第24話 西寺跡へ
「……ク、ウ……人……新鮮……人間……」
牛鬼が、血走った眼を爛々と輝かせ、オレに向かって蹄を鳴らした。その巨体から放たれる圧倒的な妖気が、不思議堂で体感したのとはまた違う、内臓を直接掴まれるような嫌な振動となって、割れた鏡を通してオレの身体に伝わってくる。
「……っ」
オレは歯を食いしばり、ヒビの入った鏡を突き出し続けた。鏡の表面に走る青い光の筋が、牛鬼の接近に呼応して、警告灯のように激しく点滅している。
「八瀬君、下がって! 奴はその壊れかけの鏡を狙ってる!」
小春さんがオレの前に立ちはだかり、懐からお札を取り出し、マントラを唱えながら連射する。
「オン・マリシエイ・ソワカ! オン・マリシエイ・ソワカ!」
お札は次々と牛鬼の体に貼り付き、青い火花を散らして奴の動きを封じようとする。しかし、牛鬼は苦悶の声を上げながらも、その歩みを止めない。お札が貼り付いた場所から、奴の体の一部が黒い霧となって霧散するが、すぐに周りから流れ込む妖気を取り込み、再生していく。
「……ダメだ、キリがないわ! この街全体が奴らの回復薬になってる!」
小春さんの焦りに満ちた声。その時、オレの鏡が、パリンッ……とまた微かな音を立て、ヒビを広げた。その亀裂の先が指し示すのは、牛鬼の背後……さらに奥、夜の闇が最も濃く澱んでいる場所だった。
「……小春さん、あっちです! ヒビの光が、あっちに行けって叫んでる!」
「……やっぱり元凶はあっちか」
小春さんが顔をしかめた。
「でも、その前にこいつをどうにかしないと!」
牛鬼が巨大な角を突き出し、小春さんに向かって突進してきた。
「小春さんっ!」
オレが叫ぶのと同時に、オレのカバンの中から、真っ黒な塊が飛び出した。
「……チュウゥゥゥゥッ!」
クロだった。臆病で、いつも震えていたあのネズミが、牛鬼の顔面めがけて一直線に飛び込んだのだ!
「えっ、クロ!?」
クロは牛鬼の巨大な鼻先にしがみつくと、奴の鼻の穴に、その小さな体を強引にねじ込んだ。
「……グ、オォォォォォッ!?」
牛鬼が、突然の異物に悶え苦しみ、突進の軌道を大きく逸らした。奴は鼻をフンフンと鳴らし、地面に顔をこすりつけてクロを追い出そうとする。
「……今よ、八瀬君! 鏡を構えて!」
オレは震える手で鏡を両手で握りしめた。ヒビ割れたガラスの中に、必死な形相をした自分の顔が歪んで映っている。
「……封じるんじゃない、……逸らすんだ!! 道になれ、樋になれ!」
オレは御門さんの言葉を頭の中でくり返し、屋根から落ちる濁流を、地面へと逃がすイメージで、鏡のヒビから漏れ出す青い光を、暴れる牛鬼の眉間へと真っすぐに叩きつけた。
「……弾けぇぇぇッ!!」
閃光が爆発し、牛鬼の巨体が、まるで濁流に押し流されるように闇の奥へと弾き飛ばされていく。その衝撃で鼻の穴から放り出されたクロが宙を舞っていた。
「やった……?」
「いいえ、追っ払っただけ。……でも今はこれで十分。クロもよくやったわ、ありがとう」
小春さんはそう言って、クロを肩に乗せてあげた。クロは誇らしげに鼻を鳴らしたが、その体はまだ小刻みに震えていた。
牛鬼を退けたものの、内臓を掴まれている感覚は消えるどころか、より一層激しさを増していた。鏡のヒビからは、京都中のドブをひっくり返したような怨念が、止まることなく流れ込み続けている。
「……はぁ、はぁ……小春さん、あっちです。羅城門のすぐ西側……。そこから、この世の終わりみたいな音が聞こえてくる……」
小春さんがハッとして、懐からあの地図を取り出した。
「羅城門の西……西寺跡か! 東寺は今も残っているけど、西寺はとっくに廃寺になって、今はただの公園だ。……阿久津の奴、街の守りが一番手薄な空洞を、地獄への穴に作り変えたんだわ!」
オレたちは、街路樹の影から這い出してくる無数の何かを振り切り、夜の闇に沈んだ西寺跡へと駆け込んだ。
「西寺跡……ここね」
小春さんが足を止めたのは、住宅街の中にぽつんと取り残されたような、何の変哲もない小さな公園だった。ブランコがあり、砂場があり、ベンチがある。昼間なら子供たちの笑い声が響いているはずの場所。だが今は、公園全体がどろりとした墨汁をぶちまけたような闇に包まれ、空間そのものが震えている感じがした。
「現代の地図ではただの公園だけど、霊的には千年の空白地帯……阿久津はここを、あっち側からラスボスである元凶を引きずり出すための降霊場に使っているんだわ」
そう言って、小春さんが公園の中に入ろうとしたその時、
「……っ、こ、小春さん、ちょっと待って」
オレは、その場に崩れ落ちそうになり、膝を突いた。たいして走ってもいないのに、心臓が破裂しそうだ。鏡のヒビから漏れ出てくる妖気が、まるで毒液のようにオレの血管を、神経を、蝕み始めているのが分かった。オレは、両膝に手を置いて、はぁはぁと身体全体で息をした。
「そんなに走ってない、のに……はぁはぁ……何でだろ」
「八瀬君……(ダメだ、早く阿久津を止めないと、この子の身体がもたない!)」
「すいません、もう大丈夫……です。行きましょう」
オレは震える手で鏡を掲げ、小春さんに向かって笑おうとしたが、強張った顔の筋肉がひきつり、うまく笑えなかった。小春さんは一瞬、何かを言いかけたが、唇を噛み締め、オレの肩を強く叩いた。




