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第19話 東京・将門の首塚

 京都。烏丸通りの喧騒を背に、阿久津は新幹線の窓の外を眺めていた。

 手元には、古びた和紙の束がある。それは彼が解き師に転じる際、師匠である池田の書庫から密かに持ち出した禁書の一部だった。

「……京都の結界は、いわば水の檻だ。優雅で、湿り気を帯び、千年の時をかけて澱みを沈殿させていく。だが、東京は違う」

 阿久津は独りごちた。


 東京。かつて江戸と呼ばれたその地は、徳川家康と天海僧正によって、風水と陰陽道の粋を集めて設計された完璧な術式が組まれた都市だ。現代になって、その上に鉄道網が敷かれ、巨大なビルが建ち、魑魅魍魎たちが自由に行き来できる地下鉄までも網の目のように整備された。そして今や、東京のそれらすべてが巨大な回路として機能する鋼の装置となり、莫大なエネルギーを循環させている。


 彼が東京へ向かった理由は、単なる気まぐれではない。京の都に、千年の怨嗟にまみれた魑魅魍魎どもを解放するため、街全体に五芒陣の術式を完成させるには、外部からの圧倒的な衝撃が必要だ、静かに沈殿した京都の怨念を呼び覚ますための、起爆剤。それには、日本最大の怨霊にして、江戸の守護神でもある平将門の苛烈なまでの闘争本能が最適だと考えたのだ。

「待たせたね、江戸の主。君のその牙を、少しだけ借り受けるよ」


 東京駅に降り立った阿久津を待っていたのは、むせ返るような排気ガスの匂いと、無数の人々の無機質な殺意――ストレスという名の現代の澱みだった。


 大手町。超高層ビルが立ち並ぶビジネス街のど真ん中に、そこだけ時が止まったような空間がある。「将門の首塚」だ。阿久津がその聖域の結界に足を踏み入れようとした時、背後から鋭い声が飛んだ。

「そこまでだ、よそ者。ここは京都の解き師が遊びで来るようなところじゃない。阿久津……お前の噂は聞いてるよ」


 振り返ると、そこには黒いタクシーの横で、煙草を燻らす一人の男が立っていた。仕立ての良い三つ揃えのスーツを着ているが、その眼光は獣のように鋭い。

 男の名は九条 蓮。東京の裏側で、皇居を中心とした結界を維持し続ける、関東屈指の封じ屋だった。

「……おや、東京の封じ屋はタクシードライバーを兼業かい?」

 阿久津が皮肉を込めて微笑む。

「悪いが、東京は忙しいんでな。怨霊どもの回収もスピードが命だ」


 九条は煙草を地面に捨てると、左手首の時計にそっと手をやった。それは東京の封じ屋が使う独自の呪具――時を刻む振動で怪異を調律し、分解するクロノ・コンパスだった。

「京都の解き師が首塚に何の用だ。まさか、ここの封印を解くなんて正気の沙汰じゃないこと、考えてるわけじゃないだろうな?」

「正気だよ、九条くん。私はね、こんな排気ガスだらけの街で、千年も首だけで生かされ、挙句の果てにビル風に晒されている将門公が、あまりに不憫でね」

「御託を抜かすな……!」


 九条がクロノ・コンパスのベゼルを回す。

 カチ、カチ、カチ――という音とともに、空中に無数の青白い光の数式が展開される。それは周囲を流れるビル風の風速、湿度、気圧を瞬時に計算し、一つの点に収束させるプログラムだ。次の瞬間、阿久津を取り囲む空気が、目に見えない巨大なプレス機にかけられたようにギチギチと音を立てて圧縮された。逃げ場を完全に計算で塞がれ、真空になった中心部へ向かって、カミソリのような風の刃が四方八方から阿久津の全身を正確に切り刻みにかかる。

 感情も容赦もない、ただ対象を細切れにするという計算結果だけを叩きつけるような、冷徹な連続攻撃。それが九条の戦い方だった。東京の封じ屋は、京都のような情緒的な鏡は使わない。彼らの術は、都市の機能そのものを利用するのだ!


「ハハッ! 面白い! これが近代化された封じ屋の力か!」

 阿久津は闇の鏡を掲げた。鏡面から溢れ出した黒い泥のような妖気が、九条の放った真空の刃を飲み込んでいく。

「だが、論理では測れないのが情念というものだよ」

 鏡を首塚に触れると、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。九条は舌打ちし、次々と呪符を放つが、首塚から漏れ出した圧倒的な威圧感が、耳の奥を針で刺すような不快な金属音を上げ始めた。

「うぐっ」

 耳を抑えてしゃがみ込んだ九条をよそ眼に、阿久津が塚へと歩み寄る。そして、闇の鏡を首塚の石碑へと向け、無理やりその門をこじ開けようとした。その瞬間、九条の顔色が豹変した。

「やめろ! それに触れるな!!」

 だが、遅かった。阿久津のかざした鏡から、京都で封じられた魑魅魍魎たちの怨念が石碑へと流れ込む。

 ……静寂。そして、次の瞬間。

 ドォォォォォォォォォンッ!!!


 爆発ではない。空間そのものが悲鳴を上げた感じだ。……地響きすらしない。ただ、耳の奥で、爪でガラスを引っ掻き回すような不快な音が鳴り響き、喉の奥に鉄の錆びたような味が広がった。阿久津のすぐ横を歩いていたサラリーマンが、耳を抑えてその場に崩れ落ちる。周囲の街灯は、消えこそしなかったが、苦しそうに点滅し、濁った泥水のような色に変色した。


 やがて……石碑の奥から、一条の黒い光が天を衝いた。それは、かつて自らの首を求めて京から関東まで飛んで帰ったという将門公の執念そのものだった。

「……あ、……ぁ……」

 阿久津の喉が震えた。現れたのは、影。だが、それはあまりにも巨大で、あまりにも重い影だった。大鎧を纏った巨大な武者の幻影が、阿久津の頭上に顕現する。その手には、落雷をそのまま形にしたような大太刀が握られていた。

「コ、コイツは……」

 阿久津の計算が、初めて狂った。彼は将門の力を利用するつもりだった。京都の五芒陣を発動させるための、強力なバッテリー程度に考えていた。だが、現世に顕現した将門の意識は、阿久津の想像を遥かに超える力を持っていた。それは怨霊などという生易しいものではない。この地を統べる「王」の怒りだった。

 武者の影が、太刀を振り下ろす。ただそれだけの動作で、周囲のビル群のガラスが同時に割れ、地上に降り注いだ。

「カハッ……!!」

 阿久津は、防御のために構えていた闇の鏡ごと、地面に叩きつけられた。全身の骨がきしみ、内臓がせり上がる。九条もまた、自らの呪具を楯にしてしゃがみ込んでいた。

「言っただろう……! ここは……人が触れていい場所じゃないんだ!」


 将門の影は、阿久津を一瞥した。

 その瞳――そこには憎悪すらなく、ただ「不敬である」という絶対的な拒絶だけがあった。武者が再び太刀を掲げる。今度こそ、阿久津の存在そのものを歴史から抹消する一撃が放たれようとしていた。

「……クク、ハハハ……! そうか、これが本物か!」

 阿久津は血まみれの顔で笑った。死に直面し、彼はむしろ歓喜していた。これだけの力があれば、間違いなく五芒陣は発動できる! 京都の千年の澱みを確実に解放できる、と。


「だが、私はまだここで死ぬわけにはいかない……」

 阿久津の脳裏に、数日前に小春の店で会った、あの青年の顔が浮かんだ。彼には、小春のような『封じてやる』という気負いも、自分のような『解き放ちたい』という執念も、微塵も感じられなかった。ただそこに立っていただけだった。だが、本能的に感じた、あの器の大きさはどうだ。封じ屋として化けたら小春をも凌ぐのではないか。だとしたら、もし私がこの将門公の呪いを持ち帰れば、あの青年は一体どんな反応をする。壊れていくのか、それとも将門をも凌駕し、私の術式を完成させ、千年の澱みを解放する解き師になれるのではないか…… その結末をこの目で見届けたいという、酷く個人的で、ねじ曲がった好奇心が、阿久津の折れかけた心に火を灯した。


「まだ死ねぬ。私にはまだ、京都で見つけた最高の器が待っているのだ! ……鏡よ、喰らえ。王の怒りを、その身に刻め!」

 阿久津は禁忌の術式を起動した。闇の鏡を盾にするのではなく、生贄にしたのだ。鏡が、キィィィィィンと耳を刺す高音を上げ、将門の一撃を正面から受け止めた! 次の瞬間、闇の鏡の表面に、蜘蛛の巣状の巨大な亀裂が入る。鏡の中に溜め込んでいた数千の魑魅魍魎たちが、将門の放つ浄化の雷に焼かれ、絶叫とともに消滅していく。


「……あ、あぁ……」

 阿久津が絶望の吐息を漏らす。

 そして、鏡は耐えきれず、粉々に砕け散った。同時に、将門の怨霊を呼び出すための門を作った鏡が失われたことで将門の影も霧散していく。阿久津は、衝撃で十数メートルも吹き飛ばされ、首塚の参道の奥に転がった。

「……はぁ、はぁ……っ」

 鏡を掲げた右腕は、炭のように真っ黒に焼けている。

 九条がふらつきながら近寄り、阿久津の喉元に壊れかけの懐中時計を突きつけた。

「……殺してやる。今ここで……貴様を!」

 九条の目も血走っていた。東京の聖域をこれほどまでに汚され、守護者としての誇りを踏みにじられたのだ。だが、阿久津は力なく笑い、懐から一枚の古いお札を取り出した。

「……残念だが、九条君。今日のところは……私の勝ちだ」

 お札が青い炎を上げて燃える。縮地の術。

 小春でさえ容易には使えない高位の移動術だ。阿久津の体が霞のように薄れていく。

「……将門公の怒りの残滓は、私の右腕に刻ませてもらった。……これで京都の五芒陣に、最後の一節が加わるよ……」

「待て! 阿久津ッ!」

 九条の叫びも虚しく、阿久津の気配は完全に消え去った。後に残されたのは、粉々に砕け散った闇の鏡の破片と、嵐が去った後のような無惨な首塚の光景だけだった。


 翌朝。

 阿久津は、京都へ向かう始発の新幹線の中にいた。右腕を包帯で巻き、痛み止めの薬を無理やり流し込んで。彼は車窓に映る自分の顔を見た。そこには、かつて池田の門下で小春と競い合っていた頃の、青臭い優等生の面影はもうなかった。あるのは、ただ一つの目的のために魂を削り続ける、修羅の顔だ。

「……あの青年の鏡なら、この将門公の熱量をも受け止められるだろうか」

 阿久津は、包帯に包まれた右腕をさする。皮膚の下では、闇の鏡と引き換えに得た、将門の怨念が、黒い稲妻となって暴れ続けている。この力を京都の五芒陣の中枢に流し込めば、千年の封印など、薄氷のごとく砕け散るだろう。

「小春……君たちが守ろうとしているものは、あまりに脆い。だが、それを粉々に砕いてやるのが、かつての同門としての、私なりの慈悲だよ」


 京都タワーが遠くに見えてくる。阿久津の、歪んだ戦いがいよいよ始まる。東京で手に入れた「最悪の火種」を抱え、彼は再び、古都の闇へと潜っていく。


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