CHapter5 辛籐空美『空想料理』
「…………いま、何と申しましたか?」
仕事を思い出し、真空状態のような静けさの中、意を決して、実況は尋ねた。
その質問に対し、審査員は先程と同じ言葉を、もう一度、呟く。
「……美味い。」
たった一言。
そのたった一言によって、会場中が、事態が、こうなった。
穿った見方をすれば、この場面、この話の流れ、この一言が、出ない方がおかしいかもしれない。だけれど。その一言を言わせる事が、どれほどの難易度で、どれほどの絵空事で、どれくらい、不可能なことなのか。それを知っていた照真は、ただ、生唾を飲んだ。
そして。そこへ。
「……何が、起こったの?」
少女の声。極めてか細く、ともすれば、ふとした風にでも流されてしまいそうなほどの声音だったが。不思議なほどに、審査員、ひいては対戦者である辛籐空美と、天川甘音の元までも、その声は届いた。
「お姉様……」
古く、今に至っては歪に変形してしまったコロッセオの入口には、空美に姉と言われた人物――辛籐真香が、審査員のいるステージの方へを向いて、その風前の灯火のような、小柄で折れそうなその存在で、立っていた。
その後ろには、ボロボロになった塩谷と、獣のような覇気を放った渋堂がいる。
墨染の衣に、白髪の少女。
一昔前には、料理界の一部を賑わせ、そして――犯罪者となった少女が、そこにいた。
「崩 英久士」
少女が名を呼ぶと、呼ばれた男、黒い医療服のような上着を羽織った、幸の薄い――いや、幸福が蜘蛛の子を散らすように逃げて行ってしまいそうな――人相の男が、少女の方を向いた。
「……真香。何故、斯様な場所に……。」
「そんなことは、今はどうでもいい瑣末なことでしょう」
「いや。どうしてここにいるんですか、お姉様!」
どこかで見ているだろうことは、空美自身、予想通りではあった。
しかし、言うまでもなく問題は、ここに、つまりは対戦者と、審査員しかいるべきではこの空間に、そこへの入口から、入ってきたということだ。
そんな空美の言及を、真香はさらりと無視をして、崩の前へと一足に跳んだ。
塩谷と、渋堂は、もうその様子を黙って見届けている。空美の料理が無事に完成し、それがもう既に崩の口の中まで届いているのなら、もう妨害を妨げる必要はない。
もう後は、結果を待つだけだ。
どころか、もう結果は、出てしまったのだろう。
美味い、という一言。
その感想が、空美の料理の結果だったのだから。
ストン、と。軽い音を立てて、真香が崩の目前に着地する。
「これは、何ですか空美」
漣のような静かな声で、真香が空美へと訊く。
あまりに抑揚のない、あまりに冷めた声音。しかし、その力がないともとられそうな声音なのにも関わらず、その語調も、声調も、声と違わず緩やかなものにも関わらず――その言葉は、尋問しているかのようだった。
「これは――」
言いかけて、暫しの逡巡。
しかし、意を決して、空美は口を開いた。
力を込めて、自信を込めて、真香の迫力に気圧されないように、はっきりと、言う。
「これは、私の新しい料理ですよ」
そう。
見た目は普通の、ともすればちょっと名の通った店のハンバーグに並ばれると、すぐさま見劣りをしてしまうようなハンバーグ。
一口大にカットされた、中まで火の通ったハンバーグだ。
そんな普通の料理が。普通以下の料理が評価されるなどと、真香には甚だ、分からなかった。そして――受け入れることも、できなかったのだ。
「幻想料理」
空美が、凛とした声で、そう言った。
幻想料理。想い描かれた、幻の料理。
空美は、気付いていた。
そもそも、塩谷も気付いていたし、そう発言もしていた。
この、コロッセオで。
それは、『不落嬢』辛籐空美の作った『THE END OF LOAD』に対しての、感想を言った時だ。
『ありがとう。それでこの料理だけど、未知の香辛料という武器を生かすには、ベースとなる料理に下手に凝った味付けをするとかえって逆効果なんだよね。あくまで主役は香辛料だから、その風味を阻害するような強い味は無い方がいいんだ。この武器を活かすために無駄を省き、尚且つ邪魔にならない程度の味付けをする。これはなかなか出来た物じゃないよ。しかも、
――本命の武器が唯一香辛料のみと割り切っているのもまた良いね。
料理っていうのは、あんまり一つの料理に複数の要素を込めようとすると味が干渉しあって、逆に悪い結果につながることもある。そこを、あえてシンプルにするなんて、流石の一言だよ』
料理を評する長台詞の中にあった、塩谷の一言。
その一言が、その事実が、如実に語っている。
空美の本命の武器が、何だったのか。
それは、姉の真香が――圧倒的なまでの如才を放つ、鬼才とも謳われた姉が――唯一無二、最強の兵器としたもの。
そして、言葉通り、兵器のようにあしらわれて、犯罪者呼ばわりされるに、至ったもの。
――香辛料だったのだ。
つまり、『不落嬢』が落ちる、ずっと前から。
辛籐空美が料理人を昇りつめた、ずっと前から。
その手の中には、握られていたことになる。
未知の香辛料。そんな大それたものではない。真香の使っていたものの、『毒』の部分を、抽出して取り除いたようなものなのだ。
それは体には無害かもしれない。――否、舌に異常をきたしている時点で、全くの無害かどうかは、また審議に推し量るべき議題なのかもしれないけど。それでも、人の寿命を縮めてしまうような、毒薬ではなかった。
だからこそ、姉の味には追いつけなかったのだ。
真香は、毒薬を作りたかった訳ではない。
美味しい料理を、ただ、作りたかっただけだ。
その結果が、毒薬。
それを極めた結果が、毒なのだ。真香本人のように、諺の言葉を引き合いに出すわけではないけれど、清濁併せ呑む、その言葉の意味が、度量が大きいことで、あるかのように。真香の器は、実力は、限りなく大きかった。
だから、諦めていたのだ。境界線を踏み外した先にある、その驚異の味には、永遠に近づけることはないのだろうと。
――しかし。
それは今、変わった。
「幻想料理? これが? そんなはずはないでしょう。なぜならこれは――」
「はい。幻想料理――それを型にした、私の料理……」
幻想料理というジャンルは、真香の開発した、真香の極めた、その技だ。
香辛料を大量に使用した、実態をも覆い隠すような、料理。
まさに、幻であるかのような。
まさに、砂に上に浮かんだ楼閣であるかのような。
幻想の料理。
そしてその味は至宝と謳われ、料理界を、一時騒然とさせたものである。
そう。幻想料理には別名がある。
――『百薬の長』。デス・メイカーという別名が。
「だから、これは私の料理。お姉様の『死』の料理を踏襲した、新しい『可能性』の料理」
空想料理。
――と、そう言った。
絵空に、想うと書いて、空想。
そしてその字は、空美の想い、という字も入っている。
ありえないと、真香が削除した、新しい料理。
「……これは。ハンバーグでは、ないわね」
「ええ。言ったはずですよ。これは、空想料理だって」
真香が徐に空美の料理へと手を伸ばす。
指で、つまみ上げようとする。
その途端、ハンバーグの形をした一切れの何かが、信じられない程、容易く潰れた。
「メレンゲね」
「その通りです」
メレンゲ。
卵白を入念に撹拌して、基本的には、砂糖の加えられたもの。
勿論、今回の料理に砂糖は使われていなかったが。それでも、その正体は同じだった。
主に洋菓子に使われ、多くの場合、滑らかな食感を出したり、膨張剤として使用される。
それと、空美の食柱毒を組み合せたのが、この料理。空想料理だった。
メレンゲの、泡のような流動体を、空美の食柱毒で組み合わせた。
さながら、組み泡せたとでもいうべきだろうか。
そしてその実、それは食材を積み上げただけにしか満たない。
甘音のように、バラバラの料理を融合させたりをさせたわけではないのだ。
これは、食柱毒で切った食材が、崩の口内で復活するわけではないことと同じく。
確かに、崩の口内では”食物以外の干渉”は無力化されるのだが、食物に食柱毒の要素が含まれていない以上。無効化されることはない。
あくまで、メレンゲの形を緻密に整えた、というところまで。
そこへ、香辛料を加えただけだ。
「そう」
静かな、真香の声音。
普段と別条変わりない声質ではあるが、それでも、ほんの少し、周囲にもはっきりと、憂いているのが、見てとれた。
香辛料を使う事は、当初――姉を越えたいと考えた初め――躊躇った。
香辛料というのは、真香の象徴であり、そのものであり、だからこそ、空美が武器として使っていたものであり、過去の自分を拭えていないかのようだから。
だから当初、躊躇った。
しかし、考えているうちに、踏みとどまったのだ。
香辛料は、真香の象徴であり、そのものであるのと同時に、空美の過去の武器でもあったのだから。だから、そのすべてを否定し、すべてを捨てることを空美は、やめた。できなかった、という言葉とは多少ニュアンスが違う。過去の自分を、勝ち続けていた時の自分も、負けて『HelleN』にいた時の自分も、すべて受け入れて、捨てずに持ち続ける。培ってきたものを、放り投げずに抱きかかえる。
それは、言葉以上に難しい事だったのだから。
だから。できなかったのではない。
しなかったのだ。
「――なんて、言い訳にも聞こえますけど」
空美の鋭い目が、まっすぐに真香を見据える。
「それでも。――いえ、だからこそ、貴女のその土俵で貴女を越えたかったんですよ」
真香の目が、もう一度大きく見開かれた。
いつもの冷徹な無表情も、今では成りを潜め。
ただ、驚いたような表情を、真香は浮かべていた。
驚き、そして、驚かされたのだ。
空美はあの過去を、知っているのだろうか。
いや――
「そうね。空美。貴女の、勝ちよ」
――そんなはずはない。
崩英久士と辛籐姉妹の過去を、知っているはずはないのだ。
あの頃、いや、あの頃からも、といった方がいいだろうか。空美は、姉たちとは別れた生活を行っていた。
それは、家名を継ぐ料理人と、そうでない末っ子の、道理でもあり。
それは一概に、姉たちとの、性格上の不一致というものでもあり。
かくして辛籐姉妹は、真香宙美と、空美で別れていた。
だから、崩英久士のことすら、以前まで知らないはずだったのだ。
崩英久士の――体のことも。
「辛籐真香、貴――」
「話さないでください」
「愚生は――」
「聞ける立場ではありません」
震えるような、真香の声。
「違うのだ。話を――」
「いやです」
「よく聞け――」
「いや――」
「私は、お前を憎んでなどいない!」
会場が震えるような、崩の声。
崩は、目前で立ち竦む少女に、細い、枝のような手を差し伸べた。
会場は、未だに静まりかえっている。ステージ中央にあるマイクで、彼女たちの会話は響き渡っているものの、誰一人として、邪魔をしようというものは現れなかった。
照真も、塩谷も、渋堂も、甘音も。
ついには空美までも。黙って、二人の方を見るだけの形となっている。
「お前のやったことは、確かに犯罪なのかもしれない。『砂上の楼閣』、『百薬の長』の料理人よ」
その言葉に、会場の沈黙が、変わった。
同じく黙している事には変わりないのだが。その沈黙の色が、あからさまに変化した。
一角とはいえ、知られているところには知られているのだ。
「ファントム・スパイスだって?」
「デス・メイカーって、あの寿命を縮めるっていう毒薬のことだろ?」
そして、沈黙が爆ぜる。
周囲のざわめきが、漣から荒波へと変わった瞬間でもあった。
「あいつは、料理界の大犯罪者、辛籐真香じゃねえのか!?」
「何でこんなところにいるんだ、捕まっているんじゃなかったのか!」
「だれか、あいつを捕まえろ! 寿命を吸い取られるぞ」
凄惨な都市伝説は、禍根と共に、誤解を残し。人々には伝承されていた。
辛籐真香。『砂上の楼閣』であり、『百薬の長』を作った人物。
その人物は、寿命を縮めるという事実がただ、伝播し、人々に広まっていた。
「ふざけんな! さっさとここから出て行けよ!」
一人が放った、中の入った缶ジュースが真香の額に当たる。
その、漆黒の和服に、中の液体が飛び散った。
そこから波及するかのように、周りの人たちも手にしたものを真香へと浴びせかかる。缶、ライター、コンシーラー、本、食べ物、ぬいぐるみ、そして――瓶。
真香の目前に落ちた空き瓶が割れ、その破片が彼女へと否応なく襲いかかる。無論、究極の回避術を得た真香にとって、躱わそうと思って躱わせないものではない。しかし――
真香は一歩たりとも、そこを動かなかった。
その頬から、ハラりと血が流れる。その横顔に、大きな財布がバスンと当たった。
バランスを崩した真香が、よろめいて数歩足をもつれさせる。
トンっ。
その小さな痩躯を、横で支えられた。
赤い短髪に、赤いジャケット。余裕の笑みは、今はもう感じられない。
先程の塩谷との戦いで、満身創痍となった辛籐宙美だった。
「……大丈夫かしら。お姉様」
「……宙美。……余計な事、しなくていいわ」
「……カラいこと言うわねぇ。ずっと、こうして守ってきたのに」
真香へと飛び交う、数々の物を、宙美がそこへ辿り着く前に次々と撃ち落とす。
手刀や、拳で、次々と。それでも、足は、出ないようだった。つまりはもう、立っているのですら、やっとなのである。
疲労の色も濃く、次第に、狙いすらも外れだした。
なぜ持ち歩いているのか、分厚いハードカバーの本が、宙美を真正面から捉える。
「げふっ」
「――の野郎っ」
ついには渋堂も見るに耐えかねた。
大きく息を吸い込んで、そして――
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
耳を劈くような大音量が、マイクを介して、スピーカーから放出される。
「貴様たちに、そんなことをする権利があるのか!」
声の主は、黒い医療服を纏い、貧相な人相をしていた。
会場は一瞬、静まり返るが、それも本当に、一瞬のこと。
「……権利だと、そんなものが必要なのか」
皮切りの一言。
それに呼応するとでもいうかのように、周囲からの罵詈雑言も勢いを増した。
声の波で、まるで真香の細い体を、呑み流そうとでもいうかのように。
「やめろ。やめろやめろぉ! 料理を作る料理人の気持ちが、美味い物を作る為なのは、間違っているというのか!」
「……間違っているのですよ。崩」
「いや違う。違うのだぞ、真香。私はお前に救われた」
少女が、息を飲んだのが分かった。渋堂には。
だから、それでも鳴りやまない会場の喧騒に、その声を張り上げる。
「お前らうるせぇッ! 俺は今、料理人としてこいつの言う事に意義はねえ! もしそれでも、俺たちに――料理人に、文句があるってんのなら、四の五の言ってねえで、まずは俺にかかってきやがれッ!」
世界最強の料理人の言葉に、会場が総毛だったのは言うまでもない。
コロッセオを覆う観衆が、まるで教師に叱られた児童のように、押し黙る。
つかつかと後退し、塩谷の元まで下がってきた渋堂に、堪らず塩谷が言った。
「いやいや。文句はあるでしょ。辛籐真香の『百薬の長』は『一口で一日寿命を縮める』なんだよ?」
「それはそれだけどよ。でもオメーも、美味いものを作ることに懸けては必死にもなんだろ」
「なにそれ、料理対決の度に必ず死ぬ僕への当てつけか何かなの?」
「卑屈過ぎんだろお前。言葉通りの意味だ」
「はあ?」
さらなる反論を転じようとした塩谷に、渋堂は言った。
「『砂上の楼閣』は妥協を許さなかった。ただ、美味い物を作ろうとした。そんだけだろ。んなもん、料理人なら、当然じゃねーか」
「はぁ、もういいよ。何でも」
***
それは、まだ、『砂上の楼閣』――辛籐真香が、料理人だった頃の事。
「……不味い。」
「はぁ、カラいこと言うわねぇ」
「そうですか、また私をコケにしにきたのですか、そうですか」
華やかな深紅の壁紙と、漆黒のテーブルに、純白の椅子。
今は名前も忘れられたその料理店には、真香と、宙美と、そして、常連客の崩がいた。
その頃は、大会への出場経験も無く、全く無名の辛籐姉妹。
来る日も、来る日も、店にきては「不味い。」と吐き捨てるその男に対し、真香は僅かながらも、感謝をしていた。きちんと、指摘してくれている、と。
真香自身、料理の腕前は、まだまだだと思っていた。だからこそ、それに甘んじることなく、上を目指すように激励してくれているのだろう、と、解釈していたのだ。
さもなくば、ただ不味いだけの料理ならば、こんな頻度では店にこまい。
その期待に応える為にも、真香は日夜勉強し、香辛料を研究し、料理の腕を磨いた。
そんな日々が過ぎ――『砂上の楼閣』の二つ名が轟き、一角に衆目を集め出した頃――その頃も変わらず、崩は毎日のように、店に顔を出してくれていた。
「……不味い。」
――その一言を、言う為に。
言う為だけのように。
実際の所。
崩の中での「不味い。」は、一般人の「美味い」とほとんど近い。
一般人の「不味い」が、崩の中の「つらい。」であるように。
味覚を感じ、それでも痛覚に圧され芳しくないその風味は、美味いという訳ではないが。それでも、食事に何の価値も、どころか苦痛しか齎されることのなかった彼にとっては、最高に価値があった。
だから、数年が経ったある日の事、あの噂が出回った時だって、彼は『砂上の楼閣』を恨んだことなど、一度もなかった。
しかし彼女は、一夜にして姿を消した。
跡形もなく。
文字通り、『砂の上に立っていた楼閣』だとでも、言うかのように。
――そして。
彼女が――彼女たちが、この町に来たのにも、又、理由があった。
彼と真香は、ほとんど同じ期間、『百薬の長』を食べてきた。
その結果。どうなったのか、どうなるのか。
医者の言葉を聞いて、真香が思ったことは、自分の心配よりも先に、崩の心配だった。
だからこそ。決めたのだ。
崩は、もう、先は長くない。
だからこそ。今まで一度も言ってもらえなかった、言わせることができなかった言葉を言わせてみようではないか、と。
『美味い』と、ただその一言を。
「救われた、ですか。それは偶像崇拝もいい所ですね。私は楼閣であって、神仏ではありませんし。それに、私は救うどころか、貴方をもう、殺す所なのですよ?」
そして、決めたことはもう一つあった。
真香の、言葉通りの意味だ。
小枝のような華奢な掌には、今、刃の長い肉切り包丁が握られている。
自分の料理の所為でここまで彼の命を散らしてしまった、という自責の念がある上に、いや、あるからこそ、日々の生活に喜びを見いだせず苦しんでいる崩に、引導を渡そうと、そう思っていたのだ。
そう。思っていた、のだ。
「――なのに、どうしてですか」
カラン――と。重い金属音をたてて、包丁が床へと滑り落ちる。
「どうしてそんなに、幸せな顔をしているのでしょうか……」
真香の称する『幸せな顔』は、一般人には到底、そうとは見えない顔だったけれど。それでもそこから、笑顔のようなものを浮かべたのは、何となく見てとれた。
「感謝だよ。真香。私はお前の料理に、感謝していたのだから」
「お情けと雖、喜んだ方がいいのでしょうか」
「虚言などではない。決してない。私はお前の料理が――『百薬の長』が有害を齎すかもしれぬということは、承知だった。それこそ、百も承知というものだ」
「そんなはず、ありません」
真香の声が、尻すぼみに沈む。
言うに事欠いて、承知である訳がない、と。
先程の観衆の反応を見ていると、尚更にそう思ってしまった。
『一口で寿命を一日縮める』。
そんな毒薬を、毎日食べさせてしまったのだから。
知らなかったでは許されない。
真香の、本当の目的は今日、崩に料理を作り、「美味い」と言わせて、その幸福な感覚を残したまま、殺して――自身もまた、死ぬ事だった。
「そんなはず、ありません」
もう一度、真香は言った。
その声音は、心の叫びあるのを物語るかのように、暗く、静かで。
そんなはずが、あるわけがないと。
――そんな、天命を悟ったような顔で、罪を許すことなど、できる訳がない、と。
――許されていい、はずがない、と。
そして一方、この事態への、嘆きでもあった。
崩の放った『美味い』という言葉。それは今日この日、崩に言わせたい言葉ではあったけれど。言わせることができる自信をもった言葉では、なかったからだ。
完全な敗北感に、抗おうとする言葉でもあった。
「……お姉様」
それを気遣うように、空美が声をかける。
真香からしてみれば、それも又、腹が立った。
「何かしら。敗者に言葉は必要ないわ。それとも、私の放った言葉への贖罪を要求するのですか? だったら問題ないわ」
食い下がるように、そう言って、真香は地面に落ちてしまった肉切り包丁を、もう一度握った。
精緻な指が、しっかりとその柄を握る。
その切っ先が向けた先は、真香の、胸だった。
塩谷が息を止め、渋堂が舌を打ち、甘音が唐突の出来事に思考を止める。
この空間すべてが、止まったかのようだった。
「……違います」
迷いなく振り上げられた真香の腕が、一時、止まる。
「なにが、違うのですか?」
「お姉様は、敗者じゃありません……実際、相手が崩では、普通の一般人だった場合、私のこの料理でも、まだ『百薬の長』には及びませんから」
「そう……それならば問題はありません。一般人の意見など、私にしてみれば無いものと同じですから。――だから、あなたが勝者なのよ。空美」
「違います――」
真香の冷水のような声が、ほんとうに文字通り消えてしまいそうなほどに、小さくなる。
「崩の口から『美味い』という言葉を聞けた。脆弱な末っ子が、成長した姿を見れた。それを見るこの日まで、生き延びることができた――もう、充分よ」
それでも、空美の耳には聞こえた。
だから空美は、ゆっくりと息を吸い込み。
途中でかき消されないように、しっかりと、言ったのだ。
「違います――私のあの料理に込めた想いは、そういう意味ではありません!」
と。




