第7話:傷痕の鉄拳 / Die eiserne Faust der Narben
契約を交わしたあの夜から二日ほど経って、学院の朝。
リディア=フォン=ヴァルクライネは、学院敷地の端にある古い建物を勝手に改造したトレーニングルームで、サンドバッグに拳を打ちつけていた。
あの夜、ニーナは〈エレナント〉の力を使った疲労で卒倒し、そのまま病院へと運び込まれた。
以降、要安静とのことで、学院には登校できていない。
見舞いには、行かなかった。
入学以前からニーナのことは話に聞いていたし、入学後は気にかけていた娘ではある。
それは、〈エレナント〉であるという意味においては自分と真反対の存在でありながらも、どこか彼女が、自分と似た境遇に思えてならなかったからだ。
とは言え、それほど親しい間柄だった訳でもない。
〈ベアラー〉に選ばれたからと言って、突然親密な態度になるというのも、何か違う気がした。
当然、身を案じていない訳ではない。
サンドバッグがワン・ツーのリズムを刻む。
小さい頃はよく木や壁を殴っては拳から血を流して怒られた。
あの頃は、自分の中の苛立ちをぶつける相手が、ただ欲しかった。
没落のヴァルクライネ___などという汚名を着せられた貴族の家に生まれ、そして、自分もまた〈エレナント〉には選ばれなかった。
取るに足らぬ家系であったならば、きっと自分がこれまで抱いたような苦悩はなかったことだろう、しかし、ヴァルクライネ家はそうではない。
かつては数多の〈エレナント〉を輩出し、派閥の長として、そして、公国においても相当の影響力を持つ侯爵家として名を馳せた貴族だ。
しかし、ヴァルクライネ家はその血筋から〈エレナント〉がいなくなったことで、派閥長の座を退き、一時は爵位すら剥奪されかけたという。
当時の家長のはたらきによって降爵に留まったものの、いつの時代からか没落の烙印と共に嘲られるようになった。
それは、リディアが生まれるよりもずっと昔のことだ。
直系の血筋を引く母はリディアを産んですぐ死んでしまった、病気だったそうだ。
父や、大叔母のヘレーネをはじめ、個人で見れば皆それなりの力を持つが、家柄で見た時、〈エレナント〉を欠いたヴァルクライネ家は失墜したも同義。
そしてその家にただの娘として生まれた自分もまた、そうした理不尽な冷笑に散々と言うほど晒されてきた。
悔しくて立ち向かったことは何度もあった。
闘い方も分からない子どもの自分は、ただただ暴れた。
そうしたところで何も得はしなかったが、その時に分かったこともある。
何かを貫き通すためには、力を持たなければならないと。
有無を言わさせない力を。
誰にも、自分を侮らせる事のない力を。
リディアに、この貴族世界で正しく女として生きる方法を教えてくれるべきひとは、とっくにこの世を去っている。
だから自分自身で導き出さなければならなかった。
自分の___生き方を。
そしてそれは、今だって変わらない。
気に喰わない奴らを片っ端から叩きのめして、この拳は〈鉄拳〉と畏れられるまでになった。
けれど、分かっている。
どれほど鍛錬を積もうが、自分の拳など未だ、ただの喧嘩道具でしかないのだと。
「……ッ」
拳のリズムが早くなる。
サンドバッグを吊るす鎖が、悲鳴のような耳障りな音を立てる。
『いいか、リディア。一度拳を掲げたのなら、最後まで下ろすんじゃない。例え、自分が誤った立場にいたとしてもだ』
胸の中に、師と仰ぐひとの言葉がずっと鳴り響いていた。
『それが、闘うことを決めた者の、ただひとつの覚悟だ___』
踏み込んで、拳を振り抜く。
耐えきれなくなった鎖が音を上げて千切れ、破れたサンドバッグが砂を撒き散らしながら吹き飛んでいった。
「はぁ、はぁ……ッ」
一面砂まみれになった床を見下ろして、肩で大きく息を吐く。
「……掃除が、面倒ですわね」
汗で頬に張り付く前髪をかき上げる。
また一つ大きなため息を吐いて、裂けたサンドバッグの残骸を持ち上げる。
中の砂を全て撒き切ってから隅の方へ退けて、リディアは立てかけてあった箒と塵取りを手に持った。
ニーナは深呼吸した。
目の前には、今朝まで存在すら知らなかったリディアのトレーニングルームだという古びた建物の扉がある。
「ぅ……、ふぅ」
妙に浮き足立つような気持ちを持て余してしまって、胃の中から何かが込み上げそうになる。
たぶん、今朝の朝食だ。
はじめて使った力の疲労で倒れ、目が覚めた病室にて医者から要安静を言いつけられたのが、二日ほど前。
ほとんど軟禁状態のなか、顔を合わせたのはセラフィーナのみ。
そのセラフィーナも、ニーナが〈ベアラー〉を選んだと聞いて、少しだけ、態度を変えたように見えた。
「……だいじょうぶ。いつも通り、いつも通り」
リディアに会うのは、契約を交わしたあの夜以来だ。
彼女を選んだことに後悔などありはしないが、ただ、我ながら思い切った決断をしたものだと冷静になった頭で思う。
あの時のことを思い出すと、唇に、リディアとの口づけの感触が蘇ってきて、頭が沸騰しそうになる。
ブローチを握り締め、もう一度深呼吸。
「ふぅ」
ドアの取っ手を掴んで、手前に引いた。
嫌に重たく感じる扉だった。
「あら?」
箒と塵取りを持ったリディアが、建て付けの古くなった音に気づいてこちらを見た。
リディアはスポーツブラにレギンスというトレーニングウェアで、長い前髪や白い首筋、引き締まった腹筋は汗に濡れている。
その姿を目にした瞬間、ニーナは息を呑んだ。
均整のとれた肉体美と、凛とした佇まい、どこか人間離れした彼女の様子に、しばし目を奪われてしまった。
「あ、お……おはようございます、リディアさん」
「おはよう、ニーナさん。体のほうは、もうよろしいのかしら?」
掃除をしていたところだったのか、リディアは砂埃で少し白くなった箒と塵取りを隅に片付けると壁のハンガーに吊るしてあったフェイスタオルを取った。
「はい、すっかり……」
「そう、よかったですわ。こちらにはどうして?」
「第四学年の先輩方に、お聞きして……」
ニーナがリディアを〈ベアラー〉に選んだという話は既に広まってしまっているのか、尋ねた先輩方には変な顔をされた。
「リディアさん。その……」
鞄を握りしめて、ニーナは項垂れる。
リディアには聞いておきたいことがあった、無論、自分の〈ベアラー〉となったことに、後悔がないかということだ。
彼女の答えなど、聞かずとも分かってはいるのだが、それでも、改めてリディアの口から聞きたい。
聞いて、安心したいという浅ましい考えを拭えなかった。
「そんなところに立っていないで、こちらにいらしたら?もてなせるような場所では、ありませんけれど」
リディアの言葉に従って、中の方へ入る。
ダンベルやベンチプレス、練習メニューを表示したタッチ式のモニタ、その他ニーナには見たこともないような器具が色々と並んでいて、中央には大きなリングマットまである。
「〈鉄拳令嬢〉……なんて呼ばれていても、所詮は人並みに鍛えて得た力に過ぎませんわ」
少し自嘲気味な声色でそう言いながら、リディアは拳のテーピングを剥がす。
露になった彼女の手の甲には、古い傷痕がたくさん残っているのが見えた。
「その手……」
「手袋が外せない理由、分かって頂けたかしら」
「……」
「小さい頃の傷ですわ。トレーニングなんて……呼べたものではなかったですが、物を殴ってみるくらいしか、強くなれる方法を知りませんでしたの」
リディアは拳に残る傷痕を撫でた。
「……」
それでも、何かを変えるためにリディアは闘ったのだ。
それは周りの目なのか、あるいは彼女自身だったのかは分からないが、彼女の手に残る傷痕のひとつひとつが物語るのは、気に入らないことを気に入らないまま受け入れないために、リディアが拳を以て闘うことを選んだ、揺るぎない覚悟だ。
「ニーナさん」
「……はい」
リディアが歩み寄る、しっとりとした甘やかな香りが、ふわりと鼻腔を満たした。
間近に迫ったリディアは、ニーナが思っているよりもずっと背が高くて、見上げたその瞳には、自分の考えなど見透かされているような気がした。
「誰かとあなたを比べる必要はありませんわ。時間をかけたかも知れない、けれど、じっくりと時間をかけて、あなたは踏み出した」
「……」
「私を、〈ベアラー〉に選んだ。それが間違いではなかったと……この拳が証明しますわ」
リディアが、傷痕だらけの拳を、ニーナの胸に置く。
彼女の触れた胸の奥に、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「……あの夜のキスは、一生忘れられないでしょうね」
「ブフッ!?」
「ふふ。そんな難しい顔をしないで、ニーナさん。可愛らしいお顔が台無しですわ」
「あの、その……」
抱えていた重たい感情は、いつの間にか消えていた。
「……はい」
そう返事をすると、リディアは柔らかな微笑みをくれた。
「さあ、授業に遅れますわ。準備をしますから、少し待って___」
リディアが離れようとしたその時、トレーニングルームのドアが再び開いた。
「……朝から、随分と熱いようだな」
視線を向ける。
タイトな白のジャンプスーツに外套を羽織った女性、ヘレーネが戸口に立っていて、密着するような距離感のニーナとリディアへ冷ややかな視線を向けていた。




