第12話:惨劇の廃ビル / Der Schauplatz der Tragödie
リヒターハーフェン___第六区街、22時32分。
クラーラはビルの屋上から街を見下ろしていた。
首都上空を吹き抜ける風はどこか重たく、頬を舐める湿った空気がまとわりつくようだった。
眼下に横たわる長い高架道路を、首都警務局特殊部隊の車両が警報を鳴らして走り抜けていく、回転灯の青い光が、ガラスに覆われたビルの群れに反射し、屈折し、クラーラの真っ黒な服に吸い込まれた。
『SEKが多いな』
耳にはめた通信端末にフェリックスの声が届く。
「何かあったのかい?」
『分からん。傍受を試みているが、かなり複雑に暗号化しているな』
「足が付くと厄介だ、無理はしなくていい」
『今夜の仕事に、支障がなければいいんだがな』
「不吉なことを言わないでくれよ」
クラーラはジャケットの胸ポケットから、先日盗み出したスチールケースを取り出した。
このケースの中には、ちょうど今クラーラが襟元に身に着けているブローチとよく似た形のアクセサリーが入っている。
怪盗、あるいはモデル、そして何より貴族の娘として、宝飾品や服飾品などに対してはそれなりの目利きができるつもりだ、その上で、このアクセサリーは到底高価な代物には見受けられなかった。
しかし、クラーラはその安物に見覚えを感じた。
どこで見たのかははっきりと思い出せない、軽く調べてみた限りでは、少なくともこれは公国で一般に手に入るものではなかった。
〈暁の正義〉として信頼できる情報筋から得た話では、このアクセサリーを巡って不審な動きを見つけたそうだ。
そこにどんな秘密が隠されているのか、公国に背く連中の、その腐り切った腹の内を暴くために、調べてくれる協力者の元へこれを届ける。
それが、今夜の仕事だ。
いっそう強い風がクラーラの体にぶつかってくる、薄い金糸のような髪がなびき、ジャケットの裾が翻った。
「急ごう」
『目的地までは1,500だ。案内する』
「頼むよ、ダーリン」
スチールケースを仕舞う、クラーラは街に背を向けるようにビルの屋上を後ろへと下がると、再び振り返って、深呼吸した。
『行動開始だ』
フェリックスの声を合図に、クラーラは走り出す。
真っ直ぐに助走をつけ、その勢いのまま空中へと飛び出した。
一瞬訪れる、無重力。
自由落下を始める体を反転、すぐさま腰から一挺の拳銃を抜き出し、ビルの屋上へ向けてトリガーを引いた。
鋭い発砲音、銃口から撃ち出されたのは弾丸ではなく、鉤型のフック。
ワイヤを引きながら真っ直ぐに飛び出したそれは、ビル屋上の出っ張りに突き刺さって、クラーラの体を吊るすように張力をかけた。
両手で銃を持って伸身をスイング、振り子の要領で充分に体を浮かび上がらせてフックを戻し、また次のビルへ向けてワイヤを撃ち出す。
ビジョン広告、ネオンサイン、ホログラム、多国籍企業の看板が次々後ろへと流れていき、足の下を街灯や都市照明、車のヘッドライトが通り過ぎる。
断崖を成すビルの峡谷を満たす光の海を、クラーラのしなやかな肢体が鳥のように滑空した。
『次の交差点、WMWのディーラービルが角にある。屋上へ飛び移れ』
ワイヤーガンを射出、全身でスイング。
フックを戻し、慣性で放り出される体がビルの背丈を超えて浮かび上がった。
高級セダンのホログラムを通り抜けたクラーラの足元へ、屋上の床が迫る、着地と同時に受け身を取って起き上がり、再び走り出した。
「次は?」
『北東へ走れ、すぐに第四区街だ』
張り巡らされた排気ダクトを飛び越え、セントラルヒーティングの設備が漏らす蒸気のカーテンを突き破る。
屋上の縁を蹴って跳躍、正面のビルへ飛び移って、さらに走る。
『大通りが見えたな。右へ真っ直ぐだ、三棟移れ』
「了解」
通りに面するビルを、右へ三棟、駆け抜けた。
『着いたぞ』
「ここ?」
『いや、その下だ。27階がテナントの改修で窓を外してる。そこから入れ』
「どうやってさ。ワイヤーガンの長さだって足りない」
『射出のタイミングは俺が指示する、飛び降りろ』
「無茶言う」
肩を竦める。
高層ビルの崖際に立ったクラーラは、背中から倒れ込むように重力へ身を預けた。
ガラス張りの壁面を覆い尽くす光が、上へ上へと向かっていく。
鼓膜をなぶるような風切り音の中で、フェリックスの合図が耳に届いた。
『___今だ』
ガンを放つ、たまたま突き刺さったビジョンの一角がブラックアウト、ワイヤにテンションがかかり、急激な慣性が体を突き抜けて制止する。
宙吊り状態でぶら下がるクラーラの正面に、コンクリートの剥き出しになった殺風景なフロアが見えた。
「ぴったりだね」
『そのフロアにセキュリティはかかってない、入れ』
体を揺すって勢いをつけ、外した窓枠から飛び込むクラーラ。
降り立った灰色の床に、外から差し込む首都の明かりがその影を長く伸ばした。
非耐力壁や間仕切りは全て取り払われており、コンクリート柱だけが等間隔に並ぶ空間は酷く寒々としていた。
懐からマスクを取り出して顔を隠す、ここで会う予定だった協力者を探して、クラーラは足を踏み出した。
しかし___
「___誰もいない」
周囲を見渡す、見える範囲に人影はない。
「いや……」
『どうした』
「……」
柱の死角、目の端に何かが見えた気がして、そちらへ振り返って足を向けた。
そして、そこで視界に入ったものに、クラーラは言葉を失った。
「……っ!?」
強烈な臭気が鼻を刺す、込み上げてきた嘔吐感に咄嗟に口元を覆った。
そこには、無惨な状態となって血溜まりに転がる何かがあった。
常軌を逸したその光景を目の前にして、思考が完全に停止する。
『Licht、どうしたんだ』
「まずい……ことが、起きてる……っ」
『なんだと』
一瞬にしてパンク状態になった頭が、ようやく周辺情報の処理を始める。
血の海となったそこは、コンクリートの床がひび割れ、砕け、抉れていた。
争った形跡、と言うよりは、何かによって一方的に痛めつけられ破壊された痕だ。
「いったい、何が……」
頭にふと、祖母のところで見た警務局の資料が過った。
それに書かれていた名前を思い出すのと同時、背後から物音が聞こえて反射的に振り返った。
「ッ!」
眼前に迫って来たそれが何なのかを理解するよりも早く、クラーラの体が動いていた。
真横へと飛び込むように転がる、その脇を、大きな黒い影が猛烈な勢いで掠めていった。
『おい、クラーラ!何があった!』
フェリックスの声、応答する余裕はなかった。
対峙したそれは、クラーラの知識にあるあらゆるものとも一致しない、異形。
しかし、それが持つ明らかな敵意と危険性に、本能がけたたましい程の警鐘を鳴らしていた。
頭部と四肢を持つその姿は、人間やそれに近い生物を巨大にしたようにも見えたが、その全身を覆うのは金属のような質感だ。
体中には大小の管が張り巡らされ、それが脈打つように緑の光を循環させる姿は、機械とも生き物ともつかない。
四角い頭部に目はなく、獰猛な獣の如く荒々しい息を漏らす口には、人間に酷似した歯が並んでいた。
構造的な関節を持つ野太い腕の先は血に汚れており、鈍い粘質な反射が、その上を這い回った。
___Monstrum。
口の中でその名を呟く。
どうやら、こいつがこの惨状を引き起こした犯人で間違いない。
「……っ」
『クラーラ。応答しろ、クラーラ!』
目を持たないそいつと睨み合う間合いを、緊張感が支配する。
瞬きすらできず、数秒。
冷える背筋を、脂汗がじっとりと濡らしていく。
すると、慌ただしく階段を駆け上がってくる足音が近づいて来た。
反響具合からして、人数は十以上、全員が武装してるのは間違いなく、携帯火器と防弾装備が、がちゃがちゃと音を立てて揺れている。
(まずい……)
おそらく警務局のSEKだ、装甲車を多く見かけたのは、現れたこいつを追っていたのだ。
そして予想通り、全身を防弾服で武装した十数人の警務官がフロアに流れ込んできた。
「目標を肉眼で補足、付近に争った形跡あり、ひとりが犠牲になった模様です。それと、不審な人物がひとり」
小銃を構えた警務官が、モンストラムとクラーラを囲むように左右に広がる。
突撃部隊のリーダーであろう一人が、肩のトランシーバーからそう連絡すると、すぐに応答があった。
『……目標の鎮圧が最優先だ、発砲を許可する』
「了解。お前、死にたくなければそいつから離れろ!」
「……」
警務官はそう言ったが、動けなかった。
やつの注意がこちらへ向いた時、無傷で逃げられる間合いではなかったからだ。
警務官は、動かないクラーラに躊躇しながらも、トリガーを引いた。
「……発砲許可!撃てぇッ!」
咄嗟に真横へ飛び込んで頭を覆った、直後、無数の銃声。
モンストラムへ浴びせられた弾丸がその体で跳弾し、空の薬莢が床にばら撒かれる音と共に金属に弾かれるような音がフロアに反響する。
身もすくみ上がるような咆哮が轟いた、すぐさま立ち上がって、クラーラは柱の裏へ滑り込む。
少し顔を出すと、銃口から噴き出す炎が、縦横無尽に暴れ狂う怪物の不気味な影をストロボのように壁面に描き出すのが見えた。
『銃声か!?クラーラ、応答しろ!』
「怪物だ。おばあ様の資料で見た、あの怪物が現れた」
『なんだと?協力者はどうなった』
「死んだ。今はSEKが交戦してる」
『くそ、そういうことか……。早くその場を離れろ』
「そうしたいところだけどね……」
警務官の悲鳴が響き渡る、銃声に混ざって怒号と罵声が飛び交い、怪物の雄叫びがそれを呑み込んでいく。
吹き飛ばされたひとりがクラーラの前まで転がってきた、砕けたバイザータイプのシールドから覗くその虚な瞳と、目が合ってしまった。
「くそ……ッ」
再び顔を出す、絶叫を上げる化け物はその機械のような野太い腕を振り回し、鉄筋のコンクリート柱を易々と粉砕した。
「……なんて力だ」
あんな怪物相手に携帯火器で太刀打ちできるはずもない、銃撃の数と声は、案の定、瞬く間に減っていった。
最後に残ったひとりが対人用スタングレネードを投擲、破裂音が響いて、モンストラムは窓から飛び出していった。
駆け寄って、その後を目で追った。
自ら空中へ身を投げ出した怪物は、そのまま眼下の高架道路へと落下する。
突然目の前に降ってきた巨大な影に走行中の車は急ブレーキを踏むが、止まり切れず衝突、ひしゃげたボンネットの下からフロントバンパーが吹き飛んだ。
さらに後続車が追突、その後ろからまた別の車が突っ込み、複数台を巻き込む大事故を引き起こす。
漏れ出したオイルからは火の手まで見えた。
「まずい……っ!」
モンストラムが咆哮を上げた、その体を這う管から、緑に発光する蒸気が噴き上がる。
怪物は、車を蹴散らして走り出した。
「ほ、報告します……!部隊は壊滅、目標は現在、バイパスを東へ向けて逃亡中」
『こちらも確認している。不審な人物というのはどうなった、重要参考人だ、生きているなら身柄を拘束しろ』
「り、了解!」
パトカーのサイレンが近づき、間もなく、車の間を縫うようにSEKのSUV車両数台が猛スピードで走り抜けて行った。
「フェリックス、すぐに来てくれ!僕はこのままあいつを追いかける」
『化け物退治は怪盗の仕事じゃないんじゃなかったのか?』
「あんなものを見て見ぬふりをするなら、正義を名乗る資格はないよ」
腰からワイヤーガンを取り出す。
そのクラーラへ、生き残った警務官が銃口を向けて近づいた。
「そこのお前……!銃を置いて両手を上げろ」
肩越しに振り返るクラーラ、しかし、すぐに再び視線を外へと投げ、窓辺を蹴って飛び立った。
「おい!よせっ!」
慌てて駆け寄る警務官の声を置き去りに、ワイヤーガンでビルの間を飛んでいく。
モンストラムを追い夜の街を飛ぶその体を、生温い風に乗る雨粒が濡らした。




