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HelleN! -愛情よりも大切な-  作者: パンダらの箱
「the lowermost judgment」編 ―― 世界最低の審判
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Chapter4 天川甘音『愛のイチゴ』

 崩英久士が審査員を務める、天川甘音と、辛籐空美の料理対決当日。

 コロッセオには、数多くの人々が押し寄せていた。

 それを、大舞台の――調理場の真ん中から、空美が見回す。この光景は、久しぶりのものだった。『不落嬢』の時代。よくここに立って、さも当然に、至る所々の料理人を屠ってきたものだ。

 そうひとりごちる空美の横で、甘音は自信満々の表情で、胸を張って立っていた。


「ついに勝負ね。といっても、今日まであっという間だったけど」

「まあ、期間が短かったですからね。それでも、準備は万全ですよ?」

「言うじゃない。私もいつでもいけるわよ」

「そうですか。崩とはいえ一応は審査員ですから、ゲテモノ食わせて殺したりしないでくださいね?」

「なんですって? 誰の料理が吐瀉物よ!」

「いえ……そこまでは言ってないんですが」


 一方。


「なんか、言い争ってねーか?」

「え? ……ああ。いいよ、いつものことだから」


 観客席の良い席を占拠し、塩谷と渋堂の二人が、隣同士で座っていた。

 その周りには、少し距離を空けて、照真、甘菜、甘太郎の天川ファミリーが位置づいている。『天川家』と『昔のライバル』で、上手い事分けたつもりだろうか。 一人で座る塩谷の横に、渋堂と甘菜が来て、その少し後に、照真と甘太郎が足されてこうなった。なんというか、正直これなら一人で座ってた方がマシだな、と思う塩谷である。

 が、しかし。そんな塩谷の気持ちを一切慮ることもなく、渋堂はずけずけと、堂々と話しかけ続けてくるのであった。


「つーかそれより、あの崩って、無効虫歯男のあの崩だよな」

「はぁ、なにその呼び方? どう考えても世間では浸透してなさそうだけど。……でも、ま、当ってるよ」


 食柱毒による無効能力と、あの虫歯。

 たしかに体よく人物を表した言い方ではあるわけだ。もっとも、異名『無効虫歯男』では、締まらないこの上ないが。


「食物以外の関与が無効化され、その上強烈な虫歯……自他ともに認める世界最低の審査員ってやつらしいね」

「ああ。確かに最低だな。てか、それ以前に審査員ですらねーし」


 審査とか、できてないようなものだから。


「まあ、そこに関しては同感だね」

「『支配』の食柱毒と、『念動力』の食柱毒。さて、面白そうじゃねーか」

「……まあ、ね。ちなみに君は、あの二人が崩に通用すると思う?」

「ヤな言い回しだな。性格の悪さが滲み出てるぜ?」

「ほっといてよ」


 うーん、と渋堂は腕を組み、しばし逡巡。その間、没個性な司会が、対戦のカードとルールをおさらいして、会場を盛り上げていた。

 今更挙げるまでもないが、一応おさらいしておくと。

 対戦は天川甘音と、辛籐空美。

 ルールはスタンダードバトル。先攻は甘音、後攻空美に決まっている。

 勝利の決定条件は、審査員の崩英久士に美味しいと言わせること。

 そして、妨害なし。

 最後のこれは、二人が先程付け加えたルールだった。審査員が審査員である以上、お互いに足を引っ張りあって算段が崩れるのは好ましくない。これは、双方が思っており、すぐさま投合した意見であった。

 ルールの発表が終わると、いよいよ会場中が熱を帯びてきた。

 ここでようやく、

「そうだな――」

 と、渋堂が口を開く。


「――『支配』の食柱毒は、俺も初めて見たときはビビったくらいだ。何が起きても不思議はねぇ。そして、辛籐空美も、特技多いからな」


 あぁ、と塩谷が納得する。

 『念動力』の食柱毒、複数同時思考、そして、口内性感体。

 最後のはともかく、細かな技量をもっているのは確かである。


「まあ、そうだね。彼女頭良いから」


 頭が良い故の、過去との葛藤、状況が整理できる故の、煩悶は数多くはあったのだろうけれど。そんなことを思いながら、塩谷が呟く。

 中央の調理ステージでは、ついに甘音と空美が料理を作り始める所だった。


「本当は二人とも太鼓判を押してやりてぇとこなんだけどな」

「ふーん」

「でも、今回のアレばっかりは、マジで最低の審査員だからな。正直、どこまで通じるのかは俺も分かんねぇ」

「……ああ、まあそうだろうね。僕も正直、結果がどうなるのか全然分からない」

「俺にしてみりゃ、その方が驚きだけどな」

「はあ? なんで?」


 へへっと男らしい笑みを浮かべる渋堂に、訳が分からず塩谷が尋ねる。

 渋堂は、言うべきか言わないべきか、なんて、ほんの数瞬ほど迷ってみせはしたのだが、さも当然といった風に、最後には言葉を続けた。


「オメーだったら、いやどうせ無理だよ。なんて、言いそうだろーが」


 言い放たれた言葉に、塩谷は僅かに顔を曇らせるも、しかし、確かに自分なら――いや、今でも心の奥底では、そう思ってしまうよな、と思った。

 それでも、冷静な声音で、


「希望的観測ってやつかもしれないけど。でも、確実にいえるのは、二人とも全く、諦めてないんだよね」


 我が耳を疑う、とでも言いたげに、渋堂は目を丸くした。

 が、それも一瞬。


「そうか、なんとかなるといいな」


 渋堂はいつも通りの、唯我独尊、威風堂々の面持ちに戻っていた。

 そういえばさ。

 と。そんな渋堂を見て、塩谷が切り出した。


「んだよ?」

「……なあ、もし渋堂なら、どうする?」


 崩英久士を審査員に回して――食物以外、いや、もはや食物すらも感知不能にまでなってしまっている、あの負の化け物を相手にして。

 そんな意図を込めた、塩谷の質問だった


「んなもん、決まってんだろ」


 渋堂は、塩谷の方を向いて、ニヤリと笑む。


「真っ向から、ブッ倒す!」






***






 同会場。選手控室の手前。

 コロッセオの大舞台へと向かう廊下を、二人の姉妹が連れだって歩いていた。

 片や白い長髪の、黒い和服を着た背の低い少女。

 片や赤い短髪の、艶やかな嬌笑を漏らす女性。


「…………」

「…………」


 会話一つなく。双方ともに無言で、進み続けている。

 その目指す先とは――


「おおーっと! これはスゴイ!」


 何が凄いのだろう。

 大舞台への廊下まで響いてきた実況の音声は、なんとも歯に物が詰まったような言い回しである。それは、今回のバトルで決められた、さらなる制約のせいでもあった。

 が。しかし。

 勿論、そんなことよりも重要なことがある。

 それは、この二人が目指す先が、そのコロッセオの大舞台そのものだということだ。

 つまり、単刀直入に。

 ――殴り込みである。

 辛籐空美を貶し、煽り、煽動してセッテイングさせた舞台を、こともあろうにこの二人は、自らの手で、ぶち壊そうとしているのだ。

 双方ともに無言。それは変わらない。

 そして、双方ともにただならぬ殺気を周囲まで迸らせていた。

 まあ。

 それが悪かったのだろう。


「…………」

「…………」


 二人が、二人とも、ぴたりとその進行を止める。


「……あらぁ」


 そして、口を開いたのは宙美だった。

 コロッセオの入口まではあと数十m。

 その距離の間に、二つの影が、立ち塞がっていたのだ。


「どうして――というのは愚問でしょうか。私たちの殺気に感づいてここまで来たのでしょう。そんな二人に、どうして来たのかなど、理由を尋ねる必要はありませんね」


 冷たく響く、真香の声音。

 それに返答するかのように、影の一つがニカリと笑った。


「ったりめーだろ」

「止めに来た、に決まってるよね」


 入口の手前に、塞ぐように立っていたのは、塩谷始音と、渋堂我竜である。

 真香の言った通り、殺気を感じ塩谷が飛び出して、その後をさも当然に、渋堂が着いてきたのだった。

 そんな予期しなかっただろう妨害にも、宙美は不敵な笑みで応じた。


「止められるかどうか、は別問題ですけれどね。また吹き飛ばされたいのかしらぁ?」

「え、なに? まだ勝った気でいたの?」

「クスリ。あら、ごめんなさい。地面を転がった方が勝ちのゲームだとは、知りませんでしたわ」

「君の方は、転がるだけで済めばいいけどね」


 ピリっと空間に亀裂が走る。

 事実。そう言っても誇張がないほどに、空気が凍り、緊張していた。

 そんな折。


「おおっと、ついに天川甘音が料理を終えたぁ!」


 後ろでは早くも、勝負の結末を迎えようとしていた。






***






 甘音から遅れること数分。

 それでも、時間制限のない料理勝負にしてみれば、僅差なほうだ。実際、調理時間に加点が挟まれる余地などないので、その僅差に意味などはないというのに。

 空美が、料理を終える。

 ここでようやく、崩英久士は会場の様子を見ることを許された。

 二人から加えられた制約で、崩英久士は二人が調理している間、調理の様子が見えないよう、目隠しがされていたのである。

 崩はまず、甘音の調理場を見て驚く。

 なんということだろう。調理場が――全くの無傷なのだ。

 噂に聞く塩谷始音と天川甘音の決戦からは、こんな平穏な調理台など全く想像さえしなかったというのに。

 そして、甘音の料理が、崩英久士の前に置かれていた。


「料理名は、『愛のイチゴ』よ」


 これは料理なのだろうか。

 甘音の料理を乗せているはずの盆の上には、一口サイズのイチゴが二つ。

 一応、じっくりと観察して確認してみるも、とくに凝らした手法はなし。

 この女は、馬鹿にしているのだろうか。


「調理法が似ていてムカつきましたが、これが私の料理です」


 空美がそう言って置いたものは、一口大にカットされた、軽くソースのかかったハンバーグ。実に料理らしい料理だと、甘音のを見た後だと錯覚してしまうが。しかし、それでも、特に変わったところは感じられない。普通のハンバーグに見えた。

 断面から見える中の肉も、しっかりと焼けている。

 見栄えだけなら、普通の料理店のハンバーグにすら、見劣りしてしまうかもしれない。それほどに、飾り気がなかった。


「……では、戴くとしよう。」


 低く、小さな、崩の声。

 あまりに意気のない言葉に、思わず反応が遅れた司会者が――それでも、司会者魂というものだろうか――調子っぱずれに告げた。


「……さぁ、いょいよ、審査タイムです!」


 会場も、時間差で盛り上がる。

 それほどまでに、崩には覇気というものがなかった。いや、最早、生気すらない。オーラなんてもっての他だ。

 そんな、おじさんが食事をする、にも満たない食事の風景を、大観衆が息を飲んで見守る。なんというか、滑稽な光景でもあった。


「…………。」


 崩が無言で、口を開く。

 その口内に――食柱毒が常時発動中の口内に、崩は素手でイチゴを摘み、投げ入れた。

 どういうわけだか、フォークなどを用意されなかったのだ。――まあ、それをやったのが甘音なのだから、故意であるとも言い難いのだが。

 そして――。


 ――パァァァァン。


 と、何かが爆ぜる音が響いた。

 崩英久士の、幸薄い頭部が粉々に吹き飛んだ。――という訳ではない。それが、スピーカー越しではなく、直接響いた音だったならば、その可能性もなきにしもあらずではあったのだろうが。幸運にも、いや、不幸にもだろうか。考え方は人それぞれであるけれど、崩英久士は、死んでいなかった。

 今の音は、口の中でイチゴが、咀嚼もする前から、爆ぜた音である。


「……成る程。」

「『愛のイチゴ』。別名、『食べるイチゴジュース』よ!」


 甘音の作戦はこうだった。

 そう戦術を解説していく為には、まず最初の作戦はこうだった、から始めねばなるまい。

 天川甘音の最初の作戦はこうだった。

 地獄料理の『地獄核』が封じられている以上、地獄料理はほとんど使えない。普通の地獄料理まで食柱毒により無効化されてしまうと、それはただの食用(自称)吐瀉物へと変わってしまうのだから。

 と。そこまで真摯に自らの料理を受け止めてはいなかったものの、甘音は、だったら、と、天川家の果物に目をつけた。

 特に深い意味はないが、一口サイズで、果肉も果汁も多すぎず少なすぎないイチゴに目をつけたのである。

 そして、ここからが最初の作戦。

 虫歯の痛みで咀嚼が禁じられているのなら、食柱毒で地獄料理の膜を作り、イチゴを覆ってしまえばいいのではないか。


「いや、馬鹿か? 馬鹿なのか?」 


 と甘太郎に罵られた。

 まあ、当然である。

 とりあえず第一点として、食柱毒により地獄料理の膜が消されるのだから、結局イチゴは咀嚼しなくてはならない。つまり本末転倒。さらに第二に、地獄料理の膜化が無効化されるだけであり、地獄料理の残滓は消えないのではないか、という仮説が浮上してしまったことにある。なぜそれがダメかは、語るまでもない。

 ――それを踏まえて、第二の作戦。

 じゃあ逆に、地獄料理を、イチゴで包んじゃえばいいじゃない。


「はぁ」


 一秒で、照真に溜め息を吐かれた。

 それもまあ、当然である。

 まず、イチゴで包むという発想。これは、一般的には何を言っているのかよく分からない気違い発想ではあるが、甘音にはできる。『物質の結合』を支配して、切ったイチゴをくっつけてしまえばいいだけなのだから。

 さて、具体的な調理方がイメージできたところで問題点。

 それは、意味があるのだろうか。

 結論からいって、イチゴが割れて、その中からゲテモノが飛び出すというもの。

 もう、とんだビックリ箱もあったものだ。

 それ以前に、イチゴを包丁で切って、果たしてイチゴは無事なのかどうか。とかもはやそんな次元での話。

 照真が嘆息をしてしまうのも無理のない話だった。

 ――そして。

 地獄料理をついに諦め。閃いたのがこの料理。

 ただミキサーにかけたイチゴを、くっつけただけ。 

 手法は至って簡単。むしろこれだけに十分近く使った甘音が、逆に凄いまである。

 しかし誰も、反論はなかった。

 下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、とでもいうのだろうか。

 逆に、この方法は実に的確だと、甘太郎は思った。

 食柱毒によって元の形に戻ったイチゴは、崩の口内に入った瞬間、ミキサーで液体にまで粉砕された状態へと変わる。――否、戻る。つまりは最初の課題、『咀嚼をさせない』を満たしたことになる。さらに加えて、念には念を入れて『空気圧』を支配してミキサーのスイッチを押すことによって、完全に地獄料理が介入する余地がない。

 甘音の食柱毒と、崩の食柱毒。

 つまりはこの二つが相まって、完璧な『食べるイチゴジュース』が完成した次第である。

 しかし。その時も、今も、照真の反応は、芳しくなかった。

 それを、如実に語るかのように、


「…………。」


 崩英久士は一言も発さない。

 会場中が静まり返っていた。

 大観衆の目が、咀嚼すらもしていない、食べ物を口に入れて呆けているだけの、幸薄いおっさんへと向けられている。

 その光景は、なんとも異様だった。

 そして。

 粛粛と、凛然と、怠惰に、それでいて、無価値に。


「……つらい。」


 崩英久士は、料理を評した。

 その無価値な感情の吐露が、この食事の結果を一言で表したものだった。


「やっぱり、ね……」


 そう呟いたのは、照真だった。

 予想通り、想定通り、それでもそれどころか、予想よりも崩が考える時間を要していた方が驚きである。

 惜しくは、あった。

 噛ませない、というのは、崩の能力を破る上で、重要なコンテンツの一つでもあった。

 しかし。それではまだ、足りない。

 虫歯の時でも、水を飲めば染みる。

 至極当然の原理だ。

 極論。そんな回りくどいことをせずとも――ジュースは料理ではない、という反論を考慮したとしても、だったら、ジュレでも充分なのだ。

 つまりは、


「ただの液体じゃあ、そりゃそうなるよねぇ」


 照真も分からなかった訳ではない。

 だったら過去にも、そんなジュレ如き、作れる人間など山のようにいたはずなのだ。

 会場が、辛辣な静寂に包まれる。甘音はどんな絶望を浮かべているのだろう。

 作った料理が、苦痛とだけ評されて、彼女はどんな痛みを味わっているのだろう。

 照真でさえ、それを心配した。いや、親バカの照真だからこそだろうか。尚のこと、心配の色を顔に浮かべて、甘音の方を見やる。

 ――見やるのだが。


「そう、ダメだったの」


 甘音は、笑顔さえ浮かべていた。

 踵を返して、後ろに控える空美のところまで戻ってゆく。

 そして、あっさりと、空美にバトンを託したのだ。


「甘音さん。悔しくはないんですか?」


 堪らず、空美が尋ねる。

 それは、この会場中から漂うナーバスな雰囲気からの、緊張感からもあるのだろう。

 それに、手を抜いたのではないか。という、空美なりのプライドもあった。


「手は、抜いてないわよ。今出せる限りの力、出きる限りの方法でやったわ」

「……そうでしょうか」


 それにしては、「絶対に美味しいと言わせてみせる」なんて高らかに宣言しておいて、随分と清々しい顔を、甘音はしている。

 そんな空美の視線に、おそらくは気付いたのだろう。

 甘音は、ふっと、穏やかな笑みを漏らした。


「出せる力、出せる方法で、全力でやったけど――でも、ちょっとだけ、気が弛んじゃったのも本当かもね」

「どういうことですか?」

「そんな喰ってかかるみたいな口調で言わなくてもいいじゃない。うーん、料理勝負っていう名目ではあったけど、でも、私の目的はこの崩英久士に『美味い』と言わせることだからね」

「だから、何ですか?」

「だから? 空美が私の後に控えてるんですもの。安心しちゃうのも、分かるでしょ」

「……なんですか、それ」

「え、いや。だから全力ではやったのよ!? 今、出せる限りで」

「あなただったら――全力で無理なら、血反吐吐いてでもさらに力を出すのがあなただと、私は思いますよ」

「そうかもしれないわね。でも――」


 静かになった会場で、突如、轟音が上がる。

 コロッセオの入口の方からであった。僅かな噴煙も、その音とともに大きく巻きあがったのだから間違えようがない。

 中央のステージの横で見つめ合う二人には、それほど関係ないことではあるけれど。

 それでも、少しと雖も、考える時間を、甘音に与えた。


 ――でも、あなたを信じているから。あなたに勝ってほしいから。


 それが、正直なところ、甘音の本音だった。

 HelleNでの、勝負が決まったあの時。売り言葉に買い言葉で、勝負を受けてはいたのだが。実際のところ、空美の気持ちの変化に、若干ながら気付いていた甘音にとって、それは勝負であって、勝負では無かった。

 勿論、目的を見失ったわけではない。

 だが。いや、だからこそ。この選択ができた。

 今、甘音がここに立っている目的は、崩に『美味い』と言わせること。

 それだけなのだ。

 相手は空美であるけれど、敵は崩英久士なのだ。

 ならば。

 そう考えて、いるならば。

 だったら、空美に後を譲るのも、甘音としては不可能な選択肢ではなかった。

 綺麗な言葉で、体よく飾るのならば、空美を信じているから。

 その実、裏の部分として、空美を心配していたから。

 辛籐姉妹に散々蔑まれて、でも、言われるまでもなく、そのコンプレックスは、誰よりも感じていて。そんな空美を、気にかけていたから。

 もっとも、ここで空美も崩に破れてしまえば、傷の上塗り、泣き面に蜂、逆効果も甚だしい、大失態にはなるのだが。それでも――いや、ここでやっぱり、あの言葉に戻ってしまうのだろう。


「――あなたを信じているからよ。空美」


 空美は、不可思議な目で甘音を見つめ返し――そしてそこで見た、意思の強い眼の輝きに、ようやく、この事態のネガティブな印象を、拭う事ができた。


「ああ、もう。分かりましたよ」


 そう言い残し、前へと、崩の方へと進みゆく。


「見ていてください。甘音さん」






***






「あららぁ? もう、終わりかしら」


 噴煙が上がっている。

 その先を――地に伏す塩谷の方を、一瞥し、宙美は、渋堂を顎で指して言った。


「次は、あなたの番? 渋堂我竜」


 挑発的な瞳でそう指名され、本人、渋堂は「いやいや」と手を振った。


「何言ってんだよ?」

「あらぁ、お耳が遠いんですの?」

「俺は、そっちの白髪のねーちゃんが邪魔してくるまで、動く気はねーよ。お前らのタイマンだろ」


 クスリ、と宙美が笑った。

 その嘲笑の指す先には、壁に叩きつけられ、今は血の海になっている一人の少年。


「じゃあ、通っていいと、そういうことよね?」


 まるで、サキュバスのような。禁欲的な笑みを、宙美は湛え、そして、真香へと、アイコンタクトを取る。

 先に進むわよ、と。

 しかし、そんな宙美を、渋堂は笑った。

 姉も、無反応で、ある一点を見つめている。


「だからさぁ」


 その瞬間。

 青い光が周囲を強く照らした。その光は、束のような形状をとっており。それが、一本、二本、三本。二対で六本、先程まで地に伏し、完全に死んでいた少年の背中へと、生えるかのように連なっていた。

 その様は、異名通り、『天使』。

 六枚の羽をもつ、異形なる者。

 『三柱天使』という異名を、宙美は思い出す。


「通さないって、言ってんだろうが」


 宙美が息を飲む。

 ――刹那。

 六枚あった翼の一枚が、薄れ、消えてゆくのを目で見た刹那。

 それを目撃した宙美の体は、強く後ろまで吹き飛ばされていた。


「へえ、僕のあの蹴りを五度も防ぐんだ」

「……クスリ。あの一瞬で、七回も蹴りを放ったのね」


 最早。

 ただの化け物の戦いになっていた。

 しかし、二発蹴りを受けたのも事実のようで。宙美はふらりと、片膝をついた。


「カラい、蹴りだこと」

「味が分かるの? 異能だね」


 ぱさりと、光の翼が、もう一翼落ちる。

 壁が割れ、波動が走り、凄まじいの力の衝突が、無表情で見つめる真香の前と、腕を組み、壁に寄り掛かって傍観を決め込む渋堂の狭間で、巻き起こった。

 ほんの一秒の間で、落雷のような轟音が無数に周囲へと鳴り響く。


「やるね」


 右の手刀を左手で受けられ、顔への貫き手を身を捩って回避し、返しの右足を左足で受け止められ、塩谷が呟いた。

 そこから、壁を蹴って、地面を蹴って、肉眼では直線が紆余曲折に反発したとしか認識できないような軌跡を描き、宙美の後ろをとる。

 左肩、左肋骨、右肋骨、左大腿。――急所の右腎臓を狙った一撃で、螺旋状に上半身を回しながらの半円運動で避けられ、代わりに右肘の肘打ちが返ってくる。

 それを塩谷は、顔すれすれで右手で受け止め、大きく身を引いた。


「……こふっ」


 と。そんな小さな音を漏らし、宙美が血を吐き捨てる。吐き捨てようとする。

 しかし、止め処なく流れてくる吐血は、どこかの器官まるまるの出血だろうか。

 ちょっと吐き捨てた程度では止むことを知らず。おびただしく、口から流れ続けている。


「もう、諦めろよ」


 三枚になった翼を翳し、塩谷は吐き捨てるかのように、そう言った。

 もはや、勝負は歴然だった。

 圧倒的とは言わないまでも、明瞭に、勝負は見えている。

 『あらゆる単語を極める』『ただし超常現象は除く』

 いくら、人体の限界を極めたとしても。完全に人間の限界を越えてしまっている塩谷を相手に、食柱毒まで使われては勝機などない。

 もう、立っているのもやっとなのだろう。よもや、意識があるのかどうかすら疑わしい。

 そんな足取りで、一歩。前へ出て。


「諦めない」


 宙美は力強く、そう言った。

 その眼光は、瞳は、普段の嘲笑するような色はなく、凛然としていて。

 だからこそ、塩谷はさらに気を引き締めて、拳を握りしめた。


「そっか、だったら――」


 塩谷の背中の羽が、さらに一枚消える。


「もっと本気でやるまでだね」


 嫌な癖が出てるな。と。渋堂は静かに見ていた。

 実際、もう食柱毒など使わなくとも、満身創痍の宙美なら、なんとかできるだろう。

 つまりは、無駄に大技に頼っているのだ。まるで、あの決戦の時のように。

 勝利を確信して、勝機さえ逃してしまいそうなほど、昂っているようにも見える。

 もっとも、ゲームの世界じゃあるまいし。こんな状況から油断で逆転される、なんてことは、まあ、万に一つも起こらないだろう。

 事実。塩谷の翼はあと一枚を残して、もう完全に、勝負が着いた。

 もう、立ち上がることさえできず。もう喋ることさえできない状態で――というより、もう、意識すらも、失ったような状態で、辛籐宙美は地面に倒れていた。

 ――というよりも、生きているかどうかさえ疑わしい。

 耳を傾けると、会場中がざわっと騒がしくなっている。決着が、つくのだろうか。

 そろそろ、見届けに行かないと。

 そうは思った。しかし。

 油断などは、していなかった。


「ありがとう、宙美。あなたの無駄死には、無駄にしないわ」


 耳を過ぎ去る、少女の声音。

 立ち止まる塩谷の真横を、白い長髪の少女が高速で通り過ぎてゆく瞬間であった。

 その先は、コロッセオ。


「通さねぇよ」


 しかし、塩谷を抜いても、渋堂がいた。

 両手を広げるように立ち塞がった渋堂は、獣の如き威圧的な瞳孔で、標的を睨みつけるかのように立ち塞がる。

 少女は――墨染の衣を纏った辛籐真香は、それでも一切の減速もせずに、渋堂へと迫る。

 その距離、十m。

 五m。

 一m。

 凄まじい速さで肉迫し、その少女に対して、渋堂は威力を押さえ、それでも素早く、右手を振るった。

 スルリ。と、いとも容易く、それは躱わされる。


「――!?」


 あまりにも無駄なく、最低限の移動だけで、拳を避け、さらには、渋堂までも通り抜けるかのように追い抜いた。

 その先は、コロッセオ。

 二度目になるその光景が、疲労で朦朧とし始めた塩谷にも、最後の背中を押す。


「させないって、言ってんだろ!」


 最後の翼を消費させ、塩谷は文字通り、一瞬にして遠く離された間合いを詰めた。

 ここで初めて、少女が立ち止まる。

 ほんの一瞬が、数秒にも感じられる世界の中。

 塩谷は、目の前の少女へと、思考を回転させた。

 どうなってるんだ。――何が起こったんだ。

 こいつの食柱毒は、『三億のスパイスを自在に操る』ではないのか。

 そんな一瞬の疑問に、ふと、思い至るかのように、答えが出てくる。

 否、だ。

 そうとは、限らない。

 今まで一度も、真香の食柱毒がそれだと、明言されていない。

 まさか、違う真なる能力をもっているとでもいうのか。


「浅墓な推理ね」


 そんな塩谷の心の動きに答えたとでもいうように、真香は、止まり行く世界の中で、そう呟いた。

 塩谷は右手を伸ばし、掴もうとする。

 それを、左に体ごと避けられる。

 今度は左手で、掴もうとする。

 真香は大きく後ろへと飛び退り、その範囲を抜ける。

 だったら、と。塩谷は強く地面を蹴り、一足の元、華奢な体の真香を両断するほどの気持ちで、大きく足を薙ぐ。

 くるり、と身軽に後方宙返りでそれを避けられた。

 ――時間がない。

 さらに追い打ちをかけようと力を振り絞る。正直、気迫を最大限に込めないと、もう立つのも厳しいほどに疲労が蓄積している。翼を六本全て消費するのは、それほどまでの、いや、それ以上の、疲労を伴うのだ。

 気迫を上回る、強い気持ちを拳に込める。

 最後の一撃。

 塩谷が弱りきった体に喝を入れて放った、最後の右拳。――それを。

 辛籐真香は、さらりと、あっさりと――掠りこそはしたものの――避けた。

 避けきった。

 塩谷の、食柱毒を用いた時間半停止状態の中で、あの少女は、すべてを避けきった。

 動揺と同時に、塩谷は立ち止まり。それでも耐えきれずに、両膝をつく。


「惜しいわ。もう少し力が余っていたなら、私を捕らえることができたかもしれないわね」


 無機質な声音が、どこか弾んでいる。

 膝立ちのまま見上げると、汗が頬を伝う、真香の余裕のない顔があった。

 しかし。避けられた。六回分の無茶な食柱毒を使い、相当体力が消耗していたとはいえ。ただでさえ強化された肉体に、さらに超高速化状態の塩谷の動きを、余裕がないとは雖も、完全に、回避しきったのだ。

 それは確実に、偶然な出来事であるはずがない。

 何が起こった。どんな異能だ。どんな能力だ。

 塩谷は必死に考えを巡らすも、そのヒントすら、彼女の漆黒の瞳の中からは見出すことができない。

 そんな塩谷の神経を逆なでするかのように、淡々と、氷点下の声音が聞こえてくる。


「……毒をもって毒を制す。そんな諺があるけれど。それでも、健康で丈夫な体を有している者の方が、毒に対して有効であるのは自明の理。当然の理だと、思わないかしら」

「何が言いてぇんだ。お前」


 反動でほとんど動けない塩谷に代わって、渋堂が訊いた。

 それは、至って単純な結論だった。


「毒なんて、結局は己を蝕む毒でしかないのよ。『食』を通して生まれた『天へと至る柱』であり、己の精神を蝕む『毒』。そう、世界では言われているけれど。それでもその実、その言葉は、文字通りに意味を準えていて。結局は本当に、『毒』だと、世界も人間もそう認識し、把握し、体得しているのよ」


 そうだ。

 食柱毒という言葉が生まれ、毒だと知り、それでも人は、毒に頼った。食柱毒をもっているものが強い。そんな認識すら、世間にはある。

 しかし、その常識を、摂理を、真香は嗤った。


「毒をもっている人よりも、毒をもっていない人の方が、速く、しなやかに、キレよく、動けるのは当然の事じゃない」

「…………」


 理屈ではそうかもしれない。

 本当に、物事の外枠のみを捉えた、言葉だけを捉えた、理屈では。

 屁理屈ですらない。しかし同時に、事実ではないはずなのに。

 二人の駆け引きの間に、渋堂はさらに下がり、コロッセオへの入口のすぐ手前まで来ていた。渋堂の背中からは、数多くの人々の気配が感じられてくる。


「ここから先は、守りたいという心でも、机上に叩きつけるつもりなのかもしれませんが。ですけれど――無駄です。そんな根性論、精神論は私には通用しません。どれほど使命感に駆られていても、どれほど守りたいと強く想っても、貴方たちのそれは、私の前では、実現不可能な、まったくの空論に過ぎません。私は――『砂上の楼閣』なのですから」


 貴方たちだけが、強い意思の為に戦うだなんて、思わない方がいいですよ。

 付け加えるように、真香は――『砂上の楼閣』は、そう言った。

 宙美も真香も、心の叫びを嘲るように、努力を馬鹿にするかのように、圧倒的な力で、凄絶な技量で、立ち塞がっていた。――いや、この場合、攻め立ててきた、と表現した方が適切なのかもしれないが。

 しかし。

 その実。守ろうという心も、叶えようとする願いも、実現する為の努力も、すべて彼女たちはもっており、行っていた。

 相手の根性論も、精神論も壁にはならない。

 なぜなら、そんなもの、既に自分たちは百%でもっているものだからだ。

 だから、もしも相手が百%の根性論、精神論できたところで、対等にしかならない。

 そして、真香の場合。料理も体術も、しっかりと研鑽を重ねてきた。よりよいものを作る為に香辛料の開発に勤しみ、自らの非力さを自覚し、逃げ切ることだけに主眼を置いた驚異の、異常にまで特化された――回避術。

 修錬と研鑽と。

 努力と根性と。

 しっかりと基礎を固め、技を磨き、努力を惜しまず。それでいて『砂上の楼閣』とは、とんだ皮肉もあったものである。

 そして。

 そんな彼女が、料理を奪われたのだ。

 無機質な、怜悧なまでの瞳の奥では果たして、どんな気分だったのだろう。塩谷には想像すらもつかない。

 ――それでも。


「邪魔は、させないけどさ」

「よく言ったじゃねーか塩谷。力貸すぜ」


 前門の虎、後門の狼。

 それに挟まれた、一人の少女。

 あわや一触爆発。――そんな折。

 会場からのざわめきが、突如として、不気味なほどに、止んだ。


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