第22話 先制攻撃
「……マを、押さえろ!」
御門さんの怒鳴り声が耳の奥で反響する。
オレは震える親指を、鏡の中心にあるあのdを逆さまにしたような文字に押し当てた。その瞬間、鏡から心臓の鼓動のようなドクンッ、ドクンッという凄まじい振動が伝わってきた。それは鏡の振動じゃない。鏡の中に封じられた「何か」が、オレの鼓動を無理やり乗っ取ろうとするような、おぞましい共鳴だ。指先から全身へ、高電圧の電流を流し込まれたような衝撃が走る。
「熱っ……!」
指先が焼けるようだ。だが離せない。
天井のシミは刻一刻と広がり、そこから黒い油のような液体がポタポタとカウンターに滴り落ちる。それが触れた場所から、木の表面がシュウシュウと音を立てて腐食していく。
「ヒカリ、八瀬君の両脇を固めて! 逃がさないよ!」
小春さんが叫びながら、懐から束になったお札を取り出した。
「オン・バザラダト・バン!」
小春さんとヒカリさんが同時に九字を切り、オレを囲むようにして光の障壁を築く。その時だった。メキィッ……メキメキメキィッ!と、乾いた木材がへし折れる音がして、天井が弾け飛んだ。
ドォォォォォンッ!!
再びもの凄い音がした。だが、爆風ではない。純粋な質量が建物をぶち抜く音。瓦礫と土煙が舞う中、天井から降ってきたのは、巨大な、真っ黒な杭だった。
太い丸太ほどもあるその杭には、剥がれかけた呪符が鱗のようにびっしりと張り付いており、その一枚一枚が濡れた唇のように小刻みに震え、無数の「声」を吐き出している。
「なにこれ! これ……楔?」
ヒカリさんが歯を食いしばり、精一杯の妖力で障壁を維持しながら叫ぶ。
「花山洞の地縛霊なんて比じゃないわ。これは、京都のあちこちに眠っていた魑魅魍魎たちの古い怨念を、あの男が無理やり一本に束ねたものよ!」
小春さんの顔から余裕が消える。
楔は、光の障壁に阻まれ空中で静止し、その先端を正確にオレの鏡……いや、オレの胸元に向けていた。
「……ターゲットは、八瀬君だっ!」
ヒカリさんの声が震えている。
すると、楔が、キィィィィンと高音を上げた。空気が歪み、重力が狂う。オレの足元の床が、楔から放たれる重圧だけで蜘蛛の巣状にひび割れていく。
「(逃げろ。今すぐこれを捨てて逃げろ)」
本能が脳内でそう喚き散らす。だが、指が鏡に吸い付いて離れない。
「八瀬! 鏡を逸らせと言っただろ! バケツを傾けろ!」
御門さんの声が飛ぶ。だが、できない。楔から放たれる圧倒的な圧迫感に、指一本動かすことができない。まるで巨大な磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、オレの意識がその黒い塊に持っていかれそうになる。
その時、オレの耳元で、あの男の声が聞こえた気がした。
「君はまだ、観測されていない側の人間だ。こちら側に来るといい」
「……う、るせぇ……!」
オレは歯を食いしばった。
「観測されてるとか、されていないとか、そんなの知るかよ。勝手にオレの人生を観測して、勝手に結末を決めるんじゃねえ! オレは……鏡を持たされたんだ。だったら、使い道くらい自分で決める!」
「……うおおおおおっ!」
オレは、焼けるような親指にさらに力を込め、鏡を真上に突き出したまま、強引に横へと薙ぎ払った。鏡の中の「マ」の文字が、今まで見たこともないほど鮮烈な青い光を放つ。
キィィィィィィィンッ!
金属同士が激突したような、鼓膜を引き裂く高音が店内に響き渡る。
ドォォォォォォンッ!!
黒い楔は、鏡から放たれた青い光に弾かれ、軌道を変え、その巨大な質量を無理やり横へと逸らされた。そして、不思議堂の分厚い床板を紙細工のようにぶち抜き、地下深くに張られていた結界の基盤へと突き刺さった。
「っはぁ……はぁ……はぁ……」
肺が焼ける。酸素が足りない。膝が笑い、崩れ落ちそうになるのを、ヒカリさんが背後から支えてくれた。
「やった……?」
ヒカリさんの腕を掴みながらオレが聞く。
「いや、まだだ」
御門さんが、床に突き刺さった楔を冷静な目で見つめていた。
「楔は打ち込まれた。不思議堂の結界を内側から破壊するために。……そして、もう一つ」
御門さんが指さしたのは、オレの鏡だった。鏡の表面に、まるで悲鳴が凍りついたような、鋭い亀裂が走っていた。
「え、鏡が……割れた……?」
「受け止めきれなかったんだ。あいつの悪意の重さをな」
鏡が割れちゃった……どうすりゃいいんだ。
パチ……パチ……パチ…… 静まり返った店内に、どこからか拍手の音が聞こえてきた。開け放たれた屋根の穴から、夜空を背にして、あのスーツの男が平然と立っていた。
「素晴らしい。やはり君は、私の想像以上に良い器だ」
男は月光を浴びて、優雅に一礼した。
「御門小春さん。そして、先代の御門さん。ご無沙汰しておりました、阿久津です。今日、この日をもって、京都の古い蓋をすべて外させていただきます」
男は満足げに目を細めた。一瞬の静寂。そして――パチンと男が指を鳴らした瞬間、足元から、黒い影が、まるで意思を持った濁流のように溢れ出した。それは不思議堂の壁を伝い、大穴から夜の烏丸通りへと、一気に流れ落ちていった。




