第8話:白雷の試練 / Prüfung des weißen Blitzes
「……他人の趣向をどうこう言う気はないが、場所と時間は弁えたらどうだ」
胸の下で腕を組むヘレーネは、そう言ってトレーニングルームの中へ入ってきた。
「あら。おはようございます、おばさま」
「おはようございます、ヘレーネ様」
恭しく頭を下げるニーナ。
リディアは特に作法もなく、挨拶の言葉だけヘレーネに投げた。
「そう畏まる必要はない、リリエンタールの娘。貴族の出というだけで、私はただの軍人だ」
「えっと……、わかりました」
ヘレーネはそう言いながら、ふたりの脇を通り過ぎて真っ直ぐに壁にかけてあるグローブのほうへ向かった。
「おばさま?」
「〈エレナント〉と〈ベアラー〉の仲が良いのは結構だ。絆が強ければ強いほど、それがお互いにとって最高の力になる」
羽織っていた白の外套を壁のハンガーに吊るして、グローブを装着するヘレーネ。
指を出すタイプのもので、ナックルパートに分厚いパッドが入っている練習用のパウンドグローブだ、彼女は指を開いたり閉じたりして、拳の握り具合を確かめる。
「だが少々、その立場を軽んじているようだな。契約を惚れた腫れたで考えているなら、喝を入れてやる必要がある」
「……えっ」
何やら不穏なことを口にする軍務局中将殿に、ニーナは困惑して思わず声を漏らした。
そんなニーナを他所に、ヘレーネは壁にかけてあったもう一双のグローブを取って、リディアへ放り投げる。
それを受け止めたリディアは、わざとらしく大きめの溜息を吐いて見せた。
「そのように見えまして?」
「さあな。少しスパーに付き合え、体を動かしたい気分なんだ」
「姪孫をサンドバッグになさるおつもりかしら」
「そうなるかはお前次第だ」
ヘレーネが靴を脱いで中央のリングマットに上がり、リディアへ上がれとジェスチャーする。
渋々という様子でグローブを手にはめて、リディアもリングへ上がった。
少し離れたところから、ニーナはふたりの様子を見守る。
リングの上でリディアと向かい合ったヘレーネは、彼女に言った。
「いいかリディア、お前の実力は本物だ。それはこの私が保証しよう。……だが女のお前にとって、浮ついた覚悟で務まるほど〈ベアラー〉という立場は甘くないぞ」
「お説教なら___間に合ってますわ!」
リディアが踏み込み、鋭いフックを繰り出した。
しかし、ニーナに見えたのはやはり、リディアが拳を打ち出すために踏み込んだ瞬間と、振り抜いた後。
その素早い一打を、ヘレーネはスウェーバックで回避、強力なクロスを放つ。
「……ッ!」
反射的に、ニーナの体に緊張が走った。
ヘレーネの鋭いカウンターが、リディアを捉えたと思ったからだ。
しかし、リディアは上体を沈み込ませるようにしてそれを躱す。
ヘレーネの反撃を読んでいたとしか思えないタイミングだ、そして起き上がりに合わせ、ボディブローを打ち出す。
拳を食らったヘレーネの体が、僅かにくの字に折れる。
衝撃を逃がすようにバックステップ、離れ際にヘレーネの置いた拳の牽制をリディアがスウェー。
互いに一旦距離を取る。
「悪くないパンチだ」
レバーにまともに一発もらっておきながら、ヘレーネは顔色一つ変えずに言った。
リディアはトレーニング後の体であるが、ヘレーネについては準備運動なくいきなり始めている。
ようやく肩や首、足首を軽く動かしながら、再び構えを取った。
「……まあまあ本気でぶん殴りましたのよ?」
「さあ、これからだ」
リングのキャンバスを踏みしめる音と、グローブのパッドがヒットする音が、トレーニングルームに響く。
拳と拳の一進一退、パンチを打ち出し、躱し、ガードして、反撃。
ふたりの長い黒髪が、踊るように揺れる。
(すごい……どっちの拳も、見えない……)
ヘレーネの主たる得物は先日見たあの巨大なハルバードだが、リディアを相手に、彼女は一歩も遅れを取らない。
あのジークフリートが、ヘレーネを前に怯えたようにすら萎縮していた理由を、ニーナは今目の当たりにしていた。
リディアの拳の師が、ヘレーネであるということも納得の打ち合いだ。
「!」
拳は激しく交差しているが、状況は膠着気味、それを動かしたのはヘレーネの放った右ストレートだった。
ギリギリまで引き付けアウト側へ避けるリディア、ヘレーネの拳のラインに沿うようなフックを打ち出す。
それを更にヘレーネがスウェーバック、鼻先を掠める距離でパンチを見切って、再び強烈なクロス。
先ほど見たばかりの構図だった、ニーナの予想通り、リディアはそのカウンターをダッキング、同じように、起き上がりと同時にヘレーネへボディブローを叩き込む。
「ッ!?」
今度は、リディアが緊張を走らせる番だった。
ヘレーネの胴体に拳がめり込む、しかし、彼女は踏ん張ってそれを受け切った。
テクニックも何もない至ってシンプルなタフネス、抉るような角度のパンチを肉体強度だけで耐えられたことに、リディアの体が一瞬硬直する。
そして、ヘレーネが上体を引き絞る。
初撃の応酬で、リディアにこれが有効打であると思わせ、ヘレーネは、はなからこの瞬間を狙っていたのだ。
拳が振り下ろされる。
雷霆の如き一撃が、リディアの側頭部を穿った。
「……っ、リディアさん!」
よろめくように、リディアが後ずさった。
すぐさま反撃できる様子ではなかったが、あれでノックアウトされなかっただけでもニーナからすればとんでもない打たれ強さだ。
「……手加減は、無しかしら。おばさま」
グローブに包まれた手で額を抑え、俯いて頭を振るリディア。
「したからお前はまだ立っていられる」
ヘレーネがそう言った。
リディアのブローなどまるでダメージに入っていないかのような素振りだ。
「お前が力を欲した理由を、私は、わざわざ聞きはしなかったな。大人になれば子どもの考えくらい分かるものだ。だがな、リディア。お前が血が滲むほどの鍛錬の上に手にした力は、誰の為のものだ」
「……」
「そう、お前だけの力だ。お前の、至極個人的で、極めて身勝手な暴力でしかない。〈ベアラー〉として、その力で公国を背負うことができるのか?」
ヘレーネが真っ直ぐにリディアを見つめる。
「お前の拳にはあるのか、その重さに耐えられるだけの強さが」
「……そんな説教を聞かせるために、ひとのプライドをへし折りにいらしたんですのね。わざわざ当たる瞬間に拳を引くような真似までして」
「なんだ、ちゃんと加減したことを分かっているじゃないか」
「一撃で仕留めてもらったほうがマシだと言ったんですのよ」
それほどまでに、実力差があるということだからだ。
「姪孫の自尊心のためだ。今日の指導はここまでにしてやる」
「私はまだ殴り足りませんわよ」
「なら、それは叙任式まで取っておけ」
グローブを外し、リングを降りるヘレーネ。
やれやれと首を振るリディアが、倣ってリングマットから降りてくる。
素人目線では、到底ヘレーネが手加減したようには見えなかったが、少なくともニーナが見る限り、パンチをもらったリディアの頭部に傷などはなさそうだった。
ニーナは駆け寄って軽く支えてみたものの、リディアの背が高過ぎてしがみついているようにしかならなかった。
「だ、だいじょうぶですか……リディアさん」
「ええ、まあ……」
外傷こそないが、衝撃はしっかり頭を貫いたのか、グローブを外したリディアはまた何度か頭を振った。
「数分もすれば治る。心配することはない、リリエンタールの娘」
「……その呼び方は改めていただけますか?おばさま」
「名を覚えて欲しければ、結果を示すことだ」
グローブを元の位置に戻して、ヘレーネはハンガーから外套を取って羽織ると、ニーナとリディアへ向き直る。
「叙任式は知っているだろう」
「はい」
叙任式と言うのは、〈エレナント〉が選んだ男子を〈ベアラー〉として正式に任命する式典のようなものだ。
口づけによって交わされる〈エレナント〉と〈ベアラー〉の契約は、伝統的には婚姻とも見なされているため、叙任式はそのままふたりの婚儀も兼ねている。
別には契式とも言われており、規模としては小さいものの、派閥内外の貴族たちが招かれ皆が正礼装で臨む、公国においては最も格式高い式典のひとつだ。
「本来ならば、ただ堅苦しいだけの式を執り行って終わりなのだが……、女のお前が〈ベアラー〉になったとあって、色々と声を上げる連中がいるらしい」
〈ベアラー〉は男が担うもの。
それは、女が〈ベアラー〉になれないという意味ではないのだが、〈エレナント〉がグラウエン公国のごく一部の女性にしか発現しない力であることや、口づけによって契約を成立させるという方法、そして〈ベアラー〉の役割を考えたとき、男性が選ばれるべきが当然とされたのだろう。
実際、そうした暗に黙された常識や価値観は、この公国に大きく横たわるように根付いている。
「故に、今回のお前の叙任式に限り、その適性を試験するそうだ」
「……試験、ですか?」
ニーナは思わず聞き返した。
「叙任式の場にて、この私を倒せ」
「取っておけ、と言ったのはそう意味でしたのね……」
「そうだ。私を倒すことができなければ、お前たちは公国における〈エレナント〉と〈ベアラー〉の頭数には入らない。言っておくが、こんなことは例外中の例外だ」
叙任式での、リディアとヘレーネの一騎討ち。
それを伝えることが、今日ここへわざわざ彼女が足を運んだ本当の用向きだったのだろう。
「式は一週間後だ」
戸口のほうへ向かうヘレーネは、ニーナとリディアの横を通り過ぎると、足を止めて肩越しに少し振り返った。
「……公平だとは、思っていない。一度交わした契りは死ぬまで、いや、死んでも互いを縛る呪いだ。前に進む以外に、お前達に道は残されていないぞ」
「……」
「詳細はまた、追って連絡が入るはずだ。拳を磨いておけ、リディア。それから、リリエンタールの娘」
「はい」
ヘレーネは顔を向けることなく、こう続けた。
「お前は見る目がある」
「え……?」
そう言い残して、建物を出て行くヘレーネの背中を、ニーナは呆然と見送った。
傍らに立っていたリディアが、ヘレーネの残した言葉に肩を竦めて見せる。
具合はもう良さそうだった。
「あの白雷が、随分と弟子バカになったものですわね。歳をとるとああなるのかしら」
「えっと、それって……」
ニーナは言いかけたが、皆まで言うのも無粋な気がして、続きの言葉は喉の奥にしまったままにした。
「さて、授業に遅れてしまいますわ」
「あ、もうそんな時間」
時計を見て気づく。
ここは学院の最果てだ、一時限目の講義に間に合わせるならもうすぐ向かい始めなければならない。
グローブを壁に戻したリディアが、隅にあるロッカーを開く。
中には着替えのトレーニングウェアやシューズ、テーピングや制汗スプレーなどが雑多に詰め込まれていて、鞄や吊るした制服も見えた。
「いいんですか、リディアさん」
「おばさまとの決闘のことですの?」
「はい……」
「言いましたでしょう?私を選んだことが間違いでないと証明すると。ちょうどいい機会ですわ」
そう言って彼女は笑って見せたが、こんなことになるなど思ってもいなかったニーナは、複雑な心境だった。
結局はリディアを損な役回りにしてしまっただけなのではと、心はまた少し重たくなる。
胸元のブローチを無意識に弄んで突っ立っていたニーナだが、不意に、リディアに呼ばれて顔を上げた。
彼女の、どこか悪戯っぽい視線と目が合った。
「着替えてから向かいますけれど、ご覧になって行きますか?」
ニーナは顔を真っ赤にしながら慌てて飛び出して行った。




