第9話:交差する思惑 / Sich kreuzende Absichten
グラウエン公国首都、リヒターハーフェン。
平均にして約70階建ての高層ビルがその背を競い合うように立ち並ぶ中でも、軍務局局舎ビルであるアイゼンベルクは、まさに群を抜く高さを誇る超高層ビルの一つだ。
ヘレーネはそのビルの最上階から、雨の降りしきる首都の夜景を見下ろしていた。
立ち込める靄と蒸気から、ガラス張りの塔の群れがその頭を覗かせる。
ビルの明かりやネオンサイン、高級車ブランドのホログラム、9,000ニトのビジョン広告の冷たい光が、街を覆う白い雨の煙に乱反射する様は、まるで光の海に沈みゆくような光景だった。
「やあ、ヘレーネ叔母さん。珍しいじゃないか、訪ねて来るなんて」
奥のオートマチックドアが開く音が聞こえ、男性の声が親しげにヘレーネを呼んだ。
「なに。大した用事ではない、ヘルベルト」
首都の明かりが差し込む薄闇のオフィスに、軍務局長官ヘルベルト=フォン=ヴァルクライネが、車椅子に乗せた姿を現す。
ヘレーネにとっては名目上の上官ではあるが、姪婿と言う関係性の方が長い。
ヘルベルトは、肘掛けについてあるスティックを倒して、車椅子をヘレーネの隣へ移動させた。
脚に不自由を抱えているだけでなく体質的にも頑丈とは言えず、運動を制限される生活のためかヘルベルトはその高い背丈に対してやや痩せ型だった。
それでも、豊かな顎髭を蓄え年相応に皺を刻み始めたその相貌や、広い肩幅と長い手足でシャドーストライプのダークスーツを着こなす姿には、文民職として軍を統制するという、公国における最高権限の一つを担う公人としての威厳が漂う。
しかし、その雰囲気や肩書きとは裏腹に、彼の言動は物腰柔らかく気品あるものだ。
「分かってるよ、リディアのことだろう?」
ヘルベルトはそう言って、車椅子の背もたれに深く背中を預けながら、肘掛けに乗せた手を腹の前で重ねた。
「〈ベアラー〉になったそうじゃないか」
「他人事だな、お前の娘だろう」
「あの子の人生はあの子のものさ。もう18なんだ」
「まだ18だ」
「相変わらず過保護だな、ヘレーネ叔母さんは」
そう言ってヘルベルトの向けて来る視線は、生意気を言うときのリディアの目つきにそっくりだった。
「公国の貴族なら、みんな15には人生を決める。あの子の生き方は、あなたが導いたものだろう?」
「そうだ。私のような者が母親の代わりを務めたが故にな」
「それでも、アウラの代わりがあなたでよかったと、あの子はそう思っているはずだ。そして、僕も」
リディアの母、アウラは彼女を産んですぐ病床に伏し、間も無くリディアの元を永遠に旅立ってしまった。
まだ幼過ぎたリディアには、母親の死を理解することもできなければ、母親との温かな記憶を育む時間もなかった。
使用人が子守を務めたところで、娘に人生を授けるのはやはり母親の務めだ、その代わりとなったのが、叔母でありながらアウラと歳の近かった自分だったのだ。
いや、見るに耐えかねて手を差し伸べてしまった、と言うべきかも知れない。
妹同然に思っていた姪子の娘が、自らを痛めつけるような真似をしてまで力を求める姿に。
ヘレーネは白い軍服の上から、下腹部を撫でた。
その下には、ヘレーネが女の人生を捨て、武人として生きることを決断するに至った古い傷痕がある。
「叙任式での決闘も、あなたが根回ししたことだろう?」
貴族達には、女の〈ベアラー〉を認めないと言う連中が多くいた。
慣習や伝統、あるいはヴァルクライネ家をやっかむ連中によるパワーゲーム、そうした事情で、リディアとニーナを、〈エレナント〉と〈ベアラー〉としては排斥しようとする主張がそこかしこで火を着きそうになっていた。
「アーマギア込みであっても、私を打倒できるならば公国にとって戦力になる。そう提案したまでだ。帝国との軋轢が増す今の情勢下なら、当然の判断をしたに過ぎん」
「そういうことにしておくよ。あの子は勝てるのかい、白雷に」
「さあな、手加減してやるつもりもない。なんであれ、拳を下さなければいい」
そう言うと、ヘルベルトは「厳しいね」と笑った。
「やっぱり、僕は武人には向いてないな。……用件はリディアのことだけだったのかい」
「いや、もう一つある。アレはどうなった」
ヘレーネがそう尋ねると、ヘルベルトは車椅子の上で姿勢を直し、神妙な面持ちを浮かべた。
「警務局に引き渡したきり、音沙汰はない。副総監のリリエンタール男爵は若いが、信頼に足る人物だ。我々に何かを隠すようなことはしないだろう」
「問題は市井のほうだ」
「情報局には圧力をかけてる、アレについては現場にいた者と一部の高官しか知らないし、箝口令も敷いてある。とは言え、漏れ出すのは時間の問題だろうね」
唸るような声を漏らして、ヘルベルトは顎髭を撫でる。
「ここ最近で活動の報告されているギャングや、難民グループに紛れた怪しい連中の仕業でもないのは、間違いないんだけどね」
「いずれにせよ、背後には帝国の影がある訳だな」
「元老院でもこの件はかなりデリケートな問題になってる。嫌になるね、大公戦が公示された、このタイミングで……」
目を細めるヘルベルトが、雨に濡れるリヒターハーフェンに視線を投げた。
雨足は強く、まだしばらくは荒れそうだった。
「それではお嬢様、良い夜を」
「ありがとうございます、コンラート」
慇懃なお辞儀を残してコンラートの乗り込んだ黒いセダン車が、雨の中を走り去るのを見送り、濡れた大理石の階段を上がる。
ニーナはソワレの会場にいた。
契約後、初めて出席する社交会だ、いつも以上に注目を集めているのは、当然、気のせいではないだろう。
これまでは、嫌になるほどの冷たい視線や不審な眼差し、あるいは無関心の中に放り込まれたように感じていたが、今自分に向けられているのは、困惑と好奇の目。
居心地の良いものでないのは変わりないが、以前ほど、自分を惨めに思う気持ちはなくなっていた。
それに、〈ベアラー〉の座を狙う子息達からやたらめったらと声をかけられることもない。
「リディアさん……いるかな」
例によって、父は公務で欠席。
今夜の主催はヴェステンラウ家ではないため、エレオノーラに出くわしてもそれほど気を遣う必要はないが、先日のこともあってできれば会いたくはない。
ドレスの裾を揺らし、リディアを探して視線を泳がせながら、とりあえず、いつもの癖で隅のほうを目指す。
「落ち着かないな。セラフィーナがいてくれたら……」
今夜のソワレは、初めてニーナひとりでの出席となった。
両親の不在を代わって同伴してくれるセラフィーナも今日に限っては、いや、これからはいない。
〈ベアラー〉を選んだ〈エレナント〉ならば、社交会でのエスコートは無論、〈ベアラー〉に務めさせるべき、掻い摘めばそのようなことを出発前にセラフィーナから言われて頭を下げられた。
飲み物を配る使用人の男性をどうにか呼び止めることに成功して、手に入れたアプフェルショーレで喉を潤す。
水分を欲するのは、心細さのもたらす緊張感のせいだ。
「リリエンタール男爵の娘は〈ベアラー〉を選んだそうじゃないか」
グラスを傾けながらリディアを待つ間、そんな声が聞こえてきた。
こういった場では、無意識に聞き耳を立てることがすっかり身に付いてしまっていて、と言うより、騒がしさの中から自分を話題にしている声を取捨選択することが、知らない内にできるようになってしまっていた。
他の声も聞こえてくる。
「相手は、あの〈鉄拳令嬢〉だそうだ」
「まさか……あの娘を?」
「女どうしですって?よりにもよって……」
「認められるのかね、そのような……」
「ヘレーネ殿が、叙任式で直々に実力を見極めるそうだ」
「白雷みずから?彼女はあの娘の身内も同然だろう」
「ヘレーネ様に限って、わざと負けるような真似をなさるとは思いませんけれど……」
口々に語られる話は皆、概ね予想できたような内容だった。
警務局での公務が忙しいのか、父も母も、ここ最近は家ですら見かけることがない。
これだけ話が広まっているのなら既に両親の耳に入っているのだろうが、自分の口から直接、報告をしておきたかった。
「失礼、お待たせしてしまったかしら」
待ち侘びた声が聞こえて、振り返る。
深紅のパンツスーツに身を包んだリディアが、ニーナの前に現れた。
「いいえ、リディアさん」
「今夜のドレスも、よくお似合いですわ。ニーナさん」
そう言って微笑んでくれるリディア。
数日前までは、同じ貴族派閥の娘どうしとして、たまに言葉を交わすことがあるだけの、そんな関係だった。
優柔不断な自分とは正反対に、凛々しく堂々とした彼女を、どこか住む世界の違うひとなのだと、ニーナはそう思っていた。
それが今は、〈ベアラー〉として自分の目の前にいる。
不思議な感覚だった。
「見ろ、噂をすれば」
また声が聞こえてくる。
「しかし、あれだけ拒んでいたものを、なぜあの娘はわざわざヴァルクライネの娘を……」
「噂では、ヴェステンラウ家の長女が関係してるそうだが」
「まあ、エレオノーラさんが?」
あの件は結局、駆けつけたヘレーネが表沙汰にならないよう取り計らったこともあって、詳細は誰にも語られないままとなった。
ただ、人の口に戸を立てることはできないものだ。
リディアが姿を見せたことで、ソワレには一気にふたりの話が広まった。
関与の疑われるエレオノーラについても、憶測の声が飛び交うようだったが、それが不意に、静まり返る。
「ニーナさん」
条件反射的に、背筋が強張る。
呼ばれたほうを恐る恐る振り返ると、傍らにジークフリートを連れたエレオノーラ本人が、不機嫌そうな顔でこちらを見つめて立っていた。
「あ、ご……っ、ごきげんよう……エレオノーラさん」
「呑気な挨拶なんていらないわ」
「……っ」
いつも以上に刺々しいエレオノーラ、彼女が半歩ほど詰め寄ったのを見て、リディアが庇うようにニーナの前に身を乗り出す。
「ナイトのつもりかしら、女の〈ベアラー〉が」
「ここは社交会の場ですわ、ヴェステンラウ嬢。腹に据えかねているのは承知していますが、無用な争いを引き起こすおつもりなら、お招きくださった貴族御当主様のお顔に泥を塗ることになります」
「あなたが出しゃばらなければ争いなんて起きないわ。……退きなさい。私はあなたの〈エレナント〉に用があるのよ」
リディアはしばし、その本意を見定めるようにエレオノーラを睨んだが、やがてニーナの後ろへ下がった。
水を打ったように静まり返るソワレ、貴族達の囁き声が僅かに聞こえる中、エレオノーラはニーナに歩み寄る。
「先日のことを謝るつもりなんてないわ」
そう切り出したエレオノーラの言葉に、波紋が広がるように会場がまた少し騒めき立つ。
それを歯牙にかける様子もなく、彼女は険しい表情のまま、続けた。
「でもあなたは、あの場で、その女を〈ベアラー〉に選んだ」
「……」
「あのまま逃げてしまってよかったものを、あなたは選んだのよ、私に立ち向かうことを。貴族の娘として、〈エレナント〉として、使命と向き合う覚悟を持った……そういうことかしら」
「それは……」
分からない。
ただ、このままでいるのが嫌だと、その思いに突き動かされただけだ。
そう思えたのは、そして、それを契約の口づけという行動に示すことができたのは、ひとえにリディアがいたからだ。
リディアでなければ、自分の心が奮えることはなかった。
それだけは、はっきりと分かる。
「……っ」
エレオノーラの視線は鋭い。
しかし、いま彼女の瞳が向けるのは、ニーナを嫌悪し、軽蔑するような眼差しではない。
エレオノーラを苦手に思う気持ちが消えた訳ではないが、それでも、ニーナの心は逃げたくないと叫んだ。
震える手で胸元のブローチを握り締める。
リディアの拳に守られるだけではない、自分の足で立ち、向き合う強さを、求められているのだ。
「……分かりません」
喉につかえる言葉を引き摺り出すように、ニーナは声を絞り出す。
「でも、この契約に……、私の選んだ〈ベアラー〉に……!恥じない私になりたいと、そう思っています……」
それが、エレオノーラの求める言葉でないのも分かってはいた。
けれどこれこそが、今のニーナが抱く、見栄も偽りもない、ほんとうの想いに他ならなかった。
エレオノーラが目を伏せる、そのまま踵を返すと、去り際、こう残した。
「叙任式を勝ちなさい。その後、派閥長戦であなたの思い上がりを叩きのめしてあげるわ」
ジークフリートを連れ立って、エレオノーラはニーナの前を立ち去る。
プラチナブロンドの髪が揺れるその背中が貴族達の中に見えなくなるのを見届けて、緊張の糸が解けたニーナは堪らずよろめいた。
「見事でしたわ」
抱き寄せるように支えてくれたリディアが、そう言って満足気な笑みをくれた。
「よかったんでしょうか……あれで」
リディアの腕の中に身を預け、エレオノーラの去って行ったほうを見つめる。
「エレオノーラさんは、ただ意地の悪いだけの方ではありませんわ」
リディアの言わんとすることは、ニーナだって分かってはいるつもりだ。
「……次は、私の番ですわね」
彼女の師であるヘレーネとの一騎打ち。
叙任式は、数日後に迫っていた。




