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HelleN! -愛情よりも大切な-  作者: パンダらの箱
番外編 ~不落嬢絶体絶命! 限界との闘い~
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助けて! トイレに行けないの!

「それで、相談なのだけれど……」


 ……随分と回りくどい事をしたような気がする。

 辛籐空美はそんな事を考えながらも、未だ緊張感の中から抜けだせずにいた。

 とりあえず布団はそのまま畳んで押入れに突っ込んだ。無論、不潔すぎるので辛籐としては胃に穴が開きそうな程の不快感と闘わざるを得なくなってしまったが、背に腹は代えられない。

 ここで布団を洗おうと即座に動くのも不自然だ。そもそも掛け布団やシーツはまだいいとして、敷布団の方は洗うのに手間がかかる。客人を呼んでおいてそこまでするのは流石に違和感があるだろう。少しでもバレそうな素振りは控えなければならない。何せ相手は天川甘音である。彼女こそが、幼少期から辛籐の口に甚大な被害を与えてきた諸悪の根源、天川甘音なのである。

 故に辛籐は気を抜かない。何気に天川は勘も良く、あまりヒントを与え過ぎたら確信まで届かずとも勝手に正解らしき何かに辿りついて勝手に納得してしまう。だからそれらしく思われそうな動作すらもNGなのだ。

 もしそれが根拠の無い思いこみだったとしても、天川は一度思いこむとそれをまるで事実のように認識する。証拠を見せずとも「辛籐空美が漏らした」と思われた時点で終わりなのだ。

 辛籐は決意する。絶対に押入れの中の秘密だけは守り抜くと。

 そのためには何があっても絶対に天川甘音から目を逸らさないと。

 ……つまりっ、ここからが正念場……!


「って、空美。聞いてるの?」

「……もちろん聞いていますよ。甘太郎さんの話でしょう?」


 辛籐空美と天川甘音はちゃぶ台を挟んで対峙していた。

 言うまでもなく対抗意識を抱いているのは辛籐の側だけであるが、そのせいでどこか緊迫感のあるお茶の間となっている。

 ちなみに辛籐は宣言通り着替え、彼女らしからぬカジュアルな服装となっていた。汚れたパジャマだけは洗濯機に突っ込めたのは幸いである。とはいえ洗濯機を稼働させてはいないのでパジャマは汚れたままだ。すぐにでも洗ってしまいたい衝動に駆られた辛籐は、自分で天川を呼んでおきながらも「甘音さん早く帰らないかな」と思わざるを得なかった。

 加えて最低限(辛籐基準で)しっかり拭いたとはいえ、汚れてしまった身体自体も洗いたい気持ちでいっぱいである。辛籐は汚れてしまった自分に涙を流しそうになるがぐっとこらえた。ここで泣いてはお終いである。

 何はともあれ、ここからが第二ラウンドだ。勝負はここからなのだ。辛籐は拳を握りしめた。

 とはいえ、何だかんだ言いつつここまで来れば後は天川を見張るだけで済む話である。よっぽど大きなミスを犯さない限りはバレる心配もないだろう。

 もっとも、もう既に問題なら起こっているのだが。

 ……それにしても、何と言うか……物凄くトイレに行きたい……!


「それでね、空美。うちの兄上ったら酷いのよ! この間なんてわざわざ家のお風呂を無視して銭湯に行って、そこで覗きまでして来たっていうの! 信じられないわよね!?」

「ええ、それは人としてあり得ませんね」


 ……ああ、早くトイレに……!

 辛籐空美は平静を装いつつ、深刻すぎる尿意に襲われていた。昨晩の水分補給がよほど響いているのか、それともまた別の理由なのかは不明だが、とにかくトイレに行きたい気持ちで頭がいっぱいであった。

 だが辛籐はここを離れられない。理由は最早言うまでも無く、天川から目が離せないからだ。

 以前に一度あったのだ。天川を家に招待して、自分が少し席を立った隙に隠していた「秘密のノート」を勝手に読まれていた事が。それだけならばまだ一度で済んでいるが、席を立った隙に何かが暴かれるという類似ケースならば結構ある。油断できないのだ。

 故に辛籐は動かない。動けない。

 しかしながら人間は構造的に長時間尿意を耐えられるようには設計されていないのだ。膀胱にも限界がある。ならばどうするべきか。簡単だ。会話を速攻で終わらせればいい。

 辛籐は冷静に、自身の思考を次々に展開していく。


「もうわたしは兄上とどう接していいかわからないの。そういえば空実にもお姉さんが居るのよね? 確か、すごく大嫌いな二人のお姉さん。確か、前に糞共とか言ってた……」

「えっ、そこまで言ってましたか? ……まあ、それはきっと“毒の日”だったから言いすぎただけでしょうね。確かに私は自分の姉達にあまり良い感情は抱いていませんが、平時であれば“お姉様”と呼ぶようなお上品な仲だったりします。表立って罵詈雑言をぶつけ合うような仲ではありませんよ。表面上はそこそこマシです」

「そうなの? なんだか意外ね。もっと憎らしく思ってると思ってたわ」

「少なからず憎らしく思う所はありますが、あの二人は色々と……私とは違いすぎますから」


 辛籐は感傷に浸りつつも、同時に脳内の“別の場所”で全く別の思考を行っていた。

 思考、分割。複数同時思考マルチタスク、展開。

 まずは姉達を思い返してセンチメンタルになっている自分。そしてこの状況を打破するために様々な手段を模索している自分。それから思い付いた可能性を次々とシミュレートしていく自分。果てには天川の注意が周囲に向かわぬよう細心の注意を払って監視を行っている自分。などなど、辛籐空美という人間が脳内で次々と分裂していくような感覚が彼女の全身を支配する。

 辛籐は複数展開した思考の一つで、天川の相談事についてじっくりと考える。

 天川が辛籐に相談している内容とは、シンプルにこういうものであった。

 ――――自分の兄との接し方がわからない。

 天川の相談とは本当にそれだけであり、辛籐もそれは知っている。だが天川家には少々複雑な事情がありこみいった話になるだろうと容易に想像できたため、辛籐はあえて天川を家に呼んだのだ。

 天川は何だかんだ言いつつも昔からの友人である。学校では話しにくいような事もしっかりと話した上で、気分をすっきりさせてやりたかったのだ。

 ……それがまさか、まさか私がすっきりする羽目になるとは……! いえ、まだ不快感ありますけど。


「うーん、空実の家も複雑よねー。空実の家は“辛籐グループ”っていう料理系の会社も立ちあげてたわよね? それって空美がいなくても大丈夫なの? 今まで聞き辛かったのだけれど、そろそろ聞いておきた……」

「ああ、私の事はどうでもいいじゃないですか。それよりも甘太郎さんの話ですよね。私に考えがあります」


 逸れかけたレーンを修正しつつ、辛籐はさっさと話を纏めにかかる。

 尿意は待ってはくれないのだ。時間が経てば経つほど蓄積されていってしまう。なれば辛籐に出来る事は一つ。たった一つのシンプルな戦法だ。

 速攻。

 それしかない。


「えっ、本当? 最近メッシ=デリシャとかいう怪しげな国に行こうとしている兄上をどうにか出来るの!?」

「本当に何処ですかその国……!? そうじゃなくて……」

「メッシ=デリシャは最近海の底から浮上してきた人工島で、最近になってようやく現代料理文化を知って参入してきたそうよ」

「そうなんですか、でもちょっと気になる話いきなり突っ込んで来るのやめて下さい。いいんですよそんな話は。あのですね……」

「わたしとしては、海外に行くのは自由だけれど兄上の場合色々な所に行き過ぎなのよね。たまには家に居座ってもいいのに」

「……ですから私に考えが……」

「やっぱり兄上とわかりあうのは無理なのかしら」

「くっ!」


 ……やはり勝手に話しているだけあって会話が成立しにくい……でも!

 めげず。挫けず。辛籐空美は諦めない。

 会話の芽を次々と刈られてしまっているが、それでも会話を打ち切るのを諦めない。辛籐は天川を真っ直ぐに見据え、怯むことなく二の句を放つ。


「あのっ……!」

「そもそも兄上は……」

「ここは一つ! 思いっきり正面から文句を言ってやったらどうでしょうか!?」

「文句……?」


 会話の流れが変わる。

 勢いで強引に切り換えるという、これまでの辛籐にはあまり無かった攻め方だ。だがこれのお陰でこれまで脳内で展開していた理想の流れにようやく繋がる。

 辛籐は勢いでまくしたてた。


「今、貴方は甘太郎さんに対して遠慮のような感情を抱いています。それはきっと貴方がまだ料理出来なった時に生まれた劣等感や、何だかんだ優れている甘太郎さんに対するコンプレックスもあるのでしょうが……そんなもの気にする必要なんてありません。言ってやればいいんです。

 兄上なんかじゃなくて、もうアンタって言っちゃえばいいんですよ! そして怒らせて、そこからコミュニケーションをとるぐらいがちょうどいいように思えますよ? あの人の場合。甘菜さんとの絡み方って概ねそんな感じでしたし、喧嘩は絶えませんがそれで逆に仲良さそうに見えますし。

 勢いで行って大丈夫です! 私が保証します。絶対に大丈夫です! 試しに照真さんに相談してみて下さい。そしてこの話もすれば、あの人ならきっと同意しますから! そうですよ! 他の家族にもじゃんじゃん相談すべきなんですよ!」


 やはり焦る気持ちと共に考えた言葉なので、ことのほか雑であった。

 しかしながら真正面から真摯に話す空実の態度が功を為したのか、天川は目を丸くしつつも納得気にうんうん頷いていた。どうやら今言った内容はともかく、天川を納得させるという点では大成功だったようだ。

 それもそのはずである。天川は感性で動く人間だ。筋道を立てて納得出来るだけの整合性を用意するよりは、感情論でズバズバといった方が納得しやすいというのは確かにある。これは対天川用のテンションでもあるのだ。そこに合理性などは持ちこんではいない。辛籐もそれは意図的にやっている。

 辛籐は止まらない。何故ならば、天川を単に納得させただけではトイレに行けないからだ。


「ともなれば甘音さん。勢いづいているうちにさっさと甘太郎さんの所に行って、まずは苦手意識を払拭する事をお勧めします。呼んでおいてこう言うのもなんですが、今なら学校と違ってすぐ会いに行く事も出来るでしょう? それで駄目だったらまた来て下さい。歓迎しますよ。

 けれど甘音さん。甘太郎さんだって本当は貴方と距離の取り方に困っているはずです。だから溝を埋めるためにも……!」

「わかったわ、空美。ありがとう」


 天川が覚悟を決めた顔で立ち上がる。

 ……よしかかった! ちょろいっ!

 辛籐は焦りのあまりおかしくなってきた思考で、何とか事件が終わりそうな事に歓喜していた。これで天川が帰れば後は何の問題も無いのである。

 布団とパジャマを洗ってシャワーを浴びる。それで問題無しだ。

 辛籐はすぐに立ち上がり、柔らかな笑みを浮かべて天川を促す。


「もう、行くんですか?」


 ……すみませんが、さっさと行って下さい!


「ええ。あなたのお陰で目が覚めたわ。行ってくる」


 ……よしっ!


「そうですか……ならせめて見送りますよ」


 こうして。

 天川甘音は辛籐空実に見送られながら、辛籐の部屋があるボロアパートから帰っていった。辛籐は天川の後ろ姿が概ね見えなくなるまでしっかりと確認し、それから部屋へと戻った。

 そこにあるのは静寂のみ。辛籐は勝ったのだ。あの天川甘音に勝利したのだ。

 辛籐はドアを閉めて軽く一息をつく。そして……


「っ!」


 全力でダッシュし、トイレへと駆けこんだ。正直もう我慢の限界であったのだ。逆によくここまで耐えられたと自分自身を褒めたくなるほどには辛籐は限界だった。

 しかし抑圧の時間はこれで終わりである。

 辛籐は解放感に包まれながらトイレのドアを開け、そして……


「……えっ?」


 ……足を滑らせ、空中で半回転しつつ床に頭をぶつけた。それはもう派手な転倒であった。相当焦っていたせいで、足元のカーペットをずらしてしまったのである。脳天への強すぎる一撃。派手な音。漫画的な表現をするのであれば星が舞っていた事だろう。

 自身のため懸命に闘った戦士はここで眠りにつくのだ。無念を口にする暇も無く、そこに救いがあるわけでもない未来へと落ちていく。その悲しみは一体どこへと消えるのだろう。それは誰にもわからない。辛籐はそれでも辛うじて思考しようとするが。衝撃のダメージはあまりにも大きく。

 残念ながら。

 彼女の意識はそこで途切れた。

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