第23話 京都崩壊
「……ふざけるな、阿久津ッ!」
小春さんの叫びが、屋根の空いた不思議堂にこだました。
しかし、屋根の上に立つ阿久津は、まるで夜風を楽しむかのように目を細めているだけだった。彼の足元から溢れ出した黒い影は、烏丸通りのアスファルトに染み込むように広がり、街灯の光を次々と飲み込んでいく。
「小春さん、あれ! 影が、動いてる……!」
ヒカリさんが指さす先、街路樹の影や建物の隙間から、実体を持たない何かが這い出し、互いに混ざり合いながら巨大な生き物のようにうねり始めていた。
「千年もの間、みなさんが魑魅魍魎を封じることで、この街を形作ってきた秩序という名の蓋。それを今、少しだけ緩めさせてもらったよ。……ほら、聞こえるだろう? 解放されたヤツらの歓喜の声が」
阿久津が空を仰ぐと、遠く、南の方角から、地鳴りのような低い音が響いてきた。ドン、と腹に響くその音は、かつて平安京の正門があった場所――羅城門跡のあたりから、何かが目覚めたような、地底からの咆哮だった。
「……親父、これって」
小春さんの問いに、御門さんは、床に突き刺さった楔を忌々しそうに蹴り飛ばしながら答えた。
「あぁ。羅城の向こう、つまりこの世の外に追いやられていた連中が、一斉にこちらに向かって逆流し始めてやがる」
「そんな……! 街中、魑魅魍魎だらけになっちゃうじゃないですか!」
オレは割れた鏡を握りしめたまま叫んだ。鏡のヒビからは、いまだに不気味な熱気が漏れ出している。
「親父! この楔をどうにかして! このままじゃ不思議堂の結界が中から腐る!」
「分かってる! 騒ぐな!」
御門さんはカウンターの下から、錆びついた分厚い鉄の箱を取り出した。
「ヒカリ、お前は鏡を全開にして、店の入り口を固めろ。あの影どもを一匹たりとも入れるんじゃねぇぞ。新入り、お前は……」
御門さんがオレを鋭い目で見据えた。
「そのヒビの入った鏡を持って、小春と一緒に行け」
「えっ、行けってどこへ? しかも鏡がこの状態で!? 割れてるんですよ!」
「割れたからこそ、見えるもんがあるんだよ」
御門さんはオレの手首を掴み、鏡を無理やり覗かせた。
「いいか、八瀬。本来、封じ屋の鏡ってのは完全な密室だ。外の穢れを一切入れないからこそ、中にバケモノを閉じ込められる。だが、お前の鏡はヒビが入って、外と中が繋がっちまった状態だ」
「繋がった……?」
「そうだ。お前の妖力と、外に溢れ出したドブ川のような魑魅魍魎の怨念が、そのヒビを通じてもう混ざり始めてるんだよ。……お前、さっきから頭がふらふらしたり、変な音が聞こえたりしてねえか?」
言われてみれば、そうだ。不思議堂に来てから、ずっと耳の奥で誰かがすすり泣くような音が止まらない。
「それはお前が察知してるんじゃねえ。向こうの親玉が放ってる波長が、お前の鏡のヒビに勝手に流れ込んできてるんだ。拒否権はねえぞ。お前は今、敵の悪意をダイレクトに受信しちまう壊れたラジオみたいなモンなんだよ」
「……それ、放っておいたらどうなるんですか」
「お前の精神が、外の澱みに染められて、向こう側に引きずり込まれる。……だが逆を言えば、その嫌な予感のする方角へ走れば、バケモノどもの元凶に辿り着けるってことだ。毒を食らわば皿までだ、その不快感を頼りに大元を突き止めろ」
「大元って言ったって……」
「あぁ。一歩間違えれば、お前自身がその大元のバケモノに取り込まれる。だが、やるしかねえだろ。……行け、小春を支えてやれ!」
任せてください! とは言えなかったが、この鏡だけが魑魅魍魎の元凶にたどり着けるヒントをくれるなら、行くしかない。オレは覚悟を決めた目で小春さんを振り向いた。すると、
「……行くよ、八瀬君!」
待ってましたとばかりに小春さんがオレの腕を掴んだ。が、不思議堂を飛び出したオレたちの目に飛び込んできたのは、変貌した京都の夜景だった。烏丸通りは、地獄の門が開いたかのような惨状だった。街灯は断末魔のように明滅を繰り返し、アスファルトの裂け目からは、どろりとした腐臭を放つ黒霧が噴き出している。
「止まらないで、八瀬君! 影に触れたら引きずり込まれるわよ!」
小春さんが鋭く叫び、走りながらお札をバラ撒く。お札が地面に触れた瞬間、青い火花が散り、襲いかかろうとした影を一時的に退ける。だが、その結界も数秒と持たず、霧に飲み込まれていく。
「小春さん、あそこ!」
オレが指差した先。夜の闇にそびえ立つ京都タワーが、巨大な、返り血を浴びた杭のように赤く光っていた。タワーの周囲を、巨大なカラスの群れのような影が、渦を巻いて飛び交っている。
「……あれはカラスじゃない。千年の間、羅城門の瓦の下に封じられていた怨嗟の塊よ……。阿久津の奴、本当に蓋を開けやがった!」
そんな街の中をオレたちは走り抜けて行った。
「……ねえ小春さん。さっきから、変なんだ」
走りながらオレは鏡を覗き込んだ。鏡のヒビに沿って、細い青い光の筋が、まるで地図のルート案内のように街の奥へと伸びている。
「鏡が、あっちに行けって言ってる気がする」
「……あっちってどっち?」
「わからない。でも、この光の筋に沿って行けって言われてるというか……」
オレが説明を始めたその時、前方の暗闇から、グ、オォォォォォッ!! っと空間を震わせるほどの咆哮がした。オレたちは本能的に立ち止まり、音のした方向に目を凝らすと、霧の向こうから、巨大な、あまりにも巨大な影が姿を現した。
牛の頭に、蜘蛛の体。赤く血走った眼が、サーチライトのようにオレたちを射抜く。
「……ゲッ、牛鬼!? こんな街中に!?」
小春さんの声が、初めて恐怖で微かに震えた気がした。かつて池田さんを……小春さんの師匠を死に追いやった百会とはまた違う、純粋な暴力の権化が、オレたちの行く手を塞いでいた。ヒカリさんがいない今、戦力は小春さんと、頼りないオレ、割れた鏡、そしてカバンの中で震えているクロだけだ。
「……ク、ウ……人……新鮮……人間……」
牛鬼が喉の奥で、岩を砕くような低音を鳴らした。滴り落ちる毒液がアスファルトを煮えたぎらせ、立ち昇る煙が鼻を突く。
「八瀬君、鏡を構えて! 封じなくていい、そのヒビから漏れる光で奴を威嚇して!」
「……やってみます!」
オレは、ヒビの入った鏡を両手で握りしめた。指先から伝わる振動は、もう嫌な予感なんてレベルじゃない。内臓を直接掴まれ、雑巾のように絞り上げられるような、吐き気を伴う悪意。
そして、オレが鏡を突き出した瞬間、ヒビからパチパチと青い火花が飛び散った。牛鬼は一瞬たじろいだが、すぐにニタリと口を裂いて笑った。奴らはオレたち完全に餌として見ているようだった。
「……冗談じゃない。こんなところでお前たちの餌になんかなってたまるか!」
オレの叫びに呼応するように、鏡のヒビがさらに大きく、ピキリと音を立てて広がった。




