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第25話 解き放たれしもの

 オレは公園に壊れた鏡をかざした。ヒビから漏れる青い光が、公園の中央にある、かつての西寺の礎石の跡だったとおぼしき盛り土を照らし出す。そこには、スーツを完璧に着こなした阿久津が、まるで夜の散歩でも楽しむように立っていた。


「阿久津ッ……!!」

 小春さんの叫びを無視して、阿久津が足元を指差した。

「……遅かったね。もう彼の指先は、こちらの土を掴んでいるよ」

 そこには、地面にポッカリと空いた穴があった。いや、それは穴というより、空間に開いた黒い口だった。そこから、平安時代から千年以上、歴代の封じ屋が押し込めてきた濃縮された魑魅魍魎の怨念が、腐ったガスのごとく噴き出している。

「阿久津! 今すぐやめなさい! そんなものを出したら、京都だけじゃ済まないわよ!」

 小春さんが叫ぶが、阿久津は静かに首を振った。

「やめる? 違うよ。私はただ、溜まりすぎたものを逃がしてあげているだけだ。……君たちが封印という名の先送りを続けてきたせいで、この街の地下はもう限界なんだ。……ねえ、君もそう思うだろう? 封じ屋小春の留守番役くん」

「は?……留守番役? 何のことだ……」

 その時、小春さんのスマホが激しく鳴った。

「……ええい、こんな時に誰!? ……ヒカリ!? 何かあったの!?」

 スピーカーから漏れてきたのは、猛烈な風の音と、ヒカリさんの悲鳴だった。

「小春さん! 大変! 小屋が……嵯峨野の小屋が、内側から弾けそうになってる!」

「なんですって!? ってか、ヒカリ、あんた不思議堂にいたはずじゃ――」

「不思議堂の前にいた影どもが、急に消えたのよ! そしたら御門さんが、阿久津は狙いを小屋に変えた、すぐ戻れ!って。で、私が御門さんの軽トラ飛ばして小屋まで戻ってたの!」

「親父は!?」

「御門さんは、店が穴だらけで動けないからって、一人で不思議堂に残ってる! でもこっちも限界よ! カゲとトラが必死で抑えてるけど、封印堂の扉が内側からひしゃげ始めてる……! 阿久津がどっかで蓋を開けたせいで、溜まった妖気が全部、唯一の逃げ道である小屋の封印堂に逆流してるの! 御門さんも、このままじゃ小屋ごと山が吹き飛ぶって……!」

「……っ!!」

 オレは背筋が凍りついた。

「そう言うことか。阿久津はこの西寺跡から魑魅魍魎の怨念を解き放ち、封じ屋の小屋に流し込んでるんだ! だから京都の町に張った術式の五芒陣は十一時の小屋のところだけが空白だった! 西寺跡は「入り口」で、嵯峨野の小屋は「出口」になっていたんだ!」

「どうやらそのようね。阿久津がここで災いを呼び込めば、その余波と圧力で、小屋にあるこれまでの封印がすべて吹っ飛ぶ……卑怯な真似を!」

 小春さんの目が、怒りで燃え上がった。


「卑怯? 心外だな。私はただ、入り口と出口を繋いだだけだよ。……さあ、選ぶがいい。ここで私と戦って千年の澱みの顕現を許すか、それとも今すぐ嵯峨野に戻って、崩壊する小屋を守るか」

 阿久津が指を鳴らすと、地面の口から這い出したのは、白く透き通った無数の腕が、まるで大蛇のように絡み合って形成された巨大な右腕だった。その手一つで、公園の街灯が飴細工のようにひしゃげる。

「……デカい……片手だけであれだけデカいとか、全身が出てきたらどうなるんだよ」

 オレの鏡が、パリンッ、と音を立ててさらに細かく割れた。

「小屋を見捨てるわけにはいかない……。でも、ここであいつを逃がしたら、すべてが終わる!」

 オレは、ヒビだらけの鏡をじっと見つめた。鏡面に、必死で祠を守るカゲとトラ、そして泣き出しそうな顔で鏡を構えるヒカリさんの姿が一瞬だけ映った気がした。

「……小春さん」

 オレは、震える声で言った。

「小屋は……小屋は、ヒカリさんたちが守ってくれる。オレたちは、ここでこいつを叩く。……クロ!」

 オレの肩の上で、クロが逆立った毛を震わせながら、力強く「チュウッ!」と鳴いた。

「……よく言ったわ、新人!」

 小春さんがお札を扇状に広げる。

「阿久津! あんたの思い通りにはさせない。小屋もこの街も、全部私たちが守るっ!」

 現代の小さな公園で、千年の災いとの、本当の戦いが始まった。


「……アハハッ! そう来なくっちゃ!」

 阿久津が歓喜に歪んだ声を上げた。地面の口から這い出した巨大な白い手は、公園の地面をひっかき、コンクリートを紙細工のように引き裂きながら、その本体を現世へと無理やり引きずり出そうとしていた。その手が動くたびに、大気が震え、オレの肺を押し潰そうとする。


「八瀬君、鏡を最大出力で固定して! 私が叩く!」

 小春さんが、懐からこれまでに見たこともない金色の糸が織り込まれた特製のお札を取り出した。彼女の周囲の空気が、パチパチと青い火花を散らし始める。

「九字護身法、臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前ッ! 摩利支天の加護をここに!」

 小春さんの放ったお札が、白い手の甲に深々と突き刺さり、猛烈な雷光を放つ。

 ギギギギィィィッ……!

 この世のものとは思えない耳障りな絶叫が、公園の空間を震わせた。


 その時、オレのポケットの中でスマホが震えた。スピーカーで取ると、ノイズ混じりのヒカリさんの叫び声が響く。

「……っ、もうダメ! 小屋の封印堂の扉が、中から押し破られそう! 逆流が止まらないの! 御門さんから、八瀬に伝えろ、バケツの底を抜け!って伝言きたけど、意味がわかんないわよ!」

「バケツの底を……抜け……!?」

 オレは、ヒビだらけの鏡を凝視した。指先から伝わる振動は、もう限界を超えていた。

 御門さんはさっき、オレのことを「京都中の下水を抱え込もうとしているバケツ」だと言った。溜めれば、いつか溢れる。溢れれば、バケツは壊れる。なら――最初から、底を抜いてしまえばいい。

「……底を抜くって……全部、鏡の中に飲み込ませるんじゃなくて、オレが受け止めろってこと!?」

 オレは一歩、また一歩と、巨大な白い手へと歩み寄った。近づくたびに、パキパキと、鏡がさらに細かく砕けていく。その破片が手の甲を切り裂くが、もはや痛みすら感じない。

「阿久津! あんたの狙いは、この西寺跡から災いを出して、嵯峨野の小屋を壊すことなんだろ!」

「……おや。何をしようというんだい? その壊れかけの鏡で」

 阿久津が不敵に目を細める。

「……封じるんじゃない。……オレが、道になるんだ!」

 もう一歩、白い手に近づくとパキリと、鏡がさらに砕ける。その瞬間、鏡のヒビから、闇夜を照らさんばかりの、眩い青い光が漏れ出し、オレの視界を真っ白に染め上げた。

「……吸い込め、全部! 小屋へ行くはずの妖気を、全部オレがここで引き受けてやる!」

 鏡のヒビが、羅城門の方から流れ込む黒い霧を、そして地面の口から溢れ出す災いの欠片を、猛烈な勢いで吸い込み始めた。


「……ぐ、あああああッ!!」

 腕がもげそうなほどの衝撃。オレが掲げた鏡を通して、京都中の怨念がオレの身体に濁流となって流れ込んでくる。骨がきしみ、血管が破裂しそうな圧迫感。だが、そのおかげで、スマホの向こう側のノイズが静まり、ヒカリさんの驚いた声が聞こえてきた。

「……え? 圧力が引いていく……。小屋の振動が止まったわ! 嘘でしょ、何をしたの八瀬君!?」

「……やった……!」

 小春さんが、その隙を逃さずに白い手に最後のお札を叩き込もうとした。しかし、阿久津は動じなかった。

「……なるほど。自分を犠牲にして逃げ道を作ったか。……だが、それは器が耐えられればの話だ」

 阿久津が、慈悲のない目で地面の口を凝視し、将門の怨念の欠片を宿した、自らの真っ黒い右腕を突き出した。

「……お目覚めだ。平安の影、その心臓を」


 ドクン。

 地面の底から、今までとは比較にならない巨大な鼓動が響いた。公園の地面が、生き物のように大きく脈打つ。白い手が、オレの鏡の吸引力に抗うように、指を大きく広げ――オレの胸ぐらを掴もうと、闇の中から跳ね上がった。

 そして、鏡が、限界を迎えた。

 ピキィィィィィィンッ!

 鏡面が粉々に砕け散り、オレの手の中から、鏡が消えた。

「……あ……」

 世界から音が消え、時間が止まる。呼吸も止まる。小春さんもオレも、止まる。ダメだ、ここまでか……

「……終わったよ、新人くん」

 阿久津が、勝ち誇ったように笑い、巨大な白い指が、オレの眼前に迫った。


 だが。

 砕けた鏡のその破片は、地面に落ちることなく、オレの周囲を浮遊し始めた。青い光を放つ無数の欠片。それが、オレの背後で一つの形を成していく。

「え……?」

 小春さんが、目を見開いて立ち尽くす。その目に映ったのは、巨大な、そして神々しいまでの光を纏った、猪の背に跨る騎馬武者のような影――。

「……摩利支天……?」

 小春さんの呟きが、夜の公園に震えながら響いた。


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