第26話 軍神顕現
「……バカな。鏡が砕けて、なぜ……」
目を開いて立ち尽くしていたのは小春さんだけではない。完璧だった阿久津の鉄面皮が、初めて剥がれ落ちた。その瞳に、計算外の神威に対する戦慄が走っている。
オレの背後に立ち昇ったのは、青白い炎を纏った巨大な武者の影。三面六臂の異形の姿でありながら、その眼差しは凪いだ海のように静謐で、狂ったように吹き荒れていた京都の妖気を、一瞥の下に平伏させた。
「……摩利支天。陽炎の神、勝利の女神……」
小春さんが呆然と見上げる。
「形ある鏡を捨てて、八瀬君自身が鏡になったのね……」
オレの意識は、半分は自分の体の中にあり、もう半分は、背後の巨大な影と同調していた。
体中が燃えるように熱い。血液が沸騰しているかのようだ。だが、不思議と怖くはない。ただ、目の前の黒い口から這い出そうとしている、千年の膿のような塊を――今すぐ、あるべき場所へ押し戻さなければならない。その確信だけがオレを突き動かしていた。
「……グガァァァァァッ!!」
地面の穴から、白い手に続いて、巨大な髑髏のような頭部が姿を現した。それは、かつて平安の世で門の外に捨てられた数多の亡者たちの集合体。阿久津のたくらみの全貌が、現代の公園に露わになる。その咆哮一つで、周囲の住宅街の窓ガラスが粉々に砕け散った。
「……やらせない」
オレの声が、自分でも驚くほど重く響いた。オレが手を前に突き出すと、背後の摩利支天の影も、六つの腕のうち一本を突き出した。そこには、砕け散ったはずの鏡の破片が再構成され、一本の光の槍となって握られていた。ただの光じゃない。阿久津が解き放ち、オレがこの身に引き受けた「京都中の呪い」そのものが、一滴残らず槍の穂先へと吸い込まれていくのがわかった。
「……オレの中に溜まったゴミだ。全部、熨斗をつけて返してやるッ!! ……行けッ!!」
オレの叫びとともに、背後の摩利支天が放った光の槍は、夜空を裂き、巨大な髑髏の漆黒の喉元に深々と突き刺さった。
ギィィィィィヤァァァァッ!!
鼓膜が破れるほどの絶叫。
「……おのれ、これほどのイレギュラーが起きるとは……!」
阿久津が懐から、漆黒のお札を取り出した。
「だが、まだ終わらない! 私はこの日のために、自分の魂さえも代償にしてきたんだ!」
阿久津の体が、ドロリと黒く溶け始めた。彼は自らを、この巨大な髑髏をこの世に繋ぎ止めるための肉の楔に変えようとしていた。
その時だ。オレの耳に、幾重にも重なった声が届いた。不思議堂の御門さんと、小屋にいるヒカリさんの声だ。スピーカーにしたままポケットに入れた携帯からなのか、それとも摩利支天の力なのかはわからない。ただ、彼らの声を聞いただけで、力が湧いてくるのがわかる。
「……聞こえるか、八瀬! 小屋の逆流は完全に止まった! 今から、この封印堂に残っている全妖力を、お前に送る!」
「八瀬君、最後よ! 封印堂に閉じ込めたゴーレムも、地縛霊も、全部あんたの力に変えて!」
遠く嵯峨野から、一本の眩い光の柱が空を貫き、西寺跡へと降り注いだ。小屋を守り抜いたヒカリさんたちの想い、そして歴代の封じ屋たちが鏡の中に遺してきた意思が、オレの背中の摩利支天へと流れ込み、その手に新たな輝く光の槍となって顕現した。
「みんな……!」
オレは、その光り輝く槍を両手で握り直した。
「……阿久津。あんたが解き放とうとした闇、全部まとめて……オレが引き受ける!」
「できるものか! 人の身で、千年の業を背負うなど……!」
溶けかけた阿久津が叫ぶ。
「……一人じゃないから、できるんだ!」
一歩、大きく踏み出す。背後の摩利支天が、六つの腕すべてを広げ、ラスボスと阿久津を包み込むように抱きかかえる。
「……封じ、……いや」
オレは、魂の底から叫んだ。
「……浄化ッ!!!」
眩い青い光が、公園全体を、いや、京都の街すべてを飲み込んでいった。




