第7話 鏡の重さ
「いい、八瀬君。私たちの仕事は、魑魅魍魎を封じることだけじゃない。いろいろな場所や物に溜まった澱みを掬い取ることも、大切な仕事の一つ」
小春さんはそう言って、錦市場の喧騒から一本外れた薄暗い路地へ、迷いなく入っていった。湿った石畳には、打ち水の名残と魚の脂が混じったような、独特の匂いが染み付いている。オレは、不思議堂の御門さんからもらった鏡を握りしめながら、彼女の細い背中を追った。
たどり着いたのは、看板も出していない古びた研ぎ屋の裏口だった。中からは、キィィィン、という、耳の奥を細い針でなぞるような金属音が響いている。小春さんが、こんにちは、と言ってドアを開けると、
「……小春ちゃんか。待ってたよ」
と、奥から出てきたのは、前掛けを真っ黒に汚した年老いた職人だった。その手は節くれ立ち、爪の間には鉄の粉が黒く染み込んでいる。職人さんは黙って、一本の出刃包丁を差し出した。
一見すれば、手入れの行き届いた業物に見える。だが、オレがその包丁を凝視した瞬間、喉の奥に、血の錆びたような味が広がった。
「うぇ……これ、なんか変だ。……嫌な感じがする」
「正解。これは、ある老舗の料理屋で三十年使い込まれた包丁よ。何万匹もの魚を捌き、その命を絶ってきた鉄だわ。手入れは完璧だけど、刃の芯に澱みが溜まっている」
「澱み?」
「えぇ。説明するより、まずこれを持ってごらんなさい」
と小春さんはオレの手を掴み、無理やり包丁の柄を握らせた。
「ひっ……!」
握った瞬間、手のひらから冷たい震えが伝わってきた。包丁が震えているのではない。オレの腕の筋肉が、本能的な拒絶反応を起こして痙攣している――そんな感じ、とでも言えばいいだろうか。そして、視界がわずかに歪み、包丁の刃先に、捌かれた魚の虚ろな目が、無数に浮かび、消える。
「八瀬君、鏡を出して。表面を刃に向けて、ただ、じっと見つめて。余計なことは考えなくていい。この鉄が覚えている痛みを、鏡の中へ移してあげるだけ」
オレは震える手でポケットから鏡を取り出した。まるで自分の手ではないかのように震えていて、鏡を落とさないようにするのに一苦労だった。そして、小春さんに言われた通り、曇り一つない鏡面を刃に向けた。禍々しく光る包丁の刃が映り込む。
しばらくすると、鏡を持つ右手に、砲丸投げの鉄球を抱えているかのような、ずっしりとした重さが伝わってきた。
「う、……重い」
いや、物理的な重さではないのだ。何というか、まるで、粘り気のある黒い泥を腕に絡みつかせられているような、じっとりとした重圧だ。見れば、鏡の中で、包丁の反射が激しく波打っている。オレの額から脂汗が流れ、石畳に落ちた。オレは歯を食いしばり、鏡を支える指に力を込めた。
「イメージとしては、洗うという感覚に近いかな。鏡の中に溜まった不純物を、一点の濁りもない鏡の面で濾し取っていく――そんなイメージ」
脂汗を垂らしながら、じっと鏡を刃に向けているオレに向かって小春さんが言った。
静かな格闘。
どれくらい経っただろうか。不意に、腕を縛り付けていた重みがふっと消えた。途端に五感が戻ってきた、と言えばいいのだろうか、研ぎ屋の奥から漂う、清潔な砥石と水の匂いを感じ、それがやけに清々しかった。
「……あ」
オレの手の中にある包丁は、先ほどまでと同じ形をしている。だが、その刃紋は澄み渡り、冷徹なまでの静謐さを取り戻していた。先ほどまで見えていた裁かれた魚たちの虚ろな目はきれいに消えていた。
「……合格。よく耐えたわね」
小春さんがオレの肩を叩く。彼女の手は温かく、強張っていた全身から力が抜けた。職人の老人は包丁を受け取ると、満足げに一度だけ頷いた。
「おおきに。これでまた、明日から気持ちよう仕事ができる」
店を出ると、夕暮れ時の一番星が、京都の狭い空に光っていた。オレの右腕は、まだ使い物にならないほど痺れている。手のひらを握ったり開いたりを繰り返しながら、
「……小春さん。封じ屋って、こういう地味なことも多いんですか?」
「当たり前でしょ。大きな魑魅魍魎退治なんて滅多に起きないわ。でも、こういう小さな澱みを放っておくと、それが集まって、いつか取り返しのつかない化け物になる。……だから地道に歩いて、小さいうちに封じるのよ。私たちの仕事は、街の掃除屋」
「なるほど…… ところでこれ、このまま持ってて大丈夫なんですか? 鏡が、さっきより重く感じるんですけど」
小春さんは足を止めず、市場の喧騒を避けるように細い路地を折れた。
「そうね。器の中に生ゴミを入れっぱなしで、気分がいいわけないわね。……ここなら、誰にも邪魔されないわね」
たどり着いたのは、袋小路の奥。古い土蔵の影が深く落ち、人通りの途絶えた静かな場所だった。小春さんは立ち止まると、自分の鞄から小さな革袋を取り出した。
「鏡を出して」
小春さんに促され、オレはカバンから鏡を取り出した。驚いた。さっきまで一点の曇りもなかった鏡面が、今はまるで薄汚れた油をぶちまけたように、どす黒く濁っている。 表面を覗き込んでも、自分の顔すらまともに映らない。
「うわ……なんだこれ。……真っ黒だ」
「それが、さっきの包丁に溜まってた澱みの正体よ。……八瀬君、鏡をそこに置いて」
小春さんはそう言うと、革袋から黒光りする火打石と、ずっしりと重そうな火打ち金を取り出した。
「……火打ち石? それでお祓いするんですか?」
「えぇ。魑魅魍魎は封印堂に封じ、澱みの類は火打ちの火花で、その場で焼き切って無に帰す。それが封じ屋の作法よ」
へぇっと感心するオレをよそ目に、小春さんはオレの目の前で、火打ち金を石に鋭く打ち下ろした。カチッ、と高い音が響き、真っ白い火花が鏡面に向かって飛び散る。
「ひっ……!」
「さ、今の要領でやってみて」
と言っていきなり火打石を渡された。
「え、いきなり?」
「時代劇とかで見たことあるでしょ? あの要領でやればいいのよ」
ふむ。そう言われ、とりあえず火打ち金を石にぶつけてみる。
カチッ、カチカチッ!
小春さんのようにうまくはいかないが、それでも火花が鏡面に当たるたび、ジュッ……と、肉を焼くような、あるいは濡れた雑巾に火を近づけたような、嫌な音がした。それと同時に、鼻を突くような生臭い匂いが立ち上る。
でも火花が散るたび、鏡の表面にこびりついていた黒い油が、煙となって消えていく。
「もっと強くイメージして。火花を鏡の中の濁り全てにぶつけるのよ!」
小春さんの声に押され、オレは力を込めて石をぶつけた。
カチィィィン!
ひときわ大きく散った火花が、鏡の芯まで貫いた気がした。その瞬間、鏡面から最後の一筋の黒い煙が立ち上り、夕暮れの空へと溶けていった。
「……ん、よくできた。それで、おしまい」
小春さんが火打ち石を片付けると、鏡は元の、一点の曇りもない透明な輝きを取り戻していた。不思議なことに、あんなに激しく火花を浴びたのに、鏡面は冷たく、むしろ以前より清々しい気配さえ纏っているように見えた。
「……あ、……右腕の痺れも、消えた」
「澱みを焼き払えば、同調していた君の腕も解放される。……お疲れ様。これが、道具を仕舞う前の最後の手入れよ」
小春さんはそう言って、オレの鏡を丁寧に拭ってから返してくれた。鏡がずいぶん軽くなった気がした。物理的な重さは変わってないはずなのに、今はまるで、羽のように軽く、それでいて確かな信頼感を持って手に収まっている。
鏡のお祓いが済んで、小春さんに着いて行くと、また錦市場の方向に戻っていく。これからもう一件仕事だろうかと思っていたら、市場の角にある惣菜屋に立ち寄った。
「おばちゃん、コロッケ二つ。揚げたてで!」
さっきまでの厳かな空気はどこへやら、小春さんは手渡された紙包みのコロッケを、熱そうにハフハフと頬張る。
「……食べる? 八瀬君の分。今日はよく頑張ったから、おごりよ」
差し出されたコロッケからは、香ばしいラードの匂いと、ジャガイモの甘い湯気が立ち上っている。一口齧ると、サクッという快い音とともに、先ほどまで喉に張り付いていた鉄の味が綺麗に上書きされていった。
「……おいしいです!」
「でしょ? 悪いものを見た後は、美味しいものを食べる。これが封じ屋の鉄則。……さあ、小屋に帰るわよ。八瀬君の修行は、まだまだこれからなんだから」
夕闇が迫る京都の路地裏。コロッケの温もりを手に、オレは、自分が手にしている鏡の重みが、ほんの少しだけ自分の一部になったような気がした。




