第3話:偽りの恋文 / Ein falscher Liebesbrief
〈エレナント〉と〈ベアラー〉。
それはグラウエン公国の生んだ神秘であり最強の力。
公国を支えるそのふたつの柱は、歴史を遡れば公国の成り立ちよりも遥か太古の話になる。
最初の〈エレナント〉については、もはや公国に遺るいずれの文献でも確認できないほど古いが、公国を築いたグラウエン大公妃とグラウエン公爵は、建国の祖としてだけでなく公国史においても比類なき〈エレナント〉と〈ベアラー〉として今なお語り継がれており、“一太刀で千の敵を薙ぎ払った”と記されている。
〈エレナント〉の力は、グラウエン公国の女性にしか発現せず、それは生まれ持っての素質であるとされている。
一方で、〈ベアラー〉は慣習的に男性から選ばれ、〈エレナント〉との契約によってその力を授かる存在。
契約によって結ばれた男女は、一対の関係であると同時に、互いの生涯における伴侶となる。
それは、〈エレナント〉が〈ベアラー〉に力を授ける契約が、口づけによって交わされる儀式だからだ。
「キスする相手を選べ……なんて、無理だよぉ……」
グラウエン王立高等貴族学院、第一学年の授業中。
ニーナは教科書に顔をうずめて悶々としていた。
先日のソワレでエレオノーラが派閥長戦を宣言してからというもの、ある種の駆け込み需要とでも言うべきか、男性貴族たちからのアプローチが増えたように感じていた。
学院同学年の男子や上級生、学院外の青年子息。
無論、その全てをニーナはやんわりと断っている。
「……さん、ニーナさん!ニーナ=リリエンタールさん!」
「ぇあっ!?は、はいっ!」
先生に指名され、慌てて席を立つ。
「ニーナさん、次の行を読んで頂けますか?」
「つ、次の行……?あ、ええと……」
ぱらぱらと教科書を捲る。
正直、授業などほとんど聞いていなかったため、さっぱり分からなかった。
「あぅ、えっと……」
しどろもどろになりながらただただページを捲ったり戻ったり。
「47ページの三つ目の段落ですよ、ニーナ」
隣の席に座るカトリーナが、小声でそっと教えてくれた。
「あ、ありがとう……」
ここのところ、ニーナはずっとこんな調子で、授業すらろくに集中できていない。
このまま有耶無耶にして派閥長戦からバックれてしまえればいいのだが、それを実行すると社交会どころか学院にすらいづらくなる。
ただでさえ居心地の悪い環境だと言うのに、それではますます針のむしろだ。
だからと言って、派閥長戦が始まるまでのこの数日間で、今まで選べなかった〈ベアラー〉を選ぶことなどできるとは思えない。
もう、どうすればいいのか分からなかった。
「大丈夫ですか?ニーナ」
教室の移動中、並んで歩いていたカトリーナが心配そうに顔を覗き込んできた。
「うん、ありがとう。カトリーナ」
「でも、顔色がすごく悪いです」
公国の十代女子の平均身長に照らせば、ニーナは少し小柄だ、しかし、隣を歩くカトリーナの目線はニーナよりもまだもう少し低い位置にある。
彼女の小さな体躯もそうだが、セミロングのミルクベージュの髪や、色素の薄い瞳、白磁のような肌、鈴を転がすような声。
慎ましい性格も含めて、まさしくお人形のような愛らしさを詰め込んだ少女だ。
カトリーナはロートリンゲン子爵の息女で、彼女の家柄とニーナのリリエンタール家に特別な親交がある訳ではないが、カトリーナはニーナにとって唯一の友達だった。
そして、同じく〈エレナント〉の力を持っている。
しかし、ニーナと違うところは、カトリーナは既に〈ベアラー〉を決めているということ。
カトリーナの〈ベアラー〉は、エレオノーラの兄であるヴェステンラウ家長男、レオンハルト=フォン=ヴェステンラウ。
この学院の卒業生で、エレオノーラの〈ベアラー〉であるジークフリートの剣の指南役でもあり、公国きっての猛者のひとりとして派閥内外から期待を寄せられる青年だ。
王子様、という形容がまさしく似合う美男子であり、剣技にも高く精通している彼を〈ベアラー〉として従えるカトリーナは、女子から密かに羨ましがられているが、同じように、入学時点でレオンハルトとの契約が決まっていたカトリーナを残念がる男子は数知れなかった。
ロートリンゲン家とヴェステンラウ家は古くから繋がりの強い家柄で、両家当主も懇意にある。
カトリーナの〈ベアラー〉としてレオンハルトが選ばれたのは、そういった理由もあるとニーナの耳には入っていた。
「派閥長戦……どうしたらいいのかなって」
「ニーナは、〈ベアラー〉を決めるのが嫌なのですか?」
「嫌……というか……」
安易には決められない、というだけだ。
契約は〈エレナント〉にとって、一生に一度のみ許される特別な婚礼なのだ。
「カトリーナは、その……嫌だとか思わなかった?」
「契約を、ですか?」
「うん」
「わたしは、レオンハルト様を幼少よりお慕いしていましたので……」
少し頬を赤らめ照れくさそうにしながらも、カトリーナはそう告白してくれた。
「わたしの父上と、ヴェステンラウ家の御当主様が懇意になさっているのは存じてます。政略婚だと言われることもありますが、レオンハルト様との契約は、わたし自身がもっとも望んだことなのです」
「カトリーナが、望んだこと……」
「もちろん家の意向もあります。ですが、レオンハルト様をお支えし、エレオノーラお姉様をお守りすること。それが、〈エレナント〉であるわたしの……使命なのだと」
そう言って、カトリーナは制服の胸元にあるブローチに触れた。
「ニーナには、そのようなお方はいませんか?」
いない、と答えるしかなかった。
半円アーチを支える列柱の廊下を歩いて、次の教室へ向かう。
グラウエン王立高等貴族学院には決まった教室というものがなく、それは古い貴族の城をそのまま校舎として利用しているからだ。
今でこそ学院の名が広く定着しているが、この城の本来の名はリーベンシュタイン城、公国でも随一の学者家系であるリーベンシュタイン伯爵家の所有財産だ。
重厚な壁は重々しく、そもそもは古い城塞としての建築物であるため、窓は小さく少ない。
場所によってはかなり薄暗いが、魔導インフラを引き込んだ城内には、日の落ちる時間になると明かりが灯る。
内部はかなり入り組んでおり、入学当初、新入生が最も苦労するのは教室を覚えることだとさえ言われているほどだ。
実際、ニーナは今だってたまに迷うし、行ったこともない場所もたくさんある。
次の教室に着いて、カトリーナと並んで席に座る。
時計を見ると、まだ講義の開始まで余裕のある時間だった。
移動が多い上に、迷子になる生徒のことも考慮されており、休み時間は長い。
「あら、ニーナさん?」
扇型に広がる段状の講義堂、すぐ後ろの席から呼ばれて振り仰ぐと、リディアの姿があった。
先日のソワレでは深紅のパンツスーツを見事に着こなしていた彼女だが、当然ながら、今は学院規程の女子制服を着ている。
同じなのは、黒いサテン生地の手袋を着けていることくらいだ。
「こんにちは、リディアさん」
「ご機嫌麗しゅうございます」
「ふふ、ふたりともごきげんよう。仲がいいのね」
カトリーナはニーナにとって唯一の友達だが、それはカトリーナにとっても同じだ。
生まれつき病弱だったらしい彼女は、初等教育の期間のほとんどを家庭で過ごし、交友関係はひどく限定的だったと聞いている。
「リディアさんもこの授業取ってたんですね」
「ええ。四年になってようやくですわ」
基礎科目は学年ごとの授業だが、選択科目では他学年との合同授業がほとんどだ。
第四学年のリディアがここにいるのは、そういう理由だ。
ばらばらと教室に入って来る生徒で少し騒がしくなる中、鞄から教科書や筆記用具やらを取り出して、机に並べる。
この授業では参考書として本格的な学術書を使うが、これがまた分厚く、一部では鈍器だの二つ重ねれば枕だのと言われている。
ここで受けるのは学院長であるリーベンシュタイン伯爵の講義で、彼は公国でも権威ある学者、この参考書も伯爵自身の著書だ。
「授業は楽しいけど、先生の本、重くてたいへんだよ……」
「移動がすこし、疲れてしまいますね」
「あら、まっすぐ掴んで腕の水平を維持すれば、いいトレーニングになりますわよ」
それはそもそも使い方が違うのでは、という言葉は、ニーナは呑み込むことにした。
前回授業の目印にしたスピンを引っ張って、本を開く。
すると、ページの間から一通の薄い桃色の封筒が角を覗かせた。
「あれ?」
「どうかしましたか、ニーナ?」
「本に、これが……」
ダイヤ貼りの封筒で、持ってみると、手触りの良い上質紙からは、わずかに、甘やかな香水の匂いが漂ってきた。
「あ、すごくいい匂い」
「この香り……」
「カトリーナ?」
「ううん、なんでもないです」
この手の手紙には身に覚えがあった、ニーナの〈ベアラー〉を志望する男子からの、要するにラブレターだ。
少し戸惑ったが、ニーナは簡単に糊付けされた封を開けた。
中には、同じ香りのする二つ折りの便箋が入っていた。
「ええと……今夜、特別棟天文室にてお待ちしています。お伝えしたいことがあるのです」
便箋には、金のインクによる流麗な筆記体でそう綴られていた。
罫線に沿って整然と文字の連なる様子からは書き手の几帳面さが窺える。
そして、筆記体という、現在では授業で扱われる古い公文書や歴史書などでしか見ないようなとっくに廃れた書き文字を、ここまで見事な筆致で再現することができるのは、貴族でもかなり珍しく、高い教養を感じさせた。
「恋文かしら?」
後ろから、リディアが少し身を乗り出して覗き込む。
「ええと、なんというか……」
その通りだ。
「拝見しても?」
リディアのことは不思議と信頼しているニーナだが、もらったラブレターを他人に見せるというのは少し迷うところだ。
逡巡して、便箋には差出人の名前も書かれていないため問題ないだろうと、リディアに手渡した。
「はい、どうぞ」
「あら、今どき筆記体で想いを綴るだなんて……しかも香りをつけた上質紙に、金のインク。こちらをお送りになったお方は、随分とロマンチストなのですわね」
そう言って、リディアは少し思案顔を浮かべたが、すぐに便箋をニーナへ返した。
隣のカトリーナが、心配そうに尋ねる。
「……ニーナは、どうしますか?」
「無視……するっていうのもさすがにね……」
それが、自分の良くないところだとニーナは自覚していた。
この手紙に限っては、差し出した者の顔どころか名前すら分からない。
はなから断るつもりであるなら、無視してしまっても構わないくらいだろう。
ただ、この手紙をくれた相手がどんな思いで自分を待つことになるのか、それを想像すると、行くべきだという判断しかニーナにはできなかった。
そして、結論として。
その甘さが最悪の事態を招く事になる。
日の暮れた時間、そろそろかとニーナは指定された特別棟の天文室へ向かい始めた。
授業もとっくに終わり、サークル活動の生徒くらいしか残っていないこの時間ばかりは、学院も城塞としての本来の姿である物々しくどこか威圧的な静けさを湛える。
少し不安な心持ちのまま渡り廊下を歩き、特別棟の階段を登って行く。
天文室はこの最上階、奥の一室
以前は選択科目のひとつに天文学もあったそうだが、リヒターハーフェンを高層ビルが覆い、地上から放たれる人の生み出した光が、夜空から星を奪い去ったことで廃止されたそうだ。
そうした理由で、教室も現在では使われていない。
この棟は教室や部屋の数も多くはなく、造りは比較的分かりやすいため迷子になることはない。
階段を登り切って、最奥、ニーナは木製のドアの前に立った。
「……はぁ」
ニーナの小さなため息が、冷たい石の壁に吸い込まれて消え入る。
相手の顔を見る直前のこの緊張感が、いつも苦手だった。
意を決して、重たい扉を開く。
ドアの軋む乾いた音が、室内へと飲み込まれていった。
当時の名残である天球儀や天体望遠鏡、簡易プラネタリウムなどの設備や備品、資料などがずらりと並ぶ教室。
明かりは灯っておらず、扉を閉めると窓から首都の光が差し込むのみで、薄暗い。
その中に、見慣れない男子生徒がひとり、佇んでいた。
「やあ、ニーナさん。来てくれると思っていたよ」
そう言って、男子生徒が微笑む。
どこか違和感を覚えるその笑みに、ニーナの警戒心が高まった。
「あの……私……」
「単刀直入に言うよ、僕と契約を結んでほしい」
「え……」
「いや、僕じゃなくてもいい。この場で、君の〈ベアラー〉を決めてもらえないかな」
男子生徒のその言葉を合図に、物陰から四、五人の男子が姿を現した。
「えっと……あの、え?」
突然の事態に戸惑うニーナ。
そして、その男子達の奥から、硬いヒールの靴音がゆっくりと近づいて来る。
「あんな手紙ひとつで、まんまと現れるとはね」
「……っ!」
思わず萎縮してしまうその声の主がニーナのよく知る人物であると気づくよりも早く、心拍数が一気に跳ね上がった。
「思惑通り……とは言え、ますますがっかりね。ニーナさん」
差し込む薄明かりを胸元のブローチが反射し、暗闇から、彼女がその姿を見せる。
「エレオノーラさん……」
「この後に及んで〈ベアラー〉を決めあぐねているあなたのために、この私が候補を用意してあげたのよ」
ハーフツインにまとめたプラチナブロンドの長い髪を揺らし、高圧的な態度でエレオノーラが歩み出た。
「もし決められないというのなら……多少強引な手段を使うか___消えてもらうしかないわ」
そう、言い放つエレオノーラ。
冗談を言う印象などない彼女だが、今はいっそう強く、黒い意志を感じる。
あの手紙は、つまり彼女の罠だったと気づいた時には、遅い。
エレオノーラの鋭い瞳から逃げるように後ずさる、後ろ手に開けようとした扉は、外側から押さえつけられたように固く閉じられ、びくともしない。
「あっ、あの……っ、待ってください……っ!」
「待ったわ、充分過ぎるほど。あとはあなた次第よ、ニーナ=リリエンタール」
男子生徒たちがじりじりとニーナに詰め寄る。
壁伝いに逃げていくが、すぐに部屋の角へ追い詰められてしまった。
「背負ったものと、背負うべきものの責任から逃げ続けるような女は、〈エレナント〉には相応しくない。あなたに貴族の娘としての矜持があるなら、ここで、それを示すことね」
「で、でもっ、私……」
「これは、みんなのためなのよ。あなたという存在が、派閥の立場を危うくしているの」
「そんな……」
壁に背中を押し付け、へたり込むニーナ。
望んで貴族の娘に生まれた訳でも、望んで〈エレナント〉に生まれた訳でもない。
適齢期になったからといって、いきなり伴侶を選べと言われたって決められるはずなんてない。
だが、〈エレナント〉と〈ベアラー〉を中心軸にして成り立つこの貴族社会では、そんなニーナの声など受け入れてはもらえない。
世間知らずで、責任逃れの、不出来な子どもの言い訳。
それが現実だった。
「残念ね。わかっていたことだけど」
取り囲む男子達の手が伸びてくる。
逃げられない、ニーナは消え入りそうな声をしぼり出して、せめて助けを求めた。
「いや……、誰か……助けて___っ!」
その時、何かの壊れる大きな音に、教室が揺らいだ。
「ッ!?」
ドアが破壊された音だとその場の誰もが理解するよりも早く、何かが、猛スピードで教室の端まで飛んで行った。
「な、なに……?」
扉の破片とともに吹っ飛ばされ床に転がったのは、大柄な男子生徒。
彼は短く呻き声を上げると、そのまま動かなくなった。
「扉を押さえつけていらしたので、まとめて破壊させてもらいましたわ」
全員が、一斉に動きを止めて入り口のほうを見た。
その視線の先に、学院の制服を着た長身の女生徒がひとり、現れる。
「まさか、〈鉄拳令嬢〉……!」
男子の誰かが、その名を口にした。
「愛の告白にしては、随分と野蛮ではなくて?」
拳を鳴らし、リディアはそう言って眼光を飛ばした___




