第19話:託された正義 / Die anvertraute Gerechtigkeit
グラウエン王立高等貴族学院。
列柱の支える大きなアーチ窓の廊下、そのベンチに座って中庭を眺めるニーナの膝には、先日セラフィーナと買ってきたリーベンシュタイン伯爵の著書があった。
リディアのアドバイスのおかげで、口頭試問は成績上々にパスした。
まだ具体的な結果を聞かされた訳ではないが、この本からフレーズの引用が叶った瞬間、伯爵の反応が異様に良くなった、と言うか明らかに機嫌が良くなった。
「勉強熱心な君には好成績を与えよう!」
とまで言われた、リップサービスや嫌味を言う教授ではないので、おそらくその通りになるだろう。
しかし、こうしてニーナがここでぼんやりしているのは、何も、無難に試験を終えられて気が抜けてしまっているからではない。
授業の空きコマに中庭で談笑する生徒を遠くから眺めたまま、膝に乗せた重たい本のハードカバーの角を指先で弄ぶ。
低迷する思考の中、聞き慣れた声が聞こえた。
「大公戦参加者は、こんなところで油を売っているのかしら」
少し遅れて顔を上げた、その声に怯えていた事が、今ではもはや遠い昔のようだ。
「エレオノーラさん」
「ご機嫌よう、ニーナ」
ハーフツインに結い上げたプラチナブロンドの髪を揺らして、教材を抱えたエレオノーラは隣に腰を下ろした。
「それで?なにを惚けていたのかしら」
「いえ、その……対戦カードが、公開になって……」
「見たわ。クラーラ様とフェリックス様のペアだったわね」
頷く。
「どうかしたのかしら」
制服のロングスカートの下で膝を組むエレオノーラ、少し踵の高いローファーと、黒のストッキングに包まれた細い足首が覗いた。
「私は……勝ちを求めるべきなのでしょうか」
言葉尻が重たいのは、自覚していた。
ブローチに手をやって、ニーナは視線を下げる。
エレオノーラは少しの沈黙を返したが、すぐに答えた。
「当然よ。あなたの拳に何が託されているのか、それを考えてみなさい」
「……」
「あなたは、私を打ち負かした。その勝利に責任を負う気持ちがあるのなら、私たちの遂げられなかった想いを、あなたは成し遂げなくてはいけないわ」
「でも……、でもそれは、私の信念ではありません」
怒られるかもと思ったが、ニーナは正直な気持ちを口にした。
けれど、エレオノーラは膝を組み直して、落ち着いた声で言った。
「そうでしょうね。ただ勝てばいい闘いではないもの」
「はい……」
逆な言い方をすれば、派閥長戦はそれで良かった闘いだ。
相手を打ち負かす、そうする事で、自分の力と意志を証明する。
エレオノーラやカトリーナ達と繰り広げたあの闘いは、ニーナにとってそういう闘いだった。
だが大公戦となれば話は変わる、公国の貴族達が己の正義と信念を掲げ、この国の行く末を担うに足る力を持つと、皆へ知らしめるために闘うのだ。
ほんのつい最近になって、ようやく〈エレナント〉であること、その使命を背負うと決めた自分には、彼ら彼女らと同じ地平に立つというのは、あまりに大きな精神的飛躍だった。
「ニーナ。あなたには力があるわ、この私が、死力を尽くしても及ばなかった力が」
そうなのかも知れない。
事実として、自分達の力はエレオノーラとジークフリートを上回ったのだから。
そしてカトリーナは、ニーナが力に相応しい正義を果たすと、背中を押してくれた。
だがその正義を、自分はまだ見出せてはいない。
「だから、試してあげればいいのよ」
「……試す?」
エレオノーラの言葉に、ニーナは首を傾げた。
組んだ膝に肘を乗せるように少し身を乗り出して、エレオノーラがニーナを覗き込む。
「そう。あなた自身が、一度証明したことよ」
「私が……」
「私は私の正しさを信じてる、それは今も変わらないわ。言うまでもなく、大公戦に出ている皆の胸に、それぞれの正義と信念がある。でも、それを持たない力の前に敗れる程度では、この国を担うには相応しくない。つまり、あなたに敗北した私はまだ、その器ではなかった」
要するに、貴族の信念と力に対する試金石になれと、エレオノーラはそう言っているのだ。
「……私だって、そんな器じゃありません」
「もう、筋金入りなんだから。だったらこう言ってあげるわ」
エレオノーラは鼻を鳴らして立ち上がると、ベンチに座り込むニーナの正面に立って見下ろした。
腰を折ってその整った相貌をぐっと近づけると、ニーナの胸へ指先を突きつける。
「勝ちなさい、あなたに負けられるとムカついて仕方がないわ。やっぱり私がそこに立つべきだったなんて、この私に思わせないで」
間近に迫るエレオノーラの気迫に尻込みしそうになるニーナ、しかし不思議と、感じたのは恐怖ではなかった。
「エレオノーラさん……」
「だから勝ちなさい。今は難しいことを考えなくていいから、私の託した信念のために……私のために、必ず勝つこと」
エレオノーラは指をたたんで拳を握ると、それでニーナの胸を、とん、と叩いた。
その拳の触れた胸の奥が、じんわりと熱を持つ気がした。
「負けた分際の私を、あなたは厚かましいと思うかしら」
「いいえ」
素直に首を振った。
それにエレオノーラは少し微笑むと、顔を離してまた隣に腰を下ろした。
「だったらそれがあなたの強さよ、ニーナ。自分に何もないなら、今は私の正義を肩代わりすればいいの。カトリーナにだって、あなたが負ける姿なんて見せられないもの」
「ありがとうございます、エレオノーラさん」
「お礼を言うくらいなら、勝利を持ち帰ってきなさい」
「はい」
頷いたニーナの心は、いくらか軽やかだった。
「リディアさんにも、エレオノーラさんのことお話ししますね」
「それは、絶ッ対にヤメテ」
「あら、エレオノーラさんが?」
学院端、リディアのトレーニングルーム。
サンドバッグを打ち終えた彼女は、少し汗に濡れた前髪をかき上げてそう言った。
ジョギングマシンを降りながら、ニーナはリディアへ頷いた。
「はい。授業の空き時間にお会いして」
「そうでしたか」
ポニーテールに結い上げた首筋をタオルで拭きながら、タッチモニタのルーティン表にチェックを入れるリディア。
ベンチから水筒を取って、一口煽った。
溢れた水滴が、彼女の顎から鎖骨まで転がり落ちる。
その首元で、以前ふたりで出かけた際に買ったお揃いのネックレスが光った。
「リディアさんは……どう思いますか?」
「エレオノーラさんの言葉に異存ありませんわ。彼女の信念を肩代わりして、試金石となる。面白いではありませんか」
テーピングされた拳が拭うリディアのその口元には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいた。
だが、すぐに穏やかな表情に戻ると、その視線をニーナへ向けた。
「ニーナさんの懸念されることも、私は理解しているつもりですわ。クラーラ様やフェリックス様の正義を私もニーナさんも存じ上げない、とは言え、それを私たちような者が阻むことがあっていいのか、そうでしょう?」
「……はい」
「確かに、私たちには語って聞かせるほどの大義はありませんわ。事情はあくまで、ニーナさんのお父上の代わりですもの。ですが、あの時モンストラムへ立ち向かったニーナさんの胸には、明確な意思があったはずです」
「それは……」
あの怪物を前に、国家や人々を守ろうだとか、そんな大それた事を考えた訳ではない。
それでも、奪われたくないと思えるもののために自分は闘う事ができた、リディアがそのために拳を掲げてくれるのなら、彼女の隣に立ちたいと、体を突き動かされる。
「それでいいのです。そして今は、ニーナさんのその小さな正義感に、エレオノーラさんの言葉を借りればいい」
そう言って、リディアは少しニーナに歩み寄ると、軽く握った拳を差し出した。
「勝ちたいですか?」
「……負けちゃ、だめだと思ってます」
こつん、とニーナは自分の拳をぶつけた。
「なら、その想いはこの拳が受け取りました」
微笑むリディアに、胸がまた熱くなる。
自分が担うべき正義も信念も、まだどこにも見つからない。
勝たなければならない理由はなくとも、負けてはならない理由ならば託されている。
「さて、初戦も近いですから私はもう少し仕上げていきますわ。ニーナさんはどうされますか?」
「あ、私も、もう少し……」
「でしたら、負荷の少ない他の器具も試してみてはいかがですか?使い方を教えて差し上げてますわ」
「わかりましたっ」
リディアに手招きされ、他のトレーニング器具のほうへ向かう。
それからしばらく、ニーナはリディアの指導の下、少し遅い時間になるまでトレーニングに励んだ。




