ毛に、切れ長な瞳。
肌は白く、通った鼻筋、薄く形のいい唇。
どこを切り取っても、美しい顔立ちだ。
思えば、若旦那の顔をこんなにまじまじと見たのは初めてかも知れない。
(まつ毛も、銀色なんだなぁ)
うっとりするような気持ちで見ていると、伏せていた若旦那の目が、上を向き、私を捉えた。
「痛かった?」
「いい、いいえ」
ドキッと心臓が飛び跳ね、私はぶんぶんと顔を横に振った。
「仁吉って、覚えてる?」
唐突な問いに首を傾げた。
「船頭さん?」
「そう。アイツはさ、子供の頃からウチで働いているんだけど。小さい頃は、私の遊び相手だったんだよ。兄弟がいなかったし、自分で言うのもなんだけど、結構、我儘し放題だったから、お目付け役でもあったんだろうね。いつも無理難題を言いつけて、遊んでいたんだ」
「なんか、想像できませんね」
意外な話に相槌を打つと、若旦那は照れるように笑った。
「良いと言うまで、走り続けろ、とか、木のてっぺんの柿を取ってこい、とか、いろいろ」
「結構な、無茶ぶりですね」
私は、眉をひそめて答えた。
「フフッ。でも、仁吉は、ぜんぜん言い返さないし、やってしまうんだよ」
「すごい」
「だろう。仁吉は鬼族なんだけど、鬼族は、元来頑丈な種族でね。それで、こっちもだんだん、エスカレートしてしまって。ある日、山の栗を背籠いっぱいに取って来い、って言ったんだ。その年は、雨が少なかったから、不作だったんだけど。ワザとね」
「うわー!若旦那って、悪ガキだったんですね」
私の素直な感想に、若旦那は、気を悪くするでもなく、そうだね、と言った。
「それで、仁吉さん、やり遂げられた、とか?」
「うん、そう」
「わっ、スゴイ!」
「でもね、その日の晩から高熱を出して、寝込んでしまったんだ」
「あー、無茶ぶりが、祟ったんだ」
「正解!」
頷いてニッコリと笑みを浮かべる若旦那に、何の話?と思いつつ、エーッと返した。
「擦り傷だの、なんだの、あちこちケガしてたのを、放置していて、そこから炎症してしまったらしいんだ。だから、サクラさんも、小さいケガだからって、放っておいたらダメなんだよ」
「えっ、そこ」
急に話が戻り、驚きの声を上げると、若旦那は可笑しそうに笑った。
私を、気遣ってくれる若旦那。
その笑顔を見ていると、なんだか居心地の悪さを感じて、胸がギュウッと熱くなった。
「さ、できた」
「ありがとうございます」
少しやり過ぎなんじゃないかと思うくらい、両手に包帯が巻かれた。
「サクラさん、かんざしは?」
若旦那の視線が、耳元に注がれている。
「ここに、あります」
胸元に入れていた、かんざしを、そろりと取り出した。
「さっき、殴られそうになったとき、落としてしまって」
「は?」
急に室内の温度が、グッと下がった感じがした。
「えーッと、あの、どこも、壊れてませんよ」
「殴られそうになったって、若頭に?」
私の言葉が、聞こえていなかったのか、若旦那は被せるように聞いてきた。
その言い方は、性急で、少し焦った感じに見える。
でも、薄青い瞳は冷たく冴え冴えとしていて、ここだけ真冬になったような冷気を感じた。
「あー、でもでも、何も、なかったんですよ。危ういところで、なんか、パァッと白い光が目の前に広がって、そのお陰で、私、」
あれ?、と急にいろいろな事が頭に浮かんだ。
(そういえば、私って、会場から、あの部屋に突然移動したのよね。持ってた、花が関係してるっぽいけど。なのに、若旦那は、私の居場所、どうして、わかったんだろ?)
「やっぱり、なんか、あった?」
「いえ、あの、若旦那。若旦那は、どうして、私の居場所がわかったんですか?突然、いなくなりましたよね、私」
「今更だな」
クスッと、若旦那は表情を和ませた。
若旦那が、私の手の中のかんざしを取ると、かんざしの桜の意匠が、ぽうっと、ほのかに光った。
「光った」
「この、かんざしには、私の妖力を込めてあるんだ」
「え?」
「さっき、白い光と言っただろ。それは、君を守るための守護の力が、発動したんだ。そのお陰で、私も、サクラさんの居場所が分かったんだけど」
ポカンと、口が空いてしまった。
「すみません。ちょっと、頭がついていけなくて。えーっと、守護の力というのは、なんですか?」
「そのままの意味だよ。サクラさんを守る力。サクラさんに、危害を加えようとする者から、君を守るためのモノだよ」
「だから、あの時、若頭の手が弾かれたみたいになったんだ」
「やっぱり、何か、されたんだ」
スウッと目が細められるのと比例して、戻っていた空気が、また冷たくなる。
「ややや、だから、何も、なかったんですって。この、かんざしのお陰で、私、救われたんです。じゃないと、今頃、終わってたかも。絶対、見れない顔になってた。すごい希少なモノを、若旦那、ありがとうございます」
「イヤじゃ、ないの?」
私が頭を下げると、若旦那は戸惑うような複雑な表情を浮かべた。
「何が、ですか?」
「こんな、かんざしを、何も言わずに送られて」
「ぜんぜんです。だって、私のことを心配して送ってくださったんでしょう。本当に、若旦那は、優しいですね」
「えっ、あぁ、うん・・・・」
複雑な表情は変わらないけれど、釈然としないような顔になった。
そして、急に、真面目な顔で、私を見た。
ドキッとして、落ち着かなくて、胸がそわそわする。
つと、膝が触れ、近くなった距離に、私は離れようとソファの上でお尻をズラした。
でも、若旦那は逃がさないとばかりに、片手が伸びて来て、頬に触れた。
「わ、か、だんな」
「動かないで」
近づく顔に、体温が上がる。
顔を俯け、ぎゅーっと目をつむると、かんざしが耳元に差し込まれた。
目を開けると、蕩けるような笑みが目前にあった。
コン、コン
ノックがして若旦那が返事をすると、ホテルのスタッフがワゴンを押して入ってきた。
(あぁーっ、ぶなーっ。のまれるかと思った。ううん、半分、のまれてたっ!)
パタリと、ソファにうっ伏しそうになった。
上がった熱を下げたくて、額に、頬に、手をあてた。
「ありがとう。後は、こっちでやるから」
若旦那がそう言うと、スタッフはワゴンを置いて、部屋を出て行った。
早いとこ、ここから出よう、と思っていたら、ワゴンから、お腹を刺激する良い香りがしてきた。
見ると、スープにステーキ、サンドウィッチ、生ハムにサラダ、オニオンリングやフライ、キッシュまで、目移りするような、美味しそうな食べ物がぎっしり、のっかっていた。
「これは・・・」
「ルームサービスだよ。ここのホテルは、食事が美味しいんだ」
ここへ来る途中で、若旦那が話していたのを思い出した。
「食後には、フルーツもあるよ」
立ち上がった若旦那は、ジャン、とばかり、マンゴーやメロン、キウイ、イチゴなどが盛られたガラスの皿を、手をひらひらさせながら、見せてくれた。
「すごい!、・・・ッ」
私は、両手を打ち付けて、声をあげた。
けれど、叩いた瞬間、痛くて目をつぶってしまった。
包帯を巻いているけれど、強い刺激には要注意、と思っていると、若旦那が、私の座るソファの隣にきて座った。
(ナゼ、そっち?)
「動かしちゃダメだよ」
そっと包むように手に触れ、膝が触れ合い、秀麗な美しい横顔が目前に近づいた。
長い銀色のまつ毛に縁どられた、とろりと艶めく薄青い瞳から流し目が送られ、私は、ビックリして、ひっくり返りそうになった。
(ナニ、その、妖しい目は!)
本人は知ってやっているのかどうなのか、わからないけれど、とんでもなく艶っぽい色気が滲んでいる。
「両手とも、ひどく腫れているから。今日は、もう使わない方がいい」
私は、色香にあてられ、呆然と頷くしかない。
それから若旦那は、ワゴンから次々と皿をテーブルの上に移動して、置いていく。
流石に、座ったままはもどかしく、私も手伝おうとしたら、
「サクラさんは、座ってて」
やんわりと断られてしまった。
少しして、
「んー、全部は、テーブルにのらないか。行儀が悪いけど、食べながら移動しよう」
若旦那が銀のトレーに皿をのせながら、困惑して言った。
そこそこ大きなテーブルなのに、全て、皿で埋め尽くされている。
それでも、のらないなんて、2人なのに、どれだけ頼んだのだろう。
「とりあえず、食べようか。サクラさん」
当然のように、また私の隣に座る、若旦那。
さっき感じた居心地の悪さが蘇ってきて、視線が彷徨う。
「頼み過ぎなんじゃ、ないですか?」
「そうかも。でも、大野様持ち、だから、大丈夫だよ」
エッと思って、振り向くと、悪だくみするような、悪戯っぽい笑みを浮かべている、若旦那。
そして、にっこりと笑った。
「はい、あーん」
「へ?」
トンと口に、とろみのある液体を感じた。
食欲をそそる甘いコーンの香りが、ふんわりと立ちのぼる。
「あ、の」
「あーん、して」
蕩けるように甘く、でも、少し妖しさを含んだ笑みが、私を見つめる。
口を開くと、するりとスプーンが口の中に入ってきて、私はスープを零さないように舐め取るように啜った。
「美味しい?」
甘ったるい、色めくような笑みを向けられ、ますます居心地が悪くなる。
「若旦那。私、自分で食べれます」
「ダメだよ。手が、使えないんだから」
「大丈夫です。スプーンを持つくらい。イッ、タ」
カトラリーケースの中から、スプーンを取り出そうとして、指を曲げるとビリッと痛みが走った。
「ほら。手は、大事にしなくちゃ」
「でも」
もじもじしていると、
「ん?」
(イヤーッ、その流し目ー)
柔らかく細められた、甘く緩んだ薄青い瞳が、見つめてくる。
「は、恥ず、かしくて」
言ってる自分が恥ずかし過ぎるわ、とツッコミを入れたくなる。
一瞬、キョトンとした、若旦那は、クスクス、と小さく笑った。
「2人しか、いないよ」
(だから、それが恥ずかしいんですって)
そう思うのに、にこりと口角を上げて、とても楽しそうに笑う顔を見ていると、何も言えなくなってしまう。
結局、親鳥からエサをもらう子鳥ように、食べさせてもらってしまった。
おまけに、私が食べた同じスプーンやフォークで若旦那も食事をするので、もう、もう、恥ずかしさマックスで、ずっと顔は火照りっぱなし。
そんな私を、
「サクラさんは、可愛いな」
なんて、ななななんてー、言うもんだから、顔から火が出るかと思った。
最初はドキドキの緊張で、途中はメチャクチャ最悪で、でも最後は、恥ずかしかったけど、すごく楽しい時間だった。
若菜会も途中で抜けた形になってしまったから、気になって若旦那に聞いてみたら、
「無事に終わったよ」
と短く返されただけ。
本当だろうか、と思ったけれど、浮かべる薄いその笑みからは、不穏な感じしかしなかった。
食事をゆっくりと堪能し、ホテルを出る頃には夕暮れ近くなっていた。
暮れ行く空に、
(あぁ、早く帰らなくちゃ)
そんな焦燥の思いが、胸を締めつける。
「遅くなってしまったね」
「はい・・・」
私を見下ろす、若旦那の目が青い光を宿す。
分かっていることなのに、胸がすっと冷たくなっていくのを感じる。
「帰ろう」
優しい笑みが私に降り注ぐ。
(これが、現実。どんなに、優しくされても。どんなに、気持ちが揺れても。私と若旦那は、相容れない者同士、なんだ・・・)
ズキッ、と胸に痛みが走った。
だけど、若旦那が妖だったから、私は助けてもらえた。
それも、現実。
こうして、何事もなく、歩いていられるのは、若旦那のお陰なんだ。
じゃなかったら、今頃、私は。
ゾッ、と背筋が寒くなった。
「サクラさん?」
優しい笑みが、私を気遣う表情に変わった。
私の、こんな機微にも気づいてくれる、こんな優しい人が相容れない相手だなんて。
なんて、滑稽な話だろう。
「はい、帰りましょうか」
涙が滲みそうになるのを、笑顔を浮かべて、誤魔化した。




