第20話:亡き母への想い / Gedanken an die verstorbene Mutter
リディアはベッドから体を起こした。
時刻は早朝。
貴族の娘であれば、多くの場合使用人が一日のはじまりを知らせに来るのだろうが、リディアに朝を告げるのは、毎朝決まった時間にセットしてある抽出器のアラームだ。
下着も着けずに寝た姿のまま、寝室を出る。
父がアイゼンベルクから帰って来ることは年に一度あれば多いほうだし、大叔母は軍務の用意した高官向けの邸宅住まい、そしてヴァルクライネ家が保有するこのデュープレックス・マンションでは、メイドも執事もひとりとして雇っていない。
リビングへそのまま繋がるガラス手すりの階段を降り、ダイニングへ。
主人が来るまで健気に呼び続ける抽出器のボタンを押して、カップを口元へ運んだ。
「……」
5分もかけずに飲み切って、次はウォークインクローゼットへ向かう。
スポーツブラを着けて、レギンスを履き、靴下に足を通す。
ショートパーカーのジッパーを閉めて、髪を結い上げながら、リディアはランニングシューズに履き替えて玄関を出た。
エレベーターに乗ってエントランスまで降り、三重になったセキュリティドアを通る。
少し白んだ空を切り取る高層ビルの足下、まだ夜を湛えるリヒターハーフェンの通りを、リディアは走り始めた。
北へ六区画、東へ三区画ほど走れば、モーニングルーティンのランニングとしては充分な距離になる、シューズが路面を踏みしめる度に稼働する自分の筋肉部位に意識を向けつつ、一定の呼吸リズムを保って体を前へ押し出す。
公国は比較的治安の安定した国だが、それでも薄暗い時間にひとりで出歩く女性は稀だ、直近にあの怪物の騒動もあった後では、ただでさえ少ない朝の人通りはほとんどゴーストタウンも同然だった。
目印にしているビルの前で空中歩道のスチール階段を駆け上がり、道向かいに降りてまた通りを走る。
この辺りは、ビルの1階ファサードに公国の伝統建築を模したモールディングを施していて、職人の工房であったり、古くからのレストランやパブが多く軒を連ねている。
リディアがここをランニングコースに選ぶのは、なにも、景観に富んだ眺めの中を走りたいからではない。
この通りに、両親がリヒターハーフェンに移り住んではじめて訪れたレストランがあるからだ。
明かりも灯っていない窓ガラスの前で足を止めて、そっと中を覗き込む。
自分にとって唯一、ここだけが母の思い出に触れられる場所だった。
ふたりがここで食事をしたというのは、母が自分を身籠る前のこと。
両親が、ここでどんな会話をしていたのかは分からない、他愛のない世間話を楽しんだのか、公国の未来を語り合ったのか、あるいは、近い将来に授かる子供へ想いを馳せたのかの知れない。
それを確認する事は今後もないだろう、母については尋ねないようにしているからだ。
小さい頃は、ヘルベルトとそう歳の変わらないヘレーネを母親だと勘違いしていた頃もあった、すぐにそれは正されたが、自分に母親がいないこと、その原因が、自分を産むためだったと知ってしまった絶望と途方もない喪失感は、今でも言い表す事ができない。
傷痕だらけの手で窓ガラスに触れてみる、映り込んだ自分の顔は、写真で見た母に似ていると思った。
母は___アウラは、今の自分をどう思うのだろうか。
命と引き換えにしてまで産み落とした娘が、〈鉄拳令嬢〉などと呼ばれるようになってしまって、悲しむだろうか。
それとも、公国に初めて誕生した女の〈ベアラー〉として闘う事を、誇りに思ってくれるだろうか。
もし今、このガラスの向こうにいる彼女が答えてくれるのなら、なんと語りかけてくれるのだろう。
分からない。
夢でしか知らない母の声は、いつも優しかった。
自分のような争ってばかりの人間とは程遠い、慈愛に満ちた声。
いずれにせよ、自分を否定されるという事は母の痛みと死を否定されるのと同義だ。
それだけは許されない、赦してはいけない。
母親としての死力の限りを燃やし尽くして与えてくれたこの自分を、誰ひとりにだって侮らせはしない。
故にこの拳が必要だった、痛みを負う闘いだけが、自分の存在を肯定してくれたから。
そして今、この拳は自分の怒りではなく、幼くて、未熟で、小さな覚悟に必要とされている。
身の上も、背負う絶望も、まるで違うあの娘に、自分はどうしようもなく共感してしまった。
だってそれは、自分が拳を掲げなかった姿だったからだ。
誰もが皆、立ち向かえる訳ではない。
自分はせいぜい、体格と減らず口に恵まれただけの喧嘩屋だ、でもだからこそ、見ていられなくなってしまった。
そして気がつけば、運命を共にしていた。
後悔なんてない、思っていた人生ではなかったが、あの子の存在が、今ではどうしようもないほどにこの鼓動を熱くする、高鳴らせる。
この拳を、奮わせる。
「……ご紹介、したかったですわ。私の〈エレナント〉を」
皮肉と言えば皮肉だろう。
母のいない前提がなければ、自分はあの子の隣にはきっといない、そしてあの子は今も、公国の傲慢な光が作り出す影に閉じこもって、怯えて震えたままだっただろう。
瞳を閉じて、足を踏み出す。
リディアは、再びリヒターハーフェンの薄明を走り始めた。
「ほう、フェリックス殿が相手か」
リディアの学院トレーニングルーム。
サンドバッグを借りてステップのトレースに励むジークフリートが、興味深そうに呟いた。
傍らにはエレオノーラの姿もあって、ふたりもすっかりここの常連になっていた。
「ジークフリート様は、フェリックス様をご存知なんですか?」
ニーナが尋ねた。
彼はステップを続けながら答える。
「知っている、という程ではないな。モントリヒト嬢は、公国でも有名な財閥を牛耳る貴族のご息女だ、その〈ベアラー〉ともなれば、耳にする機会は多いさ」
「大学の最終学年にいらっしゃる、っていうのは前に話したでしょ?」
エレオノーラが続けた。
「専攻は情報学だそうよ、私も社交会で耳にした程度だけど、確か情報局を志望されているのではなかったかしら」
「日がな一日、目の疲れる画面と向き合っているらしいが、中々どうして、その実力は悪くないと聞くぞ」
付け加えたジークフリートは愉快そうだった。
チャンスがあるなら手合わせしたい、とでも言いたげな様子だ。
そんな彼に呆れを露わにしながらエレオノーラは溜め息を吐いて、ニーナとリディアを見やった。
「一回戦は来週よ、用意はいいの?あなたたちは」
「えっと……」
そう尋ねられ、ニーナはリディアのほうを見た。
今はブレークタイムのため、ジークフリートのフォームをチェックしているところだ。
「足の踏み込みが大き過ぎますわ、ジークフリート様。もう少し脇を締めて、コンパクトに」
「む、これでは剣が振れんぞ」
「……それで、どうなのよ」
小言を言う気ももはや起きないのか、半目になったエレオノーラが改めてリディアに尋ねた。
「私自身の仕上がりは申し分ありませんわ。ルーティンも完璧ですし、糖質管理も問題ありません」
「なに、そんなことまでしてるの……?」
「武に身を置くものとしては当然だな、あんたのストイックさには、全くもって惚れ惚れする」
「ちょっと」
そもそもリディアは相手を安易に侮るような性格ではないし、トレーニングは彼女の人生の一部とも言える、重要な一戦を前にして、心配など野暮というものだろう。
懸念材料があるとするなら、それは自分のほうだ。
「ニーナはどうですか?」
ベンチの隣に座るカトリーナが視線を向けた。
クラーラの事は詳しくない。
晩餐会で初めて顔を合わせて、たまたま買い物に行った時に出くわした程度だ、ただその時の彼女の言動は、何故かずっと頭の端にあるような感覚だった。
だが、そのために拳を鈍らせることはない。
「私も、うん」
頷いて返す。
ここでの運動を続けてはいるが、特別にトレーニングを積んでいるという程でもないし、肉体づくりのために何か制限をかけている訳でもない。
取り分け絶好調でもなければ、コンディションは至っていつも通りだ、それでいいのだろう。
「当日は、両家の所属する派閥から多くの貴族が観戦に訪れるわ。せいぜい気張りなさい、ニーナ」
「はい」
「いい返事だ、それでこそ俺達を打ち破った〈エレナント〉だな」
「応援してます、ニーナ」
胸元のブローチに触れる。
結果がどうなるのかなんてわからない、などという言葉に逃げるつもりはない。
望む結果に後悔のない闘いをすればいいという父の言葉通り、エレオノーラとの約束のために、リディアとの決意を胸に、闘いを制するその最後まで、決して拳を下ろさない。
勝利に何を望むのかも、示す力で何を成したいのかも、まだひとつとして掴んではいないこの拳でも、何も背負っていない訳ではないのだ。
だから進むしかない、リディアと共に。
「!」
顔を上げると、リディアの瞳がこちらを見つめていた。
その目には、この闘いもその先も、どうとでもなると思わせてくれる力がある。
リディアを見つめ返して、ニーナは頷いた。
「がんばります」




