第24話:休息と決意 / Ruhe und Entschlossenheit
「ベルゼーレ?」
ニーナは水筒を傾ける手を止め、いま聞いた言葉をそのまま繰り返した。
トレーニングマットに仰向けになるリディアは、真っ直ぐに伸ばした両脚の踵を、床につけないようゆっくりと上下させながら答える。
「はい。レオンハルト様から先日のお詫びの言葉とともに、カトリーナさんの精密検査の結果が送られて来ておりました」
「カトリーナ……」
あの時の光景を思い出すニーナ、水筒を持つ手が少し、震えた。
カトリーナは明らかに普通の状態ではなかった、〈エレナント〉に関しては様々な学術的アプローチで研究が進んでいるが、未だ分かっている事はそう多くはないらしい。
同じ〈エレナント〉としてニーナが思うのは、あの時のカトリーナに何が起きたのかという回答よりも、もっと単純に、カトリーナが無事なのかという心配だった。
リディアは脚を上げる勢いでそのまま後ろへ跳ね起きると、トレーニングメニューを表示したタッチ式のモニタの前へニーナを手招きした。
「ご覧になってください」
画面を操作して、リディアがレオンハルトから送られてきたという文面を映す。
書類データの添付のようだが、相変わらず小難しい単語ばかりが並んでいて、ニーナには理解が難しい。
ただ、その記事の見出しには、先ほどリディアから聞いたBerseeleという言葉があった。
「精神魔導活性の、急性暴走反応……?」
続く本文にはそう書かれていた。
「ニーナさんは、“軍公の陰に潜む戦妃の亡霊”というお話をご存知かしら」
「あ、えっと……なんとなく、ですけど」
ニーナは学院で教わった歴史の講義の薄い記憶を辿る。
確か、教授は戦霊という言葉で紹介したはずだった。
「公国も歴史の古い国です、当然ながら歴代には様々な大公がいらっしゃって、取り分け軍拡に力を入れ公国を大陸の列強にまで伸し上げたのが、歴史の教科書にもお名まえの載っていらっしゃる軍公として知られる大公ですわ」
それはニーナも教わったグラウエン公国の歴史の一幕だ。
リディアは続ける。
「ですが、元老院直轄の研究チームの見解では、その軍公を実質的に支配し操っていたのはその妃、つまり、この文書で軍妃と紹介された〈エレナント〉だと考えられているのです」
その話とカトリーナの件がどう繋がるのかと思いつつも、ニーナは黙ってリディアの説明を聞いた。
そしてすぐにその答えは明かされる。
「ほとんど、カビの生えた民間伝承。現代で言う都市伝説ですが、先日のカトリーナさんのような〈エレナント〉の暴走状態は、血を好んだかつての軍妃の亡霊に、取り憑かれたものだと言うのです」
「えっ」
「無論、科学的な根拠はございませんわ。ただ、そうした〈エレナント〉の暴走というのは、近代になって報告され始めた事実のようです。レオンハルト様から頂いたこのテキストは、公国医学会がその現象についてベルゼーレと名付け、専門医学の観点から研究、分析した報告書の草稿ということですわ」
「あの……えっと、つまりカトリーナは……」
「私がこちらを読んだ限りでは、その後の〈エレナント〉は皆一様に芳しい容体ではないそうですが、最悪な事態になる前にエレオノーラさんが止めたことで、たちまち命に別状があるというわけでもなさそうです。安心してください、ニーナさん」
そう聞いて、ニーナはほっと胸を撫で下ろした。
あの夜の闘いを終えても、どこか寝つきも悪く心が落ち着かない気分だったが、これでようやく一区切りついたというものだ。
「あの、ちなみに最悪の事態って……」
タッチモニタの前を離れたリディアを目で追って、ニーナがそう尋ねる。
リディアはすぐには答えず、スポーツブラの肩紐を直しながら一拍置いた、答えるか迷っているようにも見えたが、ベンチからタオルを取って首筋を軽く拭うと、再び口を開いた。
「……〈エレナント〉の持つ力、その源泉たる核の不可逆的焼損。あるいは精神魔導活性負荷による身体機能の致命的損壊。そして、同調フィードバックによる〈ベアラー〉の精神崩壊が、考えられるそうです」
「……」
「簡単に言えば、永久に力を失うか、命を落とすか、〈ベアラー〉の精神に異常が残るか。そのいずれかであり、あるいはその全てですわね」
聞いて、背筋が総毛立った。
そうなった場合に自分がどうなるかという事よりも、リディアに何かあったらという恐怖だった。
変貌したレオンハルトのアーマギアの姿を思い出す。
全身から魔導エネルギーの光を放出するあの異様な姿を思い出し、胸が騒ついた。
「ニーナさんは大丈夫です」
リディアの手が肩に触れて、顔を上げた。
覗き込むように、膝を曲げて視線をニーナへ合わせると、リディアは柔らかく温かい微笑みを向けた。
「カトリーナさんの心が、決して弱かったわけではありません、むしろご自分の使命に強い責任とエレオノーラさんへの強い愛着があったからこそ、ああなってしまった。必要なのは分かち合うことです、そのために〈エレナント〉には〈ベアラー〉がいて、ニーナさんには私がいるのです」
真っ直ぐなリディアの視線に包み込まれる心に、心地よい熱が灯る。
「はいっ」
見つめ合う互いの間に、確たる絆をニーナは感じる、それはリディアもきっと同じだろう。
派閥長戦はついに決勝を迎える。
その最後の舞台へ向け、ふたりはその後も調整に励んだ。
エレオノーラはヴェステンラウ家の稽古場、その隣の部屋にあるトレーニングジムにいた。
肩の落ちたドルマンスリーブのゆったりとしたショートTシャツに、ハーフパンツとレギンス、バッシュを組み合わせたのが、彼女のトレーニングウェアだ。
日頃はハーフツインのプラチナブロンドの髪も、動いて乱れないように左右で緩く編み込んでいる。
社交会や学院での完全無欠ご令嬢モードのエレオノーラしか知らない者からすれば、別人にも等しい装いだが、エレオノーラ自身もそう思っている。
なら何故こんな格好なのか、理由はシンプルだ。
色々試した結果、ふたりきりの場合この格好が何故だかジークフリートのトレーニング中のパフォーマンスが一番良くなるからだった。
「……ふぅ、ふぅ」
器具を使って、出来るだけ負荷の高いトレーニングを行う。
リディアのようになんでも拳で解決するような女になりたい訳ではないが、〈エレナント〉も体力勝負には違いない。
加えて、それなりに過酷な訓練にも耐えられるだけの、強く太い精神を持ち合わせなければアーマギアを維持して〈ベアラー〉を守り、同時にその最高の戦闘力を引き出す事はできない。
「らしくないな、緊張している」
ランニングマシンを降りたジークフリートが言った。
彼はシルバーに近いグレーのジャージ姿だ。
刈り込んだ金髪は、汗に濡れている。
「……うるさいわね」
「否定しないな、だが闘いを前に緊張感を持つのは良い事だ」
そう言いながら、彼は休憩ベンチに置いてあるボトルを取って一口煽った。
その彼に手を伸ばす。
「私にも」
「だったら降りて来い」
器具を降りる。
ジークフリートが投げてよこしたボトルを受け取って、そのまま口をつけた。
「ぬるいじゃない」
「文句を言うなよ」
ベンチに腰を下ろして少し休息を得る。
ジークフリートはそのまま別のトレーニングマシンへ向かった。
「……難儀だな、貴族というのも」
ベンチプレスに横たわって、軽くバーベルシャフトの握り具合を確認しながら、彼は呟くように、けれど聞こえるように、そう言った。
「何よ、突然」
「お前を見ていて、そう思っただけだ。カトリーナ嬢もそうだったが、力を持つが故に、それに見合う結果を示さなければならない。望んで得たものでもないだろうに」
「……そうよ」
ジークフリートのグラウエン家は、諸侯達の領地を国家として併合、統一したとき、君主となった最初の大公家だ。
公国の国家元首たる公爵の地位は、世襲ではなく大公戦によって移り変わっていく、グラウエン家はそうした覇者の変遷の中で、大公位から退き力を失っていった、かつて貴族だった家柄である。
ただ、かの家柄が爵位を返上しても貴族同等の扱いを受けているのは、猛き君主の血筋として尊ばれているからという理由がある。
元老院の上下院どちらにも議席を持たない代わりに、建国の礎たるその名誉は公国において永遠に保証されているのだ。
「だが、その生き様は潔く美しいものだ。あのリリエンタール嬢も、少し見ない間に随分と武を嗜めた顔になっていたな」
愉快さを隠そうともせず、ジークフリートはそう言ってバーベルをゆっくりと上下し始めた。
「……」
ならジークフリートを、エレオノーラが自身の〈ベアラー〉に選んだ理由が彼の出自にあるのかと言うと、そうではない。
むしろジークフリートがグラウエン家の嫡男だと教わったのは、知り合ったずっと後の話だ。
兄のレオンハルトのように婚約者を決められていたとして、そのひとを気に入るかどうか、自分の性格をよく分かっているエレオノーラの答えはNeinだ。
レオンハルトもカトリーナもお互いを好いているが、エレオノーラは自分の目で見て、心で判断した者でなければ〈ベアラー〉に認めないと幼い頃から決めていた。
「ようやく入り口に立ったのよ、あの子にはまだ、信念がない」
「そう邪険にするな」
「ずいぶんと肩を持つじゃない」
「妬いてるのか?」
「違うわよ」
「ヴァルクライネ嬢がついているなら、そう嘆くこともないだろう。刃を交えたから解る、あの淑女は素晴らしき武人だ」
「殴ればなんでも解決できるほど、世の中は簡単じゃないわ」
「だがこの公国においてはそうだ、俺の何代も前のジイさんが、そういう国として作ったんだ」
「だから問題なのよ」
勝者こそが正義である、そんな言葉をエレオノーラだってよく聞いたものだ。
実際、このグラウエン公国はまさにその仕組みの上に成り立っている、力で勝った者が大義を、ひいては公国の担い手となるのだから。
力を持つならば相応しき信念を持たねばならない、逆に言えば、正しき信念を持つならばそれに見合う力を示す必要がある、それがこの国の最も強力なルールなのだ。
だからこそ、自分は勝たねばならない。
勝って、力あることを示さねばならない。
ニーナが、エレオノーラの知るままの娘であったならば、打ち破ることは容易かったろう、だが今は違う。
ベルゼーレに陥り暴走したカトリーナを前に、彼女は一歩も退かぬ闘いを繰り広げた。
無論リディアが〈ベアラー〉としての適性に優れているというのもある、しかしそれだけならば、あの三回戦で敗北したのはカトリーナではなかったはずだ。
「俺は勝つために闘う、〈鉄拳令嬢〉の拳を叩き斬るのは、俺の《《鉄剣》》だ」
「ジークシュヴェルトは魔導合成金属よ、鉄ではないわ」
「ジョークを真っ向から否定するお前のそういうところが好きなんだ」
エレオノーラはため息を吐いて腰を上げた。
ベンチプレスでのトレーニングに勤しむジークフリートを横目に、適当な器具を選んで、またトレーニングを再開した。




