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HelleN! -愛情よりも大切な-  作者: パンダらの箱
「the lowermost judgment」編 ―― 世界最低の審判
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Chapter2 隔絶の男、凄絶の姉妹

 静寂が『HelleN』には満ちていた。

 いや。

 そんな生易しいものではない。

 『HelleN』の中が、水を打ったように――水も凍えるほどに静まり返っていた。


「……つらい。」


 絞り出すような声で、その幸薄い男は申した。

 『HelleN』の角にあるテーブルに腰を降ろした彼は天川甘音の料理を所望した。あえて言うならば、命知らずである。――そう揶揄したいところではあるのだが、甘音は誠心誠意、食柱毒で答えた。

 ただならない様相の彼に対し、天川甘音は必殺料理『地獄核』を振る舞ったのである。

 件のときよりは、少なからず精度は落ちていたかもしれないが、それでも、天川甘音がまともに作った、自信作だった。

 男の周りには、塩谷始音と天川甘音、それに辛籐空美の三人が立っている。

 辛籐も、突如調理場で甘音が得意料理を作りだしたので、何事かと駆けつけたのである。

 仕事熱心な辛籐は、メニューのものを全て出し終えたとはいえ、厨房を空にしないためにすぐ戻るつもりでいた。――なのであるが、この男の表情を見て、この男の返答を聞いて、その動きは完全に止まってしまったのだった。

 男は、甘音の料理を一口食べたその瞬間。

 瞼を閉じて。――苦悶の表情を浮かべたのだ。

 甘音の『地獄核』は、甘音の地獄料理を八つ、甘音の食柱毒『支配』によって完璧に複合させた、異常料理だ。

 よもや見栄えに関しては、酷い以外の表現は思い当たらないが。

 それでも。

 本来の効果としては、食べた瞬間この世のものとは思えないほどの充足感に、満たされるはずの逸品であったはずなのである。

 それなのに。

 それなのに、だ。この男は苦しそうに眉根をひん曲げ、頬を噛んでしまったかのごとく嗚咽を漏らし、ただ一言。「つらい」と呟いたのだった。


「……やはり、愚生には頂戴しても、その価値を知ることができない味なのだろう。」


 何が起こっているのだろうか。

 塩谷と甘音は純粋にそう思い。店にいる他の客たちも別の意味でそう思い、何事か横目伏し目に彼らのテーブルを視界に収めようとしていた。


「あなたは、いったい……」


 甘音がようやくもつことのできた、本当のプライド。矜恃。それがほんの一瞬で、ほんの一口で、踏みにじられた。

 地獄料理しか作ることのできなかった、最弱に輪をかけて最悪までもを付けたしてしまったかのような、彼女は一変、彼女の謎の自信を一撃で謎ではなくしてしまうような、そんな力を手にいれたのだ。

 嬉しくないはずがない。つけ上がらないはずがない。

 事実それは、トップランクの力だったのだから。

 が。

 あの照真が戦慄するほどの強大な食柱毒をもってしても、彼にとっては、ただの苦しみでしかなかった。


「……時間を無駄にさせてすまなかった。」


 他意はない。

 言葉通りの意味である。

 皮肉でも中傷でもなく、それは時間というものを自分などのために使わせ、浪費させてしまったことに対する謝罪だ。

 男はそう言ったきり、一口しか手をつけていない料理を置いて、カウンターの方へと身を翻す。


「待ちなさいよ」


 しかしそんなことを、甘音が許すはずがなかった。

 プライドが踏みにじられたなら、立て直せばいい。矜恃に傷がついたなら、鑢でも鉋でもかけて磨いてしまえばいい。天川甘音の心は、こんなことで折れるはずがなかったのだ。


「不味くて、食べられないの?」


 甘音の言葉に、男は逡巡に似た長い沈黙をした。

 沈思黙考。数十秒の間を空けて、ようやく男が口を開く。


「貴様が悪い訳ではない。愚生の口がおかしいのだ……。」


 幸の薄い顔を引き延ばす。一体どの表情のつもりなのだろうか。見る人の誰もが、感情を類推できないような微妙な表情を、彼は形作った。


「口とかそんな次元の話じゃないと思うけどね。天川さんの料理は……」


 塩谷が呟いた。それももっともな話である。説明は不要だろう。


「私の料理が失敗してたの?」

「始音さん。食べてみてくれませんか?」


 甘音が疑問を浮かべ、辛籐がそれを解決する妙案を提示する。他人任せともいう。

 塩谷は、露骨に嫌な顔をした。


「いや、僕、死にたくないんだけど」


 本当の意味で死ぬということはないにしても、生命活動を一度終えるという点ではばっちり死ぬ。

 ばっちり、死ぬ。その日本語の誤用とも思えるほどの表現が、言い得て妙――否、その妙すらも省かせるほどに的確に、確実に殺すのが甘音の料理だ。

 もしも食柱毒が失敗し、ただの地獄料理の塊だというのならば、それは必至である。



「貴様の料理は、出来ていたと存ずる。それでも、愚生には関係がないのだ。」

「……?」


 不可思議な顔をする甘音に対し、さすがに悪いと思ったのか、男は小さく息を吸い込むと、甘音の方へとのろくさ向き直った。


「愚生が何者なのか、と。確か尋ねてくださったな。」


 男の声音は落ちつき払っており、冷静で、それでいて、底なしに暗かった。――単に暗いというだけではない。どうしようもならないような、取り返しのつかないような暗さが、彼の声音には篭っていたのだ。


「愚生は、崩英久士。この世界で最も価値のない。最も料理を知れぬ愚者だ。」


 ローテンションが道を譲ってしまうような陰鬱な声音で、男はそう言った。

 崩英久士。

 生命は『食』によって進化してきた。そんな思想が埋め尽くされているこの世界で、『食』を知ることができない彼は、どんな存在価値をもっているのだろうか。

愚生。

 小生よりも下に出て、拙者よりも貶めて、彼はその代名詞を用いる。それは、自らが何より尊ばれざるべき人物なのだ、と称するための自己表現でもあるのだろう。

 彼の言葉にもまた、価値などない。

 だからこそ彼は、自らの言葉に終止符を打ち続ける。――それはまるで、臭い物に蓋をするように。彼は自らの、この世界で最も価値のない言葉を終えたがる。――その実まるで、遺言のように。自らの最も価値のある言葉を、常に、下手から、使い続けるのだ。

 そして彼は、そのままカウンターの上に一万札を置き、するりと身を撓らせて、出口の方へと向かった。


「待ちなさいよ!」


 そんな彼を、またも甘音は引き留める。

 同情をした訳ではない。まして、慰める訳でもない。

 甘音は戦意に滾ったいつも通りの眼差しをさらに細め、修羅羅刹を体現したような鋭い眼になる。まるで――いや、まさにそれは。

 死神の眼。

 彼女は刈り取るようなその眼差しを崩へと向け、高らかに宣言する。


「また来なさい! 今度は絶対に、美味しいと言わせてみせるわ!」


 崩は当惑を顔に浮かべた。


「美味しいと、言わせる?」

「そうよ。最も料理を知れないのか何なのか知らないけど、絶対にあなたに美味しいと言わせてみせるわ!」

「そうか。愚生には、断る資格も権利もない。……従おう。近日また参らせてもらう」


 それだけ残し、崩は店から出て行った。

 一部始終が筒抜けだったわけではないのだが、店の中には気まずい沈黙が蟠っている。だが、事が終わったことを確認したのか、奥の方の席から、

「お兄さん。杏仁豆腐二つお願いします」

 と若いカップルの男が塩谷の方へと注文を叫んだ。


「ああ。そういえば営業中だったね。辛籐さん出番だよ」

「……そう、ですね」


 辛籐の声は平常より幾分か小さかった。気になって塩谷は、辛籐の方を振り返るものの、塩谷の位置からは、もう彼女の後ろ姿しか見えない。

 何やら辛籐の様子がおかしいような気がする。塩谷がそう思った刹那。

 カラン。

 再び『HelleN』の扉が開いた。


「やっほー。甘音ちゃんとその他諸君たち」


 天川照真である。

 そう。ここで物語はようやく、冒頭まで辿り着いたのだ。

 と。

 照真は短兵急に、先程の男の事を切り出した。


「もしかして、崩英久士がここに来た?」


 いつもの余裕ぶった顔ではない、真剣な眼差しの照真に見つめられ、塩谷は言葉に詰まる。照真と塩谷の方へと歩いてきた甘音が、それに答えた。


「来たわ。奥に来てくれる?」






***






 こうしてHelleNの奥で、塩谷、甘音、照真、辛籐の四人が向き合う形となった。

 店の前には「close」を立て、来店客は、いないことにしておく。


「父上。あれは一体何なの?」


 早速切り出した甘音のその言葉に、照真は真剣な表情のまま、静かに瞑目した。額には僅かに汗を滲ませ、微かに震える手で辛籐の出したお茶を一口に呑む。


「……あれは、気にするほどではないものだよ」


 むしろ、気にしてはいけないものだ。

 照真の言葉は、そこまで雄弁に語っていた。


「あの男は食柱毒持ちってことなんだよね?」


 塩谷の問いに、照真は深く頷く。


「うん。奴の食柱毒は『口内への食物以外の干渉を無効にする』だよ」

「……あれ? だったらそこまで難しい話じゃないんじゃない?」


 食物以外の干渉を無効ということは、当然、食物は有効という事である。だったならば、相手がザ非食物を提供する甘音だったからダメだっただけで、普通に美味い料理を出していたらよかった、というだけの話だ。

 拍子抜けする塩谷を尻目に、照真を大きく首を振る。


「口内への食物以外の干渉ができないってことは、手入れもできない、ということだよ。奴は相当な虫歯になっている。食柱毒の影響なのか、歯自体は現存しているみたいだけど、それでも奴に普通の食べ物を与えても、痛みが先行して味なんて全く分からない」

「だったら、始音くんや渋堂くんみたいに付与させればいいじゃない。痛みを越えるほど美味しい食べ物を出せば大丈夫よ」

「天川さん……話、聞いてるの? いま口内への干渉ができない、って言ったばかりだよ?」

「えっ、そういうことなの?」


 塩谷の言葉に、甘音は意外そうな顔をする。

 自分の方を見て首を傾げてくる我が娘に、さすがの照真も苦笑いを浮かべた。


「甘音ちゃん。だから難しい……いや、無理って話なんだよ。並の料理じゃ崩英久士に美味しさを伝えることはできない。味を感じる舌の神経は、顔面神経で痛点から伝わるのに対して、虫歯の痛みも似たようなプロセスで脳まで伝わるからね」

「そして、食柱毒を駆使して並じゃない料理を作っても、彼の食柱毒で無効化されてしまう、ということだよね」


 照真の後に続いて、塩谷が付け加えた。甘音にもようやく伝わったようで、ふうん、と咽喉を鳴らして、腕を組み変える。

 しかし無駄だろう。と塩谷は思った。作成者のミスで、どんな指し方をしても詰めない詰み将棋をしているようなものだ。八方手詰まり、どうもしようがない。……あれ?


「でもおかしいんじゃない? 食柱毒が無効化されるんなら、あの人天川さんの料理食べた段階で死んでるはずだよ」

「今回は地獄顕現を使わなかったみたいだしね。きっと甘音ちゃんが無意識に加減して、地獄料理Ver2生き地獄の域に入ってしまったんだろうねー」


 塩谷の疑問に、照真が答えた。

 天川甘音の料理は、普通に作られたものならば死ぬ。名前を書かれたら死ぬ、のようなあっさりさではあるのだけれど、今回そうならなかったのは、甘音が普通に作らなかったからなのだ。修行の賜物で、料理を切ったときの飛沫のみで殺傷できるようになったのだから、大舞台以外では加減をする必要性が生じる。照真は最早、甘太郎を連れてこなかったことを後悔した。


「ということはつまり、崩という人の能力は口の中に食べ物以外何も介入できない、ということで、その上食べ物すら虫歯で痛みにしかならない、ということですか……?」

「そのとおり。崩英久士。彼は紛れもなく、世界で最低の審査員なんだよ」


 辛籐の問いにも、照真が答えた。

 あまりに辛辣な彼の表情で、甘音はどことなく違和感を覚える。それに関しては、塩谷も、辛籐もそうだった。


「父上。もしかして、崩英久士に料理を作ったことがあるの?」

「……!」


 単刀直入な甘音の言葉に、塩谷と辛籐が息を飲む。

 照真は、あっさりと肯定した。


「……そうだよ。僕ちんは、あのクズ野郎に料理を作ったことがある」


 いつも自信に満ちている照真の声音は、この時ばかりは確かな陰りを見せていた。

 塩谷も辛籐も、甘音すらも、その声色と表情で何が起こったのかを察する。

 きっと、後悔したに違いない。

 崩英久士に触れたことを、言葉を交わしたことを、出会ってしまったことを。


「……二回。今の甘音ちゃん同様、納得できずにもう一度作ってみたけど、本当に、文字通りの『無駄』だったのさ」


 世界最高の料理人は、吐き捨てるように世界最低の審査員を揶揄した。

 その構図は僅かながら、遥か高みの三柱天使塩谷始音が、地獄の底の死神天川甘音を畏怖した情景に似ている。

 塩谷と辛籐は、事態の深刻さを悟り、恐る恐る甘音の方を見た。

 甘音は、笑っていた。


「大丈夫よ! きっとなんとかなるわ!」


 からっとした声で、晴れ渡った顔で、甘音はそんな阿呆な事を言った。

 本当に聞いてたの? 頭大丈夫? という言葉を、塩谷は浮かべつつも飲みこむ。

 分かっているのだ。――崩英久士に料理を作る事ほどの無駄さで、甘音を説得することもまた、無駄なのだから。

 まっすぐでブレぬ信念を掲げ、それを突き進む天川甘音。彼女を止めることができるものは、何もないだろう。

 だからこそ、真面目な顔で照真は止めるのだ。


「やめておきなさい。奴には、触れない方がいい」


 辛籐もそう思った。だけど、言わなかった。

 自分なら絶対に戦わない。立ち向かわない。

 『支配』の食柱毒をもつ甘音なら何とかできるのではないか、という思いがあったのは、少なからず本当である。しかしそれ以上に、その、自分だったら間違いなく逃げていた、という仮想の現実が、辛籐の胸に重く圧し掛かってきたのだ。


「父上。悪いけど、やめない。もう、宣言しちゃったもの」


 あなたに美味しいと言わせてみせる。と。

 その甘音の芯の強い言葉に、辛籐は無意識に唇を噛み締める。

 今朝の、ある人物の言葉が辛籐の脳内で幾度となくリフレインされる。

 空美。あなたはやっぱり今も、


 ――弱い子ね。


 調理場にいた全員が、入口の方へと振り返った。

 辛籐の頭の中で浮き上がった言葉は、現実にも確かな音として、全員の耳へと届いてきたのだ。


「な、君たちは……」


 照真がその二人を見て、言葉を失う。

 塩谷と甘音は、普通の表情でその人物たちを見ていた。

 そして、最も表情を強張らせていたのは、辛籐空美である。

 崩英久士に再会してしまった照真よりも絶望を顔に張り付けて、まるで夜の墓地に取り残されてしまったような恐怖を浮かべて。

 見上げることもできない。

 辛籐はその二人に気付き、視線を反らすことしかできなかった。


「何か用なのですか。……お姉様」


 塩谷と甘音が驚いて辛籐と、そして、入口に悠然と立ち聳える二人の少女を見比べる。

 一人は白い凄絶な長髪を垂らした、黒い着物の、小柄で華奢な和人形。

 もう一人は、短い赤髪をおしゃれに立てた、塩谷ほどの体型をした嬌笑の姫君。

 その正体は、辛籐空美の実の姉。

 ――辛籐真香(しんか)と、辛籐宙美(そらみ)だった。似てない。


「空美。自分の力量を正確に把握しているのはいいことかもしれないけれど――それに怠慢してすべてを悟った気になっているのは、やっぱり、弱いということでしかないのよ?」


 先ほどの言葉は、白い長髪の姉、辛籐真香が放ったものである。そしてそれに立て続けて、冷淡で平坦な言葉を続けた。

 隣の姉の言葉を聞いて、辛籐宙美は妖艶に嗤う。


「カラいこと言うわねぇ。できない人にできない事を要求することは、暴力でしかないというものですのに」


 宙美の言葉に、真香をフォローする気も、まして空美をフォローする気もさらさらない。言葉尻からそれに気付いた塩谷は、僅かに眉を顰め、その二人の方向へ睨むような視線を向けた。

 照真は、崩英久士を見たときほどではないが、やはり余裕のない焦燥顔。今日一日で、五年は老けこんだかもしれない。

 だが。あまりに狼狽している己自身に気付いたのか、照真は静かに目を瞑る。冷静に気持ちを切り替え、次に開かれた瞳は、普段通りの余裕に満ちたものとなっていた。


「やあ。久しぶりだね、辛籐姉妹。今まで、どこに逃げ隠れていたのかなぁ?」


 嘲弄を口元に張り付け、声に余裕を装う。

 しかし、まるで効果はなかった。真香と宙美は、照真の発言前後で別段の変化はなく、しっかりと照真の言葉を聞いて、言葉を返した。


「カラいこと言うわねぇ。でも、逃げも隠れも、していたように見えるものなのかしら」

「そうですね。しばらく都市部を離れて彷徨していましたから、そのタイミングと、見る人によっては、それはただの逃げに見えるものなのでしょう。――ですけれど。それを強要したのは、他ならない天川照真さんだと、私は記憶しているのですが」

「さぁ、何のことかなぁ。僕ちんの記憶の方には、既に無いみたいだよ」


 無言の強張り。否、言葉は交わしているのだから、有言の強張りだろうか。そこには、穏やかな暖色ながらも、ピンと緊張させたピアノ線のような雰囲気が漂っていた。


「えっ! 辛籐姉妹? ひょっとしてこの二人、空美のお姉ちゃんなの?」


 驚きながら、甘音は空美の方を見る。

 なんという時間差。

 空美は――答えなかった。


「そうだよ。このお二人さんは紛れもなく、辛籐グループ総裁の長女と、次女だ」


 代わりに、照真が答えた。

 自分たちで自己紹介する気がさらさらない二人を確認し、照真は言葉を続ける。


「白い方の彼女が、長女の辛籐真香。異名を『砂上の楼閣(ファントム・スパイス)』。そっちの名なら、聞いたことがないかい?」


 甘音は不思議そうに首を傾げる。しかし、塩谷の表情があからさまに変わった。

 それはまだ、渋堂と小競り合いを続けていた頃のことである。その頃料理界を賑わせていたのが、希代の料理人『砂上の楼閣』だ。否、現在では少し名称が変わっている。

 稀代の犯罪人。

 と。――今はそう呼ばれている。


「作る料理が全て、得意料理『百薬の長』となる、二億九千六百九十八種のスパイスを、把握し完璧に扱う料理人だよ」

「に、二億!?」

「いや、それはもう三億だよね?」


 しかし、甘音が驚くのは無理もない。塩谷も、自分で訂正を入れて、あまりに規格外の数字にただドン引きしてしまうほどだ。

 白い髪の少女、辛籐真香本人が静かに口を開く。


「地方が変わり、名称が異なっているだけというスパイスでさえ、そこには確かな差異があり、特色があるのものです。それらを大別し、既存のスパイスも未知のスパイスも使っていくというのなら、――三億程度の数字、当然ではありませんか?」

「……三億程度の数字、ねぇ」


 沈静で冷たい真香の言葉に、照真は露骨な表情で嫌悪する。

 まあ、あえて言及するまでもないが、当然であるはずがない。

 しかし、照真の引っかかったのはその部分ではなかった。


「そのスパイスの中には、人体に良い影響を与えないものが、いくつあるのかなー?」


 穏やかなその問答。

 しかし、目は笑っていない。その問いに対し、何の淀みもなく辛籐真香は即答した。


「九千九百六十六種。うち二百八十八種は猛毒とも、劇薬ともいわれているものですね。さすがにそれは、使いませんけれど」

「それでも、他の九千うんたらは、僕ちんがいくら言っても使っちゃうんだよねぇ……。だから、『百薬の長』――デス・メイカーなんて言われてるんじゃないのかな」


 『百薬の長(デス・メイカー)』。その効能として、『一口で寿命が一日縮む』と謂われている。それはとってつけたような、湧き出した噂めいたものではなく、確かな科学で証明された、真実味をもった風評なのである。


「『良薬は口に苦し』という諺があります。対偶的に考えてそれは、口に苦くないものは、良薬ではない、という結論にいきつきませんか? ――私はただ、自らが納得できるだけの旨いものを作ろうとしただけです。それを振る舞うように強要したのは辛籐グループ、そしてそれを犯罪だと蔑んだのは五味グループ、なのではないでしょうか。私は料理を作れと頼まれ、私は私の料理を作っていたまでです。そこに健康や不健康、良薬か毒薬かを考量する部分など、どこにあるのでしょう」


 何を言っているんだ。

 そう塩谷始音は思った。

 作ることを頼まれ、自分の料理を作り、それが犯罪視される。そこの部分だけ聞くと、辛籐真香の言っていることは、間違っていないのかもしれない。

 しかし、ことここに及んでは話のスケールが違う。

 煙草を吸って周りに副流煙を吸わせてしまうことと、すぐ隣でプラスチックを燃やしてダイオキシンを発生させてしまうことが違うように、美味しい毒を作ってしまうことは、どれほど理由を論ってみても、良い事だとは思えない。まして、作るだけではなく不特定多数に提供していた時期まであったというのだから。

 一口で寿命が一日縮む。

 一回の食事を少なく見積もって三十口で食べるものだとしても、一回の食事で一ヶ月寿命が縮む、ということになる。何も知らずに、一ヶ月その店に通ってしまった常連客がいたとして、三十ヶ月。二年半もの寿命が縮むということだ。

 いや勿論、『一口で寿命が一日縮む』というのが、健康に悪いということを揶揄した表現だったとしても、それだけのリスクを罪のない人間に無慈悲に与えてしまうなど、まさに。

 ――犯罪だ。


「だから、罪がない、とでもいいたいのかな? ぷーくすくす、笑っちゃうねぇ。君の作ったものなど料理ではない。あれは、毒薬だ」

「別になんと呼ばれても構いせん。――けれど、そうしたら料理とは何なのでしょうね」


 何を言っているのだろう。

 そう天川甘音は思った。

 しかし、塩谷と辛籐、加えて照真までもが静かに甘音へ振り返り、無言の視線を向けてしまう。

 それには塩谷自身、痛い所を突かれた気分になった。先程は人間の寿命を縮めることなど、犯罪に等しいと思っていたのにも関わらず、じゃあ自分のしていたことは何だろう。縮めるどころでなく、不死への拒否反応で一度生死を彷徨わせてしまっているではないか。

 天川甘音に至っては、もはや重く強大な問題過ぎて、棚上げするための棚までビクとも持ち上がらない次第である。しかし、それを指して人は地獄料理と呼んでいる。――甘音の周囲の人間以外も、地獄料理、と説明されれば納得する見栄えをそれはしている。

 まあ、正直ヘドロと置き比べても、どちらが新鮮なヘドロなのかしら、程度の迷いしかもたらせないこともまた事実ではあるのだが。


「料理とは、材料に手を加えて食べ物をこしらえること――と。辞書などを引くと出てくるとは思いますが。それでも、些か不十分な定義でしょう。意味だけをとるならば、大根を木彫りのように彫り抜いただけで、料理といえてしまうというわけです。ですけれど、もしも本当に大根で作られた熊が出てきたところで、それは料理なのでしょうか。――話が脱線してしまいました。さて、何の話だったでしょうか」


 感情のこもっていない声に、希薄で淡白な表情。

 ああ、こいつ何を言っても無駄だな、とこの場にいる誰もが思ったことだろう。少なくとも、塩谷はそう思った。

 辛籐真香にはおそらく、料理を料理じゃないと否定されても、憤慨するほどの矜恃はない。――そして、それを罪だと揶揄されても、取り繕って自己弁護をする気などない。

 その理由は、彼女の隣にあった。


「カラいこと言うわねぇ。……でも、これはお互い痛み分けってとこかしらぁ。どちらにしても私たちの罪が消えるわけじゃないし。まぁそれも、どっちでもいい話ですけどねぇ」


 辛籐宙美。『一を聞いて十を知る(サウザンド・ノウズ)』。

 天川照真が、そしてその本人が、そう紹介した。

 『一を聞いて十を知る』の異名をもつ天才。その食柱毒は。


「『単語を聞くだけで、それを極めることができる』」

「あら。『超常現象の類は不可能』という注釈が抜けていますわぁ?」


 甘音、塩谷が言葉を失くす。空美は最初から言葉を失っていた。

 より速くそのショックから抜けだしたのは、言わずもがな甘音である。


「聞いただけで極める? それはどういう意味なの?」

「あらぁ。私の話はいいわよ。姉さんの思想の前では、塵みたいなものだわぁ?」

「ええ。今は宙美の話ではなく、空美の話をしていました」

「……カラいこと言うわね」


 流石にちょっとショックなのか、しゅんとした顔で、宙美が一歩退く。自分から言い出した事とはいえ、さすがに可哀相かもしれない、と塩谷は思った。

 しかし。女性の人となりを質問するよりも先に、彼は聞き捨てならない言葉を耳にした。


「空美。――ということで結論ですが、あなたの料理は生ゴミ以下です」


 感情の篭っていない、平坦な声音。

 しん、と周囲が静まり返った。

 それは、彼女の声があまりにか細く、耳まで伝わりづらかったから、という訳ではない。むしろその反対に、あまりに静かなのにも関わらず、しっかりと、よく聞こえた。

 感情どころか、全くの無駄もなく。耳まで直通で入る『音』のような声。

 が。今はそんな話ではないだろう。

 ここで初めて、空美が姉に対して、反応らしい反応をみせた。


「生ゴミ以下……ですって……?」


 嗚咽。

 そう呼ぶのが適当かもしれない。

 しかし、確かな意思の込められた空美の声が、深く沈むように全員の耳へと染みる。

 真香はすっと一瞬目を閉じ、間もなく開いた。


「あ――生ゴミというのは少し飛躍した表現だったかもしれないわね。――というより、文脈的に飛躍した説明になってしまったのかも。もう少し分かりやすく話そうかしら。そうね……あなたと――そして、そこにいる頭の悪そうな子にも理解できるように」


 真香は、大人のデコピンでなら容易にへし折れるのではないか、と思われるほど華奢な指先を空美と、そして天川甘音に向けた。


「崩英久士の食柱毒がある以上、先刻あなたの振る舞った料理は、その見た目同様生ゴミよ。しかし、あなたは闘志を消さず、また崩英久士に挑戦しようとしている。もっともそれを、人は徒労と呼ぶのでしょうけれど。でも――あなたはどうなのでしょう――空美。そんな生ゴミを作る人間にすら、料理を作る前から劣等感を覚えて、戦うまいとしている。――確かに。今は戦う場面ではないかもしれないけれど、でも、ただ見ていることと、強さに畏怖して動けずにいることとは違う。空美――あなたは、どちらなのかしら」

「な、生ゴミですって! あんたいきなり何ぶちかま――」

「天川さん」「甘音ちゃん」


 憤慨する甘音を、塩谷と照真が窘めた。

 天川甘音は、ふと気付く。

 ただならぬ気配。

 よもや。真香には他の人間など映っていなかったのだろう。戦おうと思わなかったのは、塩谷も同じだった。まあ尤も、料理をしないことを前提に考えている塩谷にとって、それは仕方の無いことなのではあるが。

 が。

 空美はどうだろう。

 朝から、空美は姉の言葉を気にしていた。

 ――あなた、やっぱり弱い子ね。

 そんなたった一言。

 どこで、いつ、何を、どれほど見たのかは定かではない。むしろ、逃避生活を続けていた彼女らなのだから、見ていたかどうかすらもそもそも疑わしい。

 しかし、辛籐空美は深く、深く――心に引っ掛かった。

 相手の言葉どうこうというよりも、相手が誰だからというよりも、一番に。

 それは空美自身が、一番思っていたことだからだ。

 ただならぬ気配に。甘音は空美の方へ、恐る恐る向き直る。

 空美は、拳を硬く握り、唇を強かに噛み締め、爆発寸前の――と、もう少し文言を認めたいところではあるけれど、それよりも早く、空美は爆発した。


「……じゃあ、どうしろと、言うんですか……」


 別の意味で。

 心が折れた、ともいう。

 拳は脱力し、僅かに口を開け、空美はすべてを吐き出すかのように、そんな心情を吐露した。

 あまりにも、感情の篭められた言葉だった。

 あまりにも、残酷で、静かな叫びだった。

 そんな彼女を見て、塩谷は不意に、昔の辛籐空美を思い出す。

 自信に満ち、驕り、偉そうに格下よりも地の底にいる甘音を見下していたあの頃。

 あの頃から、空美はどれほど変わったのか。その間、周りはどれほど変わったのか。勿論、空美自身サボっていた訳ではない。むしろ――毎日が修業だった。毎日、一人でほとんどの料理を作っていたのだから。

 だからこそ、つらいのだ。


「本当に弱いわ。そして――とても腹立たしい。あなた自身も、生ゴミ以下――」


 風を凪ぐような音が、厨房に小さく漏れる。


「いいかげんに、しろよ」


 一瞬で脳のリミッターを外し、塩谷は地面を強く蹴ったのだ。

 何も考えていなかった。いや、考えている。

 あいつの言ってることは滅茶苦茶だ。出鱈目だ。ただ、空美を膾斬りに傷つけているだけだ。だからぶん殴ってやる。

 立派にも、そこまで考えている。だからそれ以上、何も考えていなかった。


「姉さんは本当に――」


 スパァンという音が周囲に響いた。

 油断していた照真も含め、他の人間にはその程度のことしか分からない。

 しかし、その中にいる一人だけがそれを見極め、見事に捌いていた。


「――カラいこというわねぇ。それなら、仲良しごっこをしてるこの子たちが激情しちゃうのも当然じゃない」


 塩谷の右拳――の少し奥、右手首を。

 辛籐宙美はあの一瞬で的確に見極め、右手で握ってしまっていた。

 突如止められた拳の勢いが、そのまま漣のような風圧へと変わる。

 その微風で短い赤髪を僅かに揺らせて、宙美は艶めかしいほどの微笑を浮かべた。


「『無刀取り』って知ってるかしら」


 勢いが完全に無くなった刹那。

 ――もう一度、宙美が呟く。


「『貫き手』って知ってるかしら」


 殺気を感じた塩谷が咄嗟に後方へ身を翻す。

 その微かに手前を、宙美のドリルのような一撃が射抜いた。

 塩谷が不死身であることを、宙美は知っていたのだろうか。

 知っていたのなら確信犯。知らずにやったのならば殺人未遂だ。

 そんな冗談のような一撃を今たしかに、宙美は放った。

 しかし、ここで怯む塩谷ではない。こんな窮地、過去に散々出逢っている。

 塩谷は退いた頃には、上体を右に半回転。そしてそのまま一回転させての後ろ回し蹴り。

 宙美はそれを右手腕でしっかりと受け止め、即座に左拳を返す。


「――っ!」


 息を呑んだ。

 呑んだ方は、首を七十度くらい回るほどぶん殴られた塩谷――ではなく。それでも自分の懐へとび込んでくる塩谷を見た宙美だ。

 ここだ。と、塩谷は思った。

 驚きに目を剥く宙美。虚を突いた今なら、攻撃を当てられる。

 塩谷は両拳を硬く握り締め、連続で宙美に浴びせかかる。

 全弾命中。――と見えなくもない。しかし直撃は一発たりともなかった。塩谷の攻撃は全て、宙美の肘か膝に全て受け止められたのだ。

 そんな今現在。塩谷には見えにくい角度だが(宙美が巧みな身捌きで隠しているのだが)、宙美は右腕を胸の前までもっていき、左手で押さえ込んでいる。バネを指で押さえつけるのと同じ力の溜め方だ。


「うわっ」


 竜巻のような一撃だった。

 後ろに体重を流しつつの左半身から、右方向に身体をひねりつつ腰と体幹の力。加えて、溜めこんでいた右腕を弾き、強烈な裏拳を塩谷の左脇腹の付近に浴びせたのだ。

 無惨にも、塩谷は調理場の床の上をゴロゴロと転がり、それでも尚勢いを殺せず、壁に強かぶつかる。通り道にあった食器具の類は、すべて周りへと巻き散らかった。


「始音くんっ!?」

「始音さん!」


 さながら劇場スタントを失敗した役者のように、非現実的な吹き飛ばされ方で弾き飛ばされる塩谷に、甘音と空美が声を上げた。

 もし、そのへんを歩いている中年のおっさんだったら、楽に肩の荷を降ろせたかもしれない。

 そんな一撃だった。宙美は言葉の綾などではなく、罪を拒んでいない。


「何の、つもりかしら」


 嬌笑。

 人を致死量の攻撃で突き飛ばしておいて、そこまで鮮やかに笑えるのか、と人を感心させてしまうほどの清々しい笑みを浮かべて、宙美が言った。

 その言葉の先には、塩谷と宙美の間に入るように立ち、右手を翳した天川照真がいた。


「……ッ! 痛い。マジで痛いやつだよこれ。なまじ死ねなかったのが一番痛い。肋骨全部折れたんじゃないのこれ」


 店の壁が壊れちゃったじゃないか。最後に吐き捨てるように付け加えて、塩谷が立ち上がる。傍目には奇跡としか思えないような光景だが、気絶すらしていなかったようだ。

 ずるずると右足を引き摺りながらも、どこか余裕をもった焦りのない足取りで、塩谷は照真の隣あたりまで戻る。


「空手に、ムエタイ。それに、最後のは中国拳法の発勁ってやつかな。一人梁山泊みたいなやつだね」

「あらあら。少年マンガの知識だけで分かったような気になられるのは少し不快ですわね。まあ、最初のスタイルは空手の類別でもまあいいですけれど、そのあと防御に使ったのは、シラットとボッカタオを受ける部位によって変えながら使ったものですし」

「いやいや。そこまで聞いてないんだけど」


 塩谷は拳を降ろし、脱力する。

 諦めたというわけではない。渋堂を真似ての、自然体の構えだ。いや。真似て、というのも正確には若干の差異がある。渋堂と争っていた頃は、よく使っていた構えなのだから。だから、正確を期すならば、現役時代を蘇らせての構えだ。

 宙美はその塩谷の意図を見てとったのか、いないのか。やっぱり、妖しいほどに、艶やかな笑みを口元に張り付けていて。


「あら、カラいこと言うわねぇ。まだやる気?」

「え? まだマグレ当たりだって気付いてないの? 幸せな奴だね」


 空気が、一気に張りつめた。

 まさに、一触即発。すでに一触れが終えられているだけに、いつ何かが爆発してもおかしいことではない。

 辛籐真香は、彼女には、これといった反応は見られない。むしろ変化がない。平常通りの平坦な表情と、無感情の中にもどことなく冷淡さを感じさせる眼差しで、今争っている二人を見ている。まあそれも、方向が合っているだけで、焦点が合っているのかどうかも疑わしいほどの視線なのだが。まさに元凶の分際で、なんとも安穏である。

 いつ、調理場そのものが吹き飛んでも不思議はないほどの緊迫感だというのに。

 そんな中。


「……始音さん」


 声が、緊張を打ち破った。

 その敬称からも察される通り、空美の声だった。


「何? 辛籐さん」


 辛籐さん。はこの場には三人もいるのだが。まあ、塩谷の気にするところではない。

 気がつけばすぐ後ろに、空美は歩いてきていた。


「もう、いいですよ」

「いいわけないですよ。何言ってるの? だってこいつらは――」


 だってこいつらは、辛籐空美を侮辱したんだぞ。

 我ながら、いや、柄にもなく、ヒーローみたいな理由でブチ切れたものだな、と塩谷は思った。

 事実に気付いて、僅かに、頬に熱を帯びる。

 しかし、だからといって、ああやらなきゃよかった、と後悔するものでもない。まして懺悔する必要性など皆無だ。誰もそこまでいってないものではあるが、昔の塩谷始音なら、仲間の為に激昂するなど、イエスへの相談が必要な位置づけの振舞いであった。


「いいんですよ。事実ですから。お姉様たちの言葉は、事実です。真実です。痛いくらいに、生々しいくらいに、的を射た意見なんですよ」

「そんな訳ないでしょ。生ゴミ以下だよ? あの、産業廃棄物みたいな、天川さんの料理以下だって言われたんだよ」

「始音くん……」


 失言。感情的になっていたとはいえ、動揺していたとはいえ、やっぱり客観的にみるとそれは、失言でしかなかった。

 すぐさま鉄拳制裁が加えられる。さて、本題に戻ろう。


「だから、辛籐さん。あんな修飾華美姉妹の言う事なんか、聞く必要ないよ。無駄だよ。どのくらい無駄かって、もうそれは天川さんの料理に後から手を加えるくらい無駄だよ」


 流石に、確信犯だった。

 甘音が笑顔で拳を構える。

 そんな、僅かに弛緩をきたした空気を、空美は辛辣な声音で再度、打ち破った。


「いえ。分かっては、いたんですよね。照真さんと戦ったときも、塩谷さんと天川さんの戦いを見たときも、自分は全然、ついていけてないなって。――思っていたんですよ。気付いていたんですよ。それでも、見て見ぬふりをして、みんなより、ずっと料理を作って、目を瞑って。それでも――」


 それでも、埋まらない差が、そこにはあった。

 そんなもの、言われるまでもなく。指摘されるでもなく。塩谷は知っていた。まあもっとも、塩谷にとって、自分より下手な人がいることなど当たり前過ぎて、詠華のことなど眼中どころか記憶にもなかったことと同様に、どうでもいいことだった。

 いや。下手な意味では無く。本当に、他意なく、どうでもいいことだったのだ。

 一緒に働いている仲間が、多少自分と実力が違ったところで、大した問題ではない。

 ――『多少の実力差』。『問題ではない』。

 そうだ。そう言えるくらいには、塩谷始音は、辛籐空美のことを認めていたのだ。

 それなのに。


「だから、少しだけ、抵抗させてください。私はお二人に、周りに、認めてほしいんです」


 空美が、告白するように、言い放った。

 塩谷は、はっきりと、いやそれでも具体的に指摘するにはぼんやりと実像の掴めない何かではあるが、朧気に、明瞭に、違う気がした。

 甘音もそう思ったようだ。熟考するように目を閉じ、じっくりと空美の話を聞いていた彼女は瞳を開き、口を開け――


「違うわね」


 ――肝心な言葉は、真香に掻っ攫われた。


「見事に見当外れ。目測外し。抵抗という言葉を使っている時点で、相手の圧倒的な力に畏怖し、足が震えているのを宣言しているようなものですもの。そんなもの、抵抗どころか反抗ね。思春期第一期で小さな子どもが大人にただ逆らっているだけなのと一緒よ。

そんな覚悟で対抗して、何を認めさせるつもりだったのか。私には不思議で仕方がありません。片腹痛いとはこのことですね。あなたが思っていることと、あなたがすることが、まったくもって不明瞭です。空美。――あなたは、何がしたいの?」


 縦板に水。それも、蛇口から流し続ける水道水だ。

 無機質で、無味で、それでいて、強弱一つなく流暢に、真香はそう言った。言い放った。言ってのけた。

 教科書通りに。想像するに容易に。口を間抜けな形で開けたまま、塩谷始音はそのせいで、呆ける破目となった。

 塩谷だけではない。

 言葉を失ったのは、そこにいる皆が皆同じだった。

 あまりにも、途轍もなく、凄絶に、そんな猪口才な修飾語など、最早不要なほど、辛籐真香の言葉は深く、見事なまでに空美を抉った。顔を背け、目を反らし続けてきた凄惨な現場を、むざむざ見せつけられた気分。そう評すと、まるで辛籐空美の実力そのものが凄惨な風体ではあるが、それでいて誤差が僅差に見えるほど、真香の言葉は芯に迫っていたのだ。少なくとも空美本人は、そう感じた。


「……わかってるって……、言ってるじゃないですか……」

「私は必要のない事は言わない主義なの」

「だから――」

「私の言っている言葉の意味を、理解しているの?」

「そんなこと――」

「先刻も、言ったはずですけれど、」


 言い訳は聞き飽きた、とでも言いたげに、真香は空美に二の句を継がせなかった。

 真剣に、真剣よりも鋭さを含ませた真香の言葉に、ついに空美本人までもが、口を閉ざすことしかできなかった。

 静まりかえる一室。調理場。

 本来料理をする場、しかも料理をしなければならないような時間に、本当に場違いに、そこは今、殺伐とした空気を漂わせていた。


 ――自分の力量を正確に把握しているのはいいことかもしれないけれど。

 ――それに怠慢してすべてを悟った気になっているのは、

 ――やっぱり、弱いということでしかないのよ?


 一言一句。何一つ違えずに、同じ言葉を。全く同じイントネーションで、言った。

 真香が調理場に入って来て、唐突に放った言葉。

 つまり、これが結論。

 これが主題。

 わかっただけでは、何も変わらない。

 わかって、納得して、理解して、それで引っ込む。

 勝てぬと理解して、その強さの後ろに立つ。

 虎の威を借る狐。いや、もはやその威張る、という気概すらも失っている、牙の折れた獅子は、一体何を持っていよう。


「カラいこと言うわねぇ……」


 クスクス、と宙美は上品な笑みを溢し、しかし言う事はそれだけで、姉の真香と同じく、真っ直ぐに空美の方を見据えた。

 無機質で淡白で、それでいて淡くもなく冷淡な真香の視線。

 目元と口元を緩め、艶やかに、さもすれば、小馬鹿にするような宙美の視線。

 そして、そんな視線の先を見つめる、『HelleN』の面子と、五味グループの顔ともいえる、照真の視線。

 勿論。その視線の先は、空美しかいなく。

 そして空美は、瞑目して、深く考え込むような表情をとっていた。


「…………」


 今まで。正確には、天川甘音に破れ、『HelleN』に来てから今までの間。

 ――私は、自分に自信をもって、いられたのだろうか。

 空美は、そんなところから、考えた。

 思考が進むほど、思索がうねるほど、結論までの道のりが難局し、いつもいつも、道の途中で投げ出して、前を向いてきた。

 いや。

 前を向いた気でいた。

 結果。内訳。中身を見ると。

 何一つ、前になど進んではいないのに。

 なにが『THE END OF ROAD』だ。

 ――道を閉ざしていたのは、私ではないですか。

「天川甘音さん」


 少女が、口を開いた。

 それは、先程までの絞り出すような嗚咽混じりの声音ではなく。

 しっかりと。自分というものをもった、凛とした声音だった。どことなく気品があり、塩谷からしてみれば、昔の傲岸不遜だった頃の辛籐空美を思い起こさせるような、鼻につく声色なのではあるが。――それでも、華はもっていた。


「なにかしら、辛籐さん」


 少女も、問い返した。

 姉妹三人の会話を聞いていれば、ここで末子の辛籐に立ち塞がろうなどとは、正気には思わなさそうなものではあるが。とはいえ、甘音のこの言葉は、声は、正しかった。

 敵として見ている。

 対等に、ライバルとして見てくれている。

 空美は甘音の言葉の中に混じるその想いに感謝して、安心して、少なからずの勇気をもらったのだから。


「勝負です。私と、勝負をしてください。――もう、負けませんから」

「へえ。私も絶ェッ対に、負けないわよ?」


 空美が喧嘩を売る。甘音が買う。

 そんな、廉価販売ではあるけれど。しっかりと、二人の間で、勝負は成立したのだ。安い挑発とは、このことを言うのかもしれない。


「いや。なんでそんな流れになってるんだよ、二人とも」

「君たち……ビックリするほど見事に、あの姉妹の思惑通りにさせられてないかい?」


 塩谷と照真の言葉も、最早二人には聞こえない。聞こえても無視。馬の耳に念仏。馬耳東風。どこふく風である。――なんて、文字通り言葉遊びにしりとりしている場合ではなく、戦争の盟約はとんとん拍子に進んだ。


「ルールは、私たちが最初に戦った、スタンダードルールでいきましょう」

「いいわね!」

「作る料理は一人一品、何でも自由」

「いいわね!」

「しかし、審査員はあのクズ――ああ。崩英久士です」

「クソね!」

「ええ。ですが、燃えるシュチェーションではありませんか」

「そうね。燃やし尽くしてあげるわ!」


 さて。何を燃やし尽くすのかはこの際――ここまで盛り上がってしまった折――不問に帰すとしても。

 かくしてこうやって、史上最低の審査員、崩英久士がジャッジを務める、天川甘音のプライドと、辛籐空美の意地を賭けた戦いが、ついに、決定したのであった。


「…………」


 塩谷と照真の二人に至っては、もはや言葉もない。

 と。 

 ここで切りよく場面展開に進みたい所ではあるが。空美は――辛籐家の、虐げられてきた末娘は、キッと滾るような眼差しを、甘音から違う人物へと向けた。人物たちと称した方がより適切だろう。ともすれば、もはやその向けた先について、言及するのはやや不必要なものではあるが。それでもあえて、それを名指しするのならば――


「お姉様」


 凛とした声が、厨房に聞こえ渡った。

 指す先は勿論、辛籐真香と、辛籐宙美。

 料理人という存在からも隔絶された生きる都市伝説『砂上の楼閣(ファントム・スパイス)』と、料理人という肩書すら必要としない完璧超人『一を聞いて十を知る(サウザンド・ノウズ)』の二人。姉妹。

 その二人が、二人とも、片や凍えることさえ忘れさせるほどに怜悧な、片や戯言を聞いているかのように小馬鹿にした視線を、空美へと向ける。


「あらら? どうかしたのかしらぁ?」

「…………」


 威圧的、ともいえるほど、強烈な眼光に曝されつつ、それでも空美は、言葉を飲み込むことなく、口を開けた。


「その試合が終わったら、次は貴女達の番です」


 塩谷が、照真が、まして甘音までが、その言葉に驚き、目を見開いた。

 まさかの宣戦布告。

 『○○が終われば、××』は、場所、時代を選ばない素晴らしき死亡フラグではあるのだけれど。それでも、死に体に評すには忍びないほどに、空美の眼は輝きを放っていた。


「次の試合に勝ったら――ではない所、少しだけ嬉しいわね。やっと、生ゴミで甘んじることをやめてくれるというのかしら」


 言うに事欠いて、未だに生ゴミだった。

 そんな真香の言葉も撥ね退けるように、空美は高らかと言い放つ。


「勿論勝ちます。そして、貴女達も――潰します!」


 ニヤリ、と。

 塩谷始音は笑った。

 飄飄と佇む真香も、艶やかな微笑を湛える宙美も、未だそれに気付いていない。

 空美以外など眼中にもないのかもしれない。

 まあ、対抗するわけではないが、塩谷も、姉妹のことなどどうでもいい。

 ただ、嬉しかったのだ。

 何かは分からない。考えれば分かりそうなものではあるが、考える気も起きない。――いや、そもそもにして。考えなければならない程複雑なものですら、ないのかもしれない。

 俯いていた彼女が前を向いたなら、諦めかけていた彼女が希望をもったなら、塩谷自身、協力は惜しまないほどの思いだ。

 まあ、料理以外だけで、だけど。

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