第16話 封印失敗!
あのスーツの男と竹林で対峙した翌日、オレの全身には、原因不明の重だるさが残っていた。熱があるわけじゃない。ただ、鏡を握る右手の指先だけが、氷に触れた後のように、感覚が鈍いのだ。そんなオレの体調を知ってか知らずか、小春さんは朝一番で「お掃除」の依頼を回してきた。
「北嵯峨の古い民家よ。勝手口のあたりで嫌な気配がするって。多分、ただの浮遊型。修行の成果を、見せてきなさい」
現場は、昨日の竹林からほど近い、手入れの行き届いた古い平屋だった。依頼人の女性は、不安げな表情でオレを迎えた。
「最近、家の中にいても、誰かにジロジロ見られているような気がして……夜も眠れないんです」
「大丈夫ですよ。すぐ終わりますから」
オレは努めて明るく振る舞った。安請け合いをしたわけではない。ただの浮遊型だし、クロも肩の上で「キュウ」と頼もしく鳴いている。負ける気なんてしなかった。
依頼人に案内されて、勝手口に回ると、確かにいた。
半透明の、陽炎のような影。それは意志を持たず、ただそこにあるだけの淀みだ。これまでのオレなら、鏡をかざして短く念じるだけで終わるはずの相手だった。
だが、鏡を取り出し、浮遊型にかざした瞬間、鏡面が急に熱くなった。
「……ッ!?」
そして陽炎のような影は突如として激しく脈動し始めた。本来ありえない挙動だ。浮遊型とは、いわば燃えカスの煙のようなもの。それが自ら形を成すはずがない。しかし、その影はドロリとした黒い粘液を滴らせながら、みるみるうちに巨大な口だけの化物へと膨れ上がっていった。
「ギチ、ギチギチッ……!」
昨夜、あの男が石仏から引きずり出したあの不快な音だ。化物はオレの鏡を拒絶するように、強烈な瘴気を放出した。その圧力に押され、オレの手から鏡が滑り落ちる。
「しまっ……!」
鏡が地面を転がる。その隙に、化物は居間に通じる引き戸を、まるで紙細工のように引きちぎった。
「きゃあああああ!」
家の中から悲鳴が上がる。
「クロ、行け!」
クロが影を飛ばして化物の足元を掬おうとするが、化物はそれを嘲笑うように壁を這い、依頼人の女性へと躍りかかった。
「やめろ!」
オレは必死に鏡を拾い上げ、化物を追って居間に飛び込んだ。そこには、隅で腰を抜かした女性と、その喉元に食らいつこうとする巨大な口があった。
咄嗟に、
「摩利支天、封じろっ!」
と叫び、渾身の力を込めて鏡を突き出した。だが、鏡はいつもより重く、吸い込みが鈍い。どうした!? と思ったその時、化物の鋭い爪が、女性の肩を深く切り裂いた。鮮血が畳に飛び散る!
「痛いッ、助けて、助けてぇっ!」
女性の悲鳴が耳に突き刺さる。
「くそっ、動け、動けよ!!」
オレは理性を捨てて化物の背中に飛びつき、その漆黒の粘液まみれの体に、強引に鏡の面を押し付けた。
「……消えろぉ!!」
鏡が、聞いたこともないような嫌な音を立てて化物を吸い込んだ。
静寂が戻った居間で、女性が肩を押さえて震えている。
「……ごめんなさい、すぐに救急車を……」
オレの言葉は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
封じた。けれど、怪我をさせた。
小春さんの言う、お掃除程度の依頼で、こんなことは今まで一度もなかった。怪我をさせた依頼人の女性を救急車に引き渡し、警察の事情聴取を終えた頃には、京都の街に夕闇が降りていた。幸い、女性の傷は命に関わるものではなかったが、「何もない空間から巨大な口が現れた」という恐怖は、彼女の心に消えない傷を残したはずだ。封じ屋としての自信が足元から崩れ、オレは立ち尽くすしかなかった。
重い足取りで、夜の小屋へ戻ると、占い席に座る小春さんは、オレの顔を見た瞬間、すべてを察したようだった。
「……怪我をさせたんです。封じきれずに、目の前で」
絞り出した声が、自分でも驚くほど震えていた。これまでお掃除をゲーム感覚でこなしていた自分。鏡さえあればどんな魑魅魍魎でも封じられると自惚れていた自分。そのすべてが、あの泥のような粘液にまみれて汚された気がした。
「……そう。災難だったわね」
小春さんの声は、意外なほど淡々としていた。怒鳴られるよりも、その静けさが胸に刺さる。
「……ただの浮遊型じゃなかったんです。小春さん、実は、昨日の夕方、帰りにあの竹林で……昼間、店に来たあのスーツの男に会ったんです」
オレは、昨夜見た光景を一気に吐き出した。男が石仏に触れ、どす黒い粘液が溢れ出したこと。石仏の封印をなぞり、「理を解く」と言って巨大な百足を出現させたこと。そして、そのバケモノを愛おしそうに撫でていた、あの狂気じみた目。
「あいつが……あの男が石仏の封印を壊した場所の近くだったから、あの家の浮遊型まで凶暴化したんだと思います。オレの鏡も、あいつの気配を拒絶するように重くなって……全然、封じられる気がしなかった」
そこまで言うと、小春さんの顔から、いつもの余裕が消えた。事件簿を閉じる彼女の手がわずかに止まり、視線を虚空へ向けた。その表情は、怒りというよりは、もっと深い……忌まわしい過去を無理やり引きずり出されたような、暗い影を帯びていた。
「言い訳はいらないわ、八瀬君。結果がすべてよ」
小春さんは事件簿を閉じ、真っ直ぐにオレを見た。その目は、いつもの雇い主ではなく、厳しい封じ屋の師匠の目だった。
「私たちは神様じゃない。救えない時もある。けれど、一度でも鏡を向けたなら、その命の責任は全部あなたが背負うの。……今回の依頼料は、全額彼女の見舞金に回しておくわ」
「……すみません」
「謝る暇があるなら、鏡を磨きなさい。……あの男が動いている以上、これから掃除程度の依頼なんてなくなるわよ」
小春さんの言葉は、優しくはなかった。けれど、突き放されることもなかった。
その夜、オレは部屋に帰って、血と泥がこびりついた鏡を無心で磨き続けた。磨いても、磨いても、あの時聞いた巨大な口の咀嚼音と、女性の悲鳴が耳の奥でリフレインする。
恐怖は消えない。けれど、それ以上に得体の知れない怒りが、胸の奥で静かに燃え始めていた。あいつを野放しにすれば、今日のような悲劇がまた起きる。小春さんのあの険しい表情。そして、何者にも屈しないはずのヒカリさんが見せた、あの張り詰めたような異様な殺気。あの男は一体誰なんだ……何者なんだ!
翌朝。オレは鏡の縁を強く握りしめ、カバンにしまった。指先の感覚は、まだ冷たいままだ。けれど、もう立ち止まってはいられなかった。




