第15話 理を解く指先
スーツの男が帰った後も、小屋の中のヒリヒリとした空気は、いつまでも消えなかった。小春さんの、いつもより一オクターブ低い声。ヒカリさんの剥き出しの警戒オーラ。そして、レジの横に置いてあったオレの鏡を値踏みし、収穫と言い放ったあの男の、底の知れない目の奥。一体、誰なんだアイツは…… 拭い去れない胸騒ぎを抱えたまま、その日の仕事を終え、オレは山を下りた。
夕方の六時過ぎ。北嵯峨の静かな竹林をゆっくりと下っていった。京都の夏は日が長く、本来ならまだ明るいはずなのに、竹林の中だけは陽光が遮られ、ひんやりとした濃い影が足元から這い上がってくる。
「……キュ、キュゥ……」
肩に乗ったクロが、喉の奥で怯えたような声を漏らし、オレの首筋にしがみついた。
「どうした、クロ?」
立ち止まった瞬間、竹林のざわめきが止まった。風もないのに、一本の太い竹が、ギィ……と嫌な音を立てて撓っていた。その竹の根元に、彼はいた。
昼間のスーツ姿のまま、あの男が地面に屈みこんでいた。その指先が触れているのは、一体の古びた石仏だ。首から上が欠けた、厚い苔に覆われたその地蔵は、長い年月誰にも顧みられず、半分土に埋もれている。
「……やはり、ここにもいたか。窮屈だったろう?」
男の独り言は、まるで旧友に再会したかのように穏やかで、それゆえに狂気を孕んで聞こえた。オレは息を殺し、木陰に身を隠す。逃げなきゃいけない。本能が全力で警報を鳴らしているのに、足が地面に縫い付けられたように動かない。
男が石仏の胴体にそっと掌を当てた。すると、石の表面からどす黒い粘液のようなものが滲み出し、彼の指の間を抜けて地面に滴り落ちた。
「あっ……」
思わず息を飲んだ。男は驚く様子もなく、ゆっくりと首だけをこちらに向けた。その瞳は、暗闇の中で獲物を狙う獣のように、不気味な光を湛えている。
「……ちょうどいいところに来たね。君は、封じ屋が何をしているか、本当に理解しているかい?」
「……魑魅魍魎を封じて……この世界を、人々を守っているのでは?」
「守る、か。傲慢な言葉だ」
男は冷笑した。彼の指先が、石仏に刻まれた古い封印の梵字を、なぞるように動く。
「君たちが魑魅魍魎と呼んで忌み嫌う彼らは元々、この土地の一部だった。人間が勝手に境界を引き、邪魔だからと鏡という狭い牢獄に押し込める。……君、これが見えるかい?」
男が指を弾いた。
瞬間、石仏からギチギチギチッ!という、無数の虫が這い回るような音が響き、中から巨大な、節足動物のような影が這い出してきた。それは長さ三メートルはあろうかという、禍々しい大百足だった。無数の足が竹の落ち葉をカサカサと掻き鳴らし、男の背後で鎌のような顎を小刻みに震わせている。その体表は、鏡のように艶光りする黒色で、吐き気がするほど生々しい。
「危ない、後ろっ!」
オレは反射的に鏡をかざそうとしたが、男の鋭い声がそれを制した。
「動くな。……よく見るんだ。彼は怒っていない。ただ、自由を喜んでいるだけだ」
信じられないことに、そのバケモノは男を襲うどころか、甘えるように彼の肩にその禍々しい頭を寄せたのだ。そして男は愛おしそうにその影を撫でている。
「封じれば恨みが残る。解き放てば理が戻る。……君の持つ鏡は、あまりにも美しすぎる。御門さんが精魂込めて作った、究極の檻だね」
男が一歩、オレに歩み寄る。大百足の影が、オレの頭上を覆い尽くす。
「いつか、その鏡の中身をすべて、私がこの世界にぶちまけてあげよう。……君が絶望の中で、どちらの側に立つか。今から楽しみでならないよ」
そう言って男はパチン、と指を鳴らした。その瞬間、視界が白く弾け、強烈な立ち眩みに襲われた。次に気がついたとき、竹林には静寂だけが戻っていた。スーツも、あの大百足も、どこにもいない。ただ、首の欠けた石仏が、以前よりもさらに古びた姿でそこに転がっているだけだった。
「……アイツ、何者なんだ」
オレは震える手で鏡を握りしめた。あの男は、封じたものをすべて解き放つと言った。小春さんたちが守っているこの街をどうしようっていうんだ……
握りしめた鏡の表面に刻まれた「摩利支天」の文字が、オレの動揺に呼応するかのように、暗闇の中でかすかに青く光ったような気がした。




