第9話:服という符号 / Das Symbol namens Kleidung
首都リヒターハーフェン、商業区通り。
ニーナは珍しく街に出ていた。
特別な用事でもなければ休日もずっと家で過ごすほうなのだが、講義で必要になった書籍があって、それを買うために、今日ばかりは外出することを自分から選んだ。
教本や教材については、指定のものを学期開始までに全て揃えるというのがルールで、これはグラウエン王立学院だけでなく公国のほとんどの教育機関がそのように周知している、とは言え、例外もある。
リーベンシュタイン伯爵の講義における口頭試問が周知されたのが先日、無論、授業で取り扱った内容からの出題となるが、リディア曰く、
「伯爵の他の著書から上手くフレーズの引用ができると、評点が高くなるそうですわ」
とのことだった。
昨年、選択講義で伯爵の授業を選んだという、彼女の同学年の知り合いからのタレコミだそうだ。
ニーナはまだ学院の初学年、自身の進路について実感を持って考えられるほどではないが、成績が良いに越したことはない。
人生の選択肢が広がるという代え難い利点があるものの、とは言え、それはあくまで建前だ。
リディアは成績優秀者のひとり、〈鉄拳令嬢〉として皆が彼女におそれを抱く背景には、リディアが決して筋力だけが取り柄の女性ではないということがある。
文武ともに、優れた才を秘める淑女。
要するに、そのような人物を〈ベアラー〉として従える以上、せめて成績くらいは比べられても恥ずかしくない努力をしたいと、そういう理由だった。
「こちらのお店です、お嬢様」
私服姿で隣を歩くセラフィーナが、通りに面したビルの一階テナントの書店を手で指した。
メイド服の印象が強い彼女のため、私服で共に出歩くのは新鮮だった。
少しくすんだブロンドの髪を緩くアップにまとめ、白のブラウスと、シルエットのきれいなジーンズを合わせ、珍しく眼鏡もかけている。
仕事着を脱いだセラフィーナは、商業街の似合う年相応のお姉さんだ。
リディアのようにひとりでどこへでも行ければいいのだが、ニーナ自身不安であるし、何よりセラフィーナをひどく心配させてしまうだろう。
今日にしたって、そもそもセラフィーナが代わりに買いに行くと言ってくれたのだが、リディアならきっと自分で買いに行くのだろうと思って、こうして一緒に街へ出ることにした。
緑に塗られた木製の扉を押して中へ入る、ドアベルの軽やかな音が鳴った。
「えーと……」
書架に貼られたラベルを見ながら、ありそうな場所をセラフィーナと探してみる。
「あった」
重厚なハードカバーに金の箔押しがされた書籍を見つけた。
著者はリーベンシュタイン伯爵、間違いない。
見た目で500ページといったところだろうか、授業で使う指定図書が1000ページ近くあるのを考えれば、まだ軽いほうだ。
「お持ちします、お嬢様」
セラフィーナが持ってくれた、その彼女が少し、眼鏡の奥で瞳を細める。
「どうしたの?」
「あ、いえ……私は、高等教育に通えなかったので、お嬢様がどういった授業を受けていらっしゃるのか、興味が湧いてしまって……」
「……」
〈エレナント〉の婚外子であった彼女は、その本来の身分を剥奪され、早々に屋敷を追い出されたそうだ。
送り出された先は貴族に使用人を斡旋する会社で、そこでリリエンタール家を紹介されたという。
理由は単純で、新興貴族として足元を見られていたという事と、貴族どうしの繋がりを持たない家柄であれば、彼女の身の上に関する噂も広まりはしないだろうという判断だった。
実際その通りだったのだろう、十年以上生活を共にしてきたニーナですら、あの派閥長戦でセラフィーナとまみえるまでその事実を知らなかったのだ。
ただ、言われてみれば違和感はあった。
セラフィーナはリリエンタール家に仕える数少ないメイドの中でも若いほうであり、かつ、ベテランだ。
それもそのはずで、ニーナの記憶がまだおぼろげなころ屋敷へやってきた彼女は、10代になったばかりの年齢だったからだ。
「申し訳ございません、このようなことを申し上げるためについて来たわけでは……」
「ううん。今度、学校で習ったこと、セラフィーナに教えてあげるね」
「それは……ニーナお嬢様の小さかったころを思い出しますね。セラフィーナは、とても楽しみです」
そういう答えで良かったのかは分からないが、セラフィーナは顔をほころばせて喜んでくれた。
会計を済ませた本を持って通りへ戻る、コンラートに迎えを頼んだ時間までかなり余ってしまった。
「どうしましょうか、お嬢様。せっかくの外出ですので、どこか立ち寄ってもいいかもしれません」
セラフィーナが言った。
こうして、彼女とふたりきりで出歩くのは滅多にないことだ、このまま用事だけ済ませて帰ってしまうのは確かに、少しもったいない。
ニーナは通りを見上げてみる、こちらを見下ろすビルの壁面は映像広告とネオンサインで埋めつくされていて、背の低いビルの頭の上では、その屋上を買い取った企業のホログラムが揺れている。
「えっと……」
相変わらず視覚情報の多い街だが、その中で、目についたものがあった。
KANT & KOPP。
白の背景に、濃紺のスレンダーな書体の文字と、女性のシルエット。
「若い女性に人気のファッションブランドですね。新しいお召し物が必要でしょうか?」
「えっ?あ……えっと、前に学院で聞いたから……」
「さようでしたか。お嬢様はあまり買い物などもされませんし、この機会に新しい服をご購入されても、奥様も旦那様もお許しくださると思います」
「いや、別に……」
「さあ向かいましょう」
半ば強引に手を引かれながら、セラフィーナとビルへ入る。
様々なテナントが複数階を跨いで売り場を設けている商業ビルだ、エレベーターに乗り込んで、65階へ。
案内表示では、そこから上の階が全てこのブランドのテナントになっていた、ただ、店舗になっているのはその一部だ。
扉が開き、温かみのあるダウンライトがふたりを出迎える。
壁紙はモノトーン、むき出しになったコンクリートの柱や梁に残る規則的なセパレーターの痕跡が、無骨で実直な世界観を作り出していた。
「こちらのブランドは、とにかく生地選びと頑丈で丁寧な縫製、そして、天然素材を多く使用していることが支持を集めています。手に入れるのに苦労しますが、こちらのコート一着あれば、少なくとも十年は着るものに困らないと言われるほどです」
「くわしいね?」
「興味は、ありますので……」
若い世代の女性達に混じって、セラフィーナと売り場を回ってみるニーナ。
着るものにこだわりがある訳ではないので、ここに陳列された服の良し悪しは分からない。
一応、貴族の娘ではあるので、そもそもとして安物に袖を通すようなことはセラフィーナや他のメイドが許していないのだろうが、だからと言って詳しくなるはずもない。
あれこれとセラフィーナが手に取っては、広げてニーナに合わせてみて、また戻して。
順に見て行きながら、とある一角。
天井まで届く大きなパネルの前で、思わず足を止めた。
そのパネルに映るモデルの女性に、見覚えがあったからだ。
「モントリヒト家のご令嬢、クラーラ様でございますね。こちらの専属モデルを務めていらっしゃいます」
「うん、聞いたことある」
「クラーラ様はモデルのほか、一部の商品デザインにも携わっていらっしゃるそうです。こちらに並んでいるのは、クラーラ様が手がけられた新作でございますね」
陳列テーブルには既に、値札の代わりに売り切れの文字が複数並んでいて、その人気が窺い知れる。
「クラーラ様とのご面識は」
「えっと、晩餐会で、少し……」
売り場を眺めて見ると、目についたポーチがあったので、手に取ってみた。
「あれ、これ……」
確か、この前リディアと出かけた時に、彼女が肩から下げていたチェーンポーチだ。
今しがたセラフィーナから聞いたから、というのもあるが、素人が触ってみても、真っ直ぐな縫製やその縫い目の細かさ、しっかりとした型など、その造りの安心感が手のひらから伝わってくる。
リディアはあまりこういうものに興味がないと勝手に思っていたが、彼女も彼女で、若者らしい感覚を持っているのかも知れない、あるいは単に、頑丈そうだからという判断基準の可能性もある。
「ほう。それを手に取るとは、お目が高いじゃないか」
すぐ近くから声が聞こえて、そちらへ顔を向けた。
「やあ、久しぶりだね、ニーナ嬢。僕のこと、覚えていてくれてるかな」
そう言って、彼女は大きなレトロラウンドのサングラスを外し、ニーナへ微笑みかけた。
クラーラだった。




